最後の将軍徳川慶喜の苦悩 第九章(補章)大政奉還以降の政治情勢

第九章(補章)大政奉還以降の政治情勢 雑考
1 大政奉還  その意図と思惑
(一)増補改訂版はしがきに書いたように、大政奉還について若干書き足りないことがある。何か消化不良のような不満感が消えないのである。第六章でも述べたように、大政奉還山内容堂の進言を受けて行なったものだ。容堂は議政院を創り、重要な国事は万事そこで決めればいいという公議政体派の主張を慶喜に建白し、慶喜はそれを受け入れた。しかし、その後出来るであろう議政院がどんなものかは、誰も想像が出来なかった。
 そこで、その議政院における慶喜の役割について様々な憶測が出ているのは周知の事実だ。慶喜の権限を最大限に考え、大君政を目指していたというのが石井博士だ。逆にそれほど大きな権限を慶喜は考えてはいなかったのではないか、と推測する者もいる。大政奉還についてこのように評価が定まらないのは、結局負けたからに他ならない。大体この出来事について正面から取り扱った書物自体が極めて少ない。
 あれこれ言うよりも、後年、昔夢会での歴史家の質問に対して慶喜自身が語った言葉を、少し長いが載せてみよう(第六章でも引用しているが許されたい)。
  
  曰く「松平容堂の建白出ずるに及び、そのうちに上院・下院の制を設くべしとあるを 見て、これはいかにも良き考えなり、上院に公卿・諸大名、下院に諸藩士を選補して、 公論によりて事を行わば、王政復古の実を挙ぐるを得べしと思い、これに勇気と自信と を得て、遂にこれを断行するに至りたり。またその頃左右の者に向かいて、日本も行く 末は西洋のごとく郡県となるべしと語りしことありしが、これとて実は漠然たる考えに て、その順序・方法など夢にも思い及ばず、かつこの時直ちに施行せんことはとうてい できぬことなりと思いいたれば、ただ将来の見込みを述べたるまでなりき。」と述懐し ている。
 
 いかにも慶喜公らしい完璧すぎる模範回答だが、意外と当時の本音に近いのではないか。また、この時点で既に郡県制を視野に入れていたことも注目に値する。
 今日、大政奉還は、「それによって幕末政局は一気に流動化した、慶喜は権力を譲歩することによって、なにがしかの地位を確保しようとした」というのが大方の評価だ。
 しかしその後慶喜は、王政復古のクーデターで政権から排除され、鳥羽伏見の敗戦で政局から姿を消した。見方によっては大政奉還は幕府滅亡のきっかけとなったと言えなくもない。本当は日本近代化の幕開けとも評価されるべき快挙なのだが、結局、新政府誕生の糸口になったとして片付けられていると感じるのは、敗者の悲哀であろうか。

(二)筆者は第六章以降の記述で書き足りなかったことを、ここで補完しようと思う。
 何が足りなかったのか? それは、大政奉還に対する従来の手法を漠然と踏襲してしまったことにより、慶喜の真意を正面から推し測ることを怠った結果となってしまったからではないかと考えた。そこで、ここでは大胆というより、暴論に近い推測をしようと考える。御笑読して頂ければ幸いである。
 まず大政奉還に至った背景である。慶応三年五月二三日の兵庫開港勅許取得以来、反幕派はその活動を活発化させてきた。即ち、薩摩討幕派は長年の宿敵であった長州と手を組んで討幕運動を開始した。大政奉還前夜の段階になると事態は緊迫したものとなり、慶喜は何らかの手を打つ必要に迫られていたのである。
 慶応二年一二月五日の将軍職就任以来、慶喜は一貫して親仏幕権派の頂点に立って幕府単独による日本統一の道を探ってきた。これは当然のことながら薩摩・長州との先鋭な対立を生むことになった。
 しかし慶応三年一O月の段階に至り、慶喜は方向転換の道を選んだ。それは討幕派が決起すると内乱になり、欧米列強の内政干渉を招く!という危機感があったからである。つまり、慶喜は雄藩との対決を諦め、宥和政策への転換を行なったのである。尚、この政策転換の背景には、対仏六百万ドルの借款の不成立も影響していると思われる。 
 他方、西郷らの薩摩討幕派は、長州と薩長同盟という討幕軍事同盟を結ぶ一方で、公議政体派の土佐とも薩土盟約を結んでいた。要するに西郷らは二股を掛けていたのである。しかしこの盟約は、慶喜大政奉還をしなければ討幕をするという条件付きのもので、西郷らの本音は討幕であった。公議政体派の土佐山内容堂は内乱を憂えて慶喜大政奉還を進言したのである。
 以上の政治状況からすると、土佐・越前などの公議政体派を敵に回すことが出来ない慶喜は、政治判断として大政奉還をやったという面も勿論ある。ただ慶喜はそれ以前から大政奉還のプランを温めていて、その機会を狙っていたようである。これは序論で述べたように、板倉の言葉からも推測できる。
 いずれにしても大政奉還の直接のきっかけは討幕勢力の決起による内乱の回避であったことは間違いなく、要するに慶喜は討幕勢力との軍事衝突を避けたのである。
 以上をまとめてみると、慶喜の喫緊の課題は、まず雄藩との対決姿勢を改め、宥和政策を採ることによって内乱の回避を図ることであった。その方法として討幕勢力との融和のために公議政体派に妥協して議政院を創設し、そこで諸藩の意見を要約するということであった。だから慶喜はそれまでの正面の敵である長州とも極端な妥協をした。
 要するに今流行りの言葉を使えば、「オール日本で政治参加する」ためには、長州も薩摩も議政院に加わる必要があり、また当時の日本の状況からすると、そうしなれば政治の安定は望めなかった。だからこの慶喜の権力譲歩について、パークスが「権力を犠牲にすることの讃うべき模範を示した」と絶賛したのも頷けよう。
 また話が戻るが、公議政体派は幕末に発生した雄藩連合という構想の延長線上にある。つまり、幕府と雄藩が対立するのではなく協力して外国に対抗しようというものだ。その方法として議政院を設け、そこで重要事項を決定しようというのだから、公議政体派の力点は幕府と雄藩の融和にある。つまり、政治勢力の対立ではなく、融和の手段として議政院の創設を考えたのである。慶喜がこれに乗ったのは事実である。
 ただ筆者はこの議政院について、慶喜は容堂らより一歩も二歩も進んだ別の次元の構想を抱いていたと推測している。即ち、自らの手による日本近代化に意欲を燃やす慶喜は、当時の先進国イギリス及びフランスの政治制度をある程度理解した筈である。何故なら、ロッシュとも頻繁に会談し、身辺に留学帰りの側近を何人も置いていたからだ。怜悧な慶喜なら先進国の政治制度を理解するのは容易いことだ。
 ここに面白い資料がある。東洋大学の「東洋法学」に松岡八郎教授が載せた「幕末期における西周憲法理論」という論文だ。ここで教授は、西と慶喜の関わりを記している。
 即ち、慶喜に召された西は、慶応二年九月二五月に上京している。「何カ国政上ノ御尋ニテモ有ルヘキコト」と期待していたが、その期待に反して何もなかったようだ。
 しかし、三月一四日、突如慶喜がフランス語を習いたいと言いだし、これに召し出されて日々登営することとなった。しかし五月一九日、政務多用となった慶喜はフランス語の勉強を断念してしまい、西をがっかりさせている。
 そしていよいよ大政奉還を決行するという前日、俄に慶喜のお召しがあり、英国の議院のことや三権分立のことなどを矢継ぎ早に質問されたようである。これ以降もしばしば慶喜は西を召して西洋知識について下問している。
 慶喜は何故西が期待していたように、西洋事情について早い段階からの質問を西にしなかったのであろうか?確かに一つの疑問ではある。
 筆者は、こう考える。慶喜は既にロッシュと何度も会談している。だから英仏の政治制度についてある程度の理解があったのではないか?また、西を召すことで慶喜の腹案が外に漏れることを案じたのではないか?西は学者だが、歴とした幕臣ではなく側近でもない。慶喜は用心したのではないだろうか?
 話が大部逸れた。では先進国にあって日本にないものは何か?それは立法・議会である。慶喜の考える議会とは、容堂らが考える議政院とは似て非なるものがある。
 つまり当時の(幕藩体制下の)日本では立法と行政が未分離の状態にあり、日本を近代国家として発展させるためには、それに相応しい立法組織つまり議会の開設が必然かつ不可欠であると慶喜は考えたのではなかろうか?それは容堂らより遙かに進んだ日本近代化の青写真であり、討幕派の大久保・西郷らには想像し難い発想であったと考える。
 勿論その議会で、彼は重要なポストに就くことを予想していたであろうが、公議政体派に妥協して議政院の創設に踏み切ったのである。だから、石井博士のように大君政を創設して絶対的な権力を振るうことを目的としてはいなかったと筆者は考える。
 つまりこの時点で、慶喜は幕府独裁による日本近代化を断念し、諸藩と協力して日本を近代化しようという方向転換をしたのである。
 では、なぜ「大政奉還」という刺激的な言葉を用いたのであろうか?その答えは以上述べたことを考えれば明白である。
 立法と行政が未分離の幕府政治から決別して、立法府という新たな権力機構を創設するのである。これは幕府独裁からすれば権限委譲だから、「大政奉還」となるのである。
 当時の日本では国民主権の選挙議会などは有り得なかったから、慶喜が幕府独裁を止めて立法府を作るとすれば、それは権威ある朝廷に、形の上ではその権限を委ねるほかなかったのである。元来、「征夷大将軍」という官職も天皇に任じられたものであるから、慶喜の「大政奉還」という命名はごく自然の成り行きだったのではないか。
 では慶喜は行政権までも譲るつもりがあったのだろうか。そんなことは全然あり得ない非現実的発想である。なぜなら、そもそも議政院を構成する団体が藩そのものであり、構成員は藩主が原則であるからだ。公議政体論が急速に普及したのは、旧幕府も含めて藩の存在を前提にし、その権限に議政院が口出しをしないことが前提だからである。藩の行政権を(当分の間は)いじらない訳だから、諸藩の理解協力は得られ易かった筈である。また突然、藩の権限(即ち行政権)を返還すると言っても、そんな非現実的なことが出来る筈がなく、受け皿もなかったからである。
 さて、歴史を勉強する上で最も分かり難いのは「当時の雰囲気」である。世論と言い換えても良いが、若干ニュアンスが異なる気がする。一例を挙げよう。
 太平洋戦争の開戦を決定する際、東條首相が最も気にしたのは当時の国民の雰囲気だったという。では当時の雰囲気とは何か?一言で言えば根強い「開戦しろ!」コールである。 戦後になり、「当時の日本では国民の大半は戦争反対で、一部の軍部が独走した」などと、まことしやかな議論を展開する者がいるが、これは事実と全く異なる。
 当時の日本では、多数の日米開戦肯定派が存在したのである。大体当時の三大新聞を読んでみれば歴然ではないか。アメリカの横暴を糾弾し、国民の好戦意欲を煽っている。これを言われたら三大新聞社の人達は穴に入りたいのではないか。                       そもそも明治維新以来、日本は十年毎に戦争をやってきた。一八九四年日清戦争、一九0四年日露戦争、一九一四年第一次世界を経験し、これら全てに勝利し、日本は大日本帝国としてその勢力を常に膨張・拡大してきた。そして一九三七年から始まった日華事変は継続中であった。このような状況の中で国民が好戦的にならない筈がない。
 東條首相が最も恐れたのは、日米開戦を回避することによって発生するであろう暴動・焼き討ちだったという。現代人には一寸推測しがたいことだが、それが当時の雰囲気であった(誤解のないように断って置きたいが、だからといって先の大戦を必然だったなどと筆者が思っている訳ではない)。 
 では大政奉還したときの当時の雰囲気はどうだったのであろうか?確かに慶喜は画期的な近代化政策をやろうとした。しかし、これによって政局が大いに流動化したことも事実である。
 そもそも「大政奉還」の意味自体が、当時の大半の者に分かり難かったのではないか。この「分からないが何となく返す」というイメージを与えることも、あるいは慶喜の一つの目的だったかもしれない。なぜなら「返す」という言葉がもたらす漠然とした「返すのだ感」が、討幕派の矛先を鈍らせる効果もあったかもしれないし、あるいは慶喜がそういう効果を期待していたかもしれないからである。
 だが反面、「返す」と言われて、討幕派にも増して「訳が分からない感」のままの保守派の幕臣達や会津・桑名の藩士達は猛然と反発した。慶喜はこれらの撫順に苦労した筈である。また、慶喜の真意が分からず、しかも政治を権力闘争として把握している大久保ら討幕派は、今までの幕府政治を悪政と決めつけて、慶喜が本当に反正(反省のこと)の意思があるのかと盛んに訝った。また、王政復古派はいよいよ好機到来と勇躍した。
 はっきり分かることは、幕府政治が終わりを告げ、新しい時代が始まるということを人々が感じ始めたことだ。王政復古のクーデター直前の旧幕府側の探索活動を麻痺させたと言われている「ええじゃないか」の狂乱踊りも、新しい時代が始まるという民衆の期待を表現したものであろう。
 政局の流動化は即ち政局の混乱と不安定化でもある。これらがプラスと出るかあるいはマイナスと出るかは、さすがの慶喜にも予測不可能だったのである。
(三)小括
 今日の学者達も大政奉還について正面から評価している者が少ない。慶喜研究の第一人者である家近教授も「全て返すつもりであった」などと現実離れした議論を展開しているのは以前(第六章)述べた。歴史家は総じてこの事件について深い考察を行なっていない。 慶喜が欧米の政治制度を熟知した上で、立法府という新たな政治権力の場を作ろうとしていたことに対する政治制度論的な理解が歴史家には足りないと考える。
 
2 高橋秀直教授論文 「王政復古への政治過程」について
(一)便利な世の中になった。高名な大学教授の論文を一民間人が読むことが出来る時代になった。以前では考えられないことだ。初版では、博士の「公議政体派と薩摩討幕派」を読んだときの感動を記した。
 では表題の論文はどうか?率直に言ってしまえば、疑問が多く、納得できない記述が多々ある。幕末維新史研究で大きな業績を残した教授の論文に、筆者如きが異論を述べるのは些か気が引ける。しかし筆者は歴史学者でも何でもなく、ただの民間の慶喜研究家に過ぎない。この際、思い切ってこの論文に異論を述べようと思う。また、それによって徳川慶喜の行なった大政奉還の真意が照らし出されてくる。この手法は余り気持ちの良いやり方ではないが許されたい。
(二)この論文の要旨は冒頭の要約にもあるように以下のとおりだ。
 即ち、慶喜大政奉還により慶喜と薩摩は公議政体の樹立という目標で一致し、両勢力は接近した。王政復古のクーデターは、慶喜の打倒を目指したものではなく、新政権での薩摩の主導権の確保を目指したものであった、というものである。この論文について誠に未熟且つ僭越ながら、逐一反論してみたい。
①まず「大政奉還によって慶喜と薩摩は急接近して協調的になった。なぜならどちらも公議政体派であり、考えが同じ勢力が対立する筈がない、だから、大政奉還によっても幕薩の対立は緩和されるどころか益々激しくなったという通説はおかしい」という教授の主張の骨子である。この説には明らかな疑問がある。
 理由はいくつかある。まず第一に薩摩は公議政体派ではない。確かに薩摩の藩論は慶応三年六月六日の慶喜による兵庫開港布告以降、急速に討幕論が高まってはいたが、この段階ではまだまとまっておらず、公議政体派と討幕派が対立していた。小松帯刀慶喜の行動に理解を示し、歩み寄ったのかもしれない。それは小松が上級家老という立場にいて、ある意味で保守的だったので、急激な改革を望まない立場から慶喜に接近したのかもしれない。また慶喜も個人的に小松に対するある種の信頼感を持ったかもしれない。
 しかし西郷・大久保等は根っからの討幕派である。彼らにとっっての至上命題は討幕の一字のみであり、端的に言えば王政復古も公議政体も討幕の手段でしかなかったのである。つまり討幕は当初からの予定された行動であり、慶喜大政奉還によってそのやり方の変容を迫られただけなのである。そしてその期限は兵庫開港予定日たる一二月七日であることは初版でも述べた。要するに一度兵庫が開港されると諸外国は日本の内乱を望まなくなり、貿易の順調な進展は幕府側に大きな利益をもたらし、討幕幕勢力にとって絶対的不利となる。武力革命の時期は永久に失われるのである。
 政治を権力闘争として把握している西郷・大久保にとって、これは我慢の出来ないことであった。また、一O月時点になると薩摩本国の藩論はほぼ討幕で統一されていた。これには例の討幕の密勅という史上空前の偽文書の効果も大であったことは、既に何度も述べた。大体、薩摩本国から藩主を含めて大軍の兵力を動員して入京させている薩摩に討幕の意図がないなどというのは笑止と言うほかない。
 また、考え方が同じであれば協力関係になるという教授の論理は、あまりにも単純ではなかろうか?それは現代の政治状況を見ても明らかである。
 現代日本の衆参両院を構成する政党は、いずれも日本の政治制度の枠組みや経済のシステムつまりは民主政治と自由経済を認めかつそれを前提として活動しており、その意味では似たような政策目標を掲げている。しかし政党間の対立は尽きないし、同じ政党の中でも激しい派閥争いがあることは当たり前である。だから同じ公議政体派だから完全和解した!などというのは些か単純過ぎるのではないか?
 更に言えば、慶喜と薩摩の間には抜き差しならない不信感が充満しており、簡単に信頼関係を構築することなど出来る筈がなかった。それは慶応元年九月に遡る。慶喜が禁裏守衛総督の時、英仏米蘭の四国連合艦隊が大挙して大坂湾に侵入し、安政条約の勅許を迫った事件だ。このとき薩摩大久保は盛んに宮廷工作を行なって、徹底的に条約勅許を阻もうとした。これに対し慶喜が決死の覚悟で孝明天皇に迫り、勅許を取得して危機を脱したのは以前に述べた。このとき大久保は慶喜を「一橋は譎詐無限!」と非難警戒し、その能力に大きな危機感を持った。
 慶喜が将軍に就任する際も、その阻止のため宮廷工作をやり、更に兵庫開港問題の際もパークスをして敦賀方面に旅行させるなどの売国妨害工作を行ない、慶喜を困らせることしきりであった。また慶喜が強硬に兵庫開港の勅許を取得すると、慶喜を「是非私権を張り、暴威を以て正義の藩といえども圧倒畏威伏せしむるの所為顕然」と決めつけ、「此上は兵力を備え、声援を張り、御決策の色を顕わされ」ねばならぬと、武力対決の意向を表明し、討幕勢力の結集を開始している。
 更にはパリ万博に薩摩琉球国として物品を並べ、これによって幕府の権威を失墜させて、対仏六百万ドルの借款を不調に終わらせている。
 要する薩摩討幕派は、悉く慶喜への妨害行動にひた走ってきたのである。このような経緯がある薩摩と慶喜が歩み寄って信頼関係を築けるとしたら、それは神の世界の出来事であり、世俗世界の人間にはあり得ないことではないか?
 何よりも大政奉還後、朝廷は議政院の招集を二度も行なったが、諸藩は上京を渋り、招集が進まなかった。これは諸藩が徳川勢力と薩摩の緊張関係を肌で感じ、政争に巻き込まれることを嫌って日和見をしたからに他ならない。
 教授の言うように慶喜と薩摩が接近し、協力関係になったというのなら、諸藩はこぞって政治参加を求めて上京した筈である。この一点だけでも幕薩間の緊張は全然解消されていなかったことが、明々白々であろう。
②次に教授は、「慶喜自己批判と朝廷批判を行ない、政令二途から出ることを防ぐことが大政奉還の目的であり、朝幕二重政権の解消が眼目だった」としている。しかしこれもおかしい。
 そもそも朝廷には自前の権力がない。二重政権など冷静に考えればある訳がないのだ。では朝廷は幕末になってから、何故に幕府と違う見解を発表することが出来るようになったのだろうか。それは以下のとおりだ。
 まず幕藩体制という日本独特の政治制度の中で、雄藩は政治的発言をする場が公的には存在していない。だから朝廷を幕府が独占している時代はこのような矛盾はあり得なかった。しかし幕府の権威が衰えて雄藩の力が増大すると、雄藩は朝廷を介して政治に参加、口出しをするようになった。慶喜の言う二重政権の実態とはこれである。
 だから慶喜は、雄藩が朝廷を介して政治に口出しするというイレギュラーなやり方ではなく、立法府・議会を創設してここで堂々と議論を戦わせて国事を決するのが合理的だと考えたのではないか。
 要するに慶喜は、自前の権力を持たない朝廷批判などをしているのではなく、またそんな必要もなかった。むしろ慶喜は朝廷を世俗の政治から引き離したかったと推測する。つまり慶喜は、間接的にだが、雄藩の口出しが国政を乱すものとして憂いているだけだったと筆者は考える。
 また教授は、大政奉還の上表で、慶喜が「政刑当を失ふこと不少」、「畢竟薄徳之所致、不堪慚愧候」と自己批判をしていると述べている。しかし、筆者は、大政奉還の上表という大決断を行なうに当たって、当時の武家の作法として、自己がまず謙譲の美徳の言葉を述べただけだと考えている。本来なら「英仏に習って議会を開設するのだ!」と言いたいところだが、そんなことを言えば当時の守旧派や頑迷な公家達に、「征夷大将軍が外国の真似をする!」と言って叩かれ、それを薩摩が政治利用するのが目に見えていた。だから慶喜はそんなことは言えなかったのであろう。
③王政復古のクーデターについて教授は、薩摩は慶喜の打倒を狙ったものではなく、成立する新政権での主導権の確保を目指したものだと述べているが、結論から言えばこれもおかしい。
 何度も言っているが、兵庫開港宣言以来、薩摩討幕派は急速に慶喜打倒に傾いている。これは慶喜による兵庫開港の手法が強引だったことを大久保は非難しているし、多数の歴史家達もそれを理由として取り上げている。しかし根底にあるのはそんな手法の問題ではない。幕府による兵庫開港自体が薩摩にとっては死活問題となるからである。
 最幕末になると幕府側と討幕派の対立は鮮明になってきた。どちらも日本近代化の道筋は同じだから結局はヘゲモニー争いなのである。兵庫開港がなされれば圧倒的に幕府が優位になる。薩摩はこれを阻止すべく討幕に動いたに過ぎない。また、平和裡に議政院が開設されれば、慶喜追い落としの機会は永久になくなる。だからクーデターをやったまでなのである。
 更に教授は、辞官納地も慶喜にとって受け入れ可能だった!などと述べているが、そもそも慶喜のみが納地する必要が一体どこにあるのか。公明正大な政権を発足させたいのなら島津七十七万石をまず納地するのが当然ではないか?こんな屁理屈はどう考えても通用しない。
 要するに、討幕勢力の薩摩の大久保・西郷は、あくまでも日本近代化のヘゲモニー争いと慶喜追い落としに拘泥してクーデターを起こしたのである。教授が言うように公議政体派の薩摩が慶喜に接近したというのなら、クーデターなどやらずに土佐や越前と協力して議政院の開設に尽力すれば足りた筈である。
 しかし大久保や西郷等は全くそんな動きはしていない。彼らは小松の行動を把握していたかもしれないが、それはそれとして横目で見ながら着々とクーデターの準備に取りかかっていたのである。この辺りは二股を掛けるのが得意の西郷ならではであろうか。彼はそもそも薩長同盟を結ぶ傍ら薩土同盟をも結んでいる。こういうやり方はお手の物だったのであろう。
 だから教授が「薩摩討幕派は公議の理念に沿った」などというのはとんでもない話で、「薩摩は新政権の中で主導権を握りたかったに過ぎず、慶喜排除を考えていなかった」などという考え方には、筆者は微塵も賛成できない。薩摩は結局、公議政体だろうと王政復古だろうとそんなことは討幕の手段に過ぎず、慶喜排除のクーデターを当初のとおり敢行しただけなのである。 

(三)小括
  以上、この論文には疑問点が多い。それは教授が、明治政府の原点をこのクーデター政権に求めているからではないか。
 第八章でも述べたが、このクーデター政権は一二月二四日の慶喜議定就任決定で公議政体派に押し切られており、クーデターはほぼ失敗しかかっていたのである。これを救ったのが鳥羽伏見の一発の銃声であることは以前に述べた。
 この戦勝により「玉を担いだクーデター」などでは絶対に得られなかった圧倒的権力を確保した新政府側は、その時から本当の意味での「新政権」としてスタートしたのである。 つまり明治維新・明治政府の出発点・原点は王政復古のクーデターの時ではなく、鳥羽伏見の大勝利の時なのである。
 大政奉還は、真に日本近代化の原点とも言える快挙であったが、慶喜の敗北によってそれが正面から評価されなくなってしまったのは残念至極である。

(四)随分教授を批判したので、ここで少し罪滅ぼしをしたい。教授は徳川慶喜の能力を高く評価し、何度も「さすがの慶喜も」と表現している。
 また、この論文で示唆を受けたことがある。それを少し述べてみよう。大政奉還と将軍職の辞任を同時に出さなかったことについてであるが、この疑問について、教授は十一頁で明快な回答を提示している。即ち「麾下の不服を考えて見合わせたのである。大政の奉還と将軍辞任を同時になすことは幕臣の神経をあまりに逆なですると考えたのであろう」とである。これは、家近教授が、老中以下が反対したと記している(家近後掲百七十八頁)のと一致する。この鋭い指摘で、長年の筆者の疑問が氷解した。
 話は逸れるが、ほとんどの歴史家は慶喜に厳しい。しかも検証なしの無造作な非難をする者が多々いる。
 一例を挙げてみよう。佐々木克氏だ
(イ) 彼は、小西志郎編「徳川慶喜のすべて」(新人物往来社)の中で、以下のように述べている。
  つまるところ、将来の明確な構想や設計図がなくても「大政」を「奉還」する事は可 能であったのだ。(中略)慶喜にとっての大政奉還とは、その程度のものだったと思う。 つまり自分の政治生命や幕府の命運を左右するような{大事件}とは、当時は思ってい なかったのではなかろうか。(一〇九頁)
  これまで述べてきたように、彼の行動には一貫性がなかった.悪く言えば場当たり的 でさえある。当面の危機は一時的に避ける事ができても、政権の維持・強化のための、 展望・目標が明確でないのである。そしてまた、強力なリーダーシップの発揮を要求さ れる立場にありながら、彼にはそれがなかった。(一二六頁)」
 
 この人は、徳川慶喜を嫌いなのであろう。好き嫌いはその人の自由だが、歴史家ならこのように根拠のない無造作な批判は慎むべきではあるまいか。

(ロ)続いて、彼の著書「幕末史」(筑摩新書)を見てみよう。ここにも以下のとおり奇妙なことが書いてある。
  将軍になるまで、慶喜と四候は対等に話をしていた。しかし、今の慶喜は、将軍が特 別のはからいで、大名でもない隠居に会って話を聞いてやる、といった態度だったので ある。
 これでは以前のような率直な意見交換はできない。(二四五頁)」
 
 おかしな記述である。身分制度の厳しい江戸時代に将軍と諸侯が対等の訳がないだろう。しかも資料を見ても、慶喜が上から目線で四候に接したとは到底思えない。自ら食事の接待をして、写真まで撮らせていて、何とか四候(特に久光)を懐柔しようとした情景さえ浮かんでくる。

(ハ)更に京都大学の論文「大政奉還と討幕密勅」(人文学報第八〇号)に到っては、もっと凄い。曰く
  しかし慶喜=幕府が、大条理の基本精神を受け入れることを、特に将軍職の廃止をあ くまで拒否した場合は、武力を発動してでも実現を迫る。ここに到って大条理という公 論、正義を無視して、反正の実を示さない慶喜=幕府は討たれるべき存在となる。(二 一頁)
  この間、二四日に慶喜は将軍職の辞表を朝廷に提出した。(中略)これまでの局面か ら判断して、慶喜の将軍職辞退が、大政奉還の上表と同時か、近い日であったなら、あ るいは状況が変わることがあったかもしれない。しかし流れを変えることは最早不可能 であった。(三O頁)
  
 以上、佐々木氏のこの論文を読むと、安手の勧善懲悪時代劇の脚本を読まされている気がしてくるのは筆者だけであろうか?。佐々木氏によれば討幕派イコール善、慶喜イコール悪と言っているようで、彼の言はまさに西郷・大久保の代弁者そのもの、驚く以外ない。彼は、西郷・大久保に何か縁のある人か?とさえ思ってしまう。
 戦後しばらくの間、マルクス主義の歴史家達が、歴史を全て「階級闘争」として一元的説明をしようとしていた。佐々木氏の手法は、討幕派=善玉、慶喜=悪玉の一元化だから、これに似ているとさえ言えよう。
 慶喜を批判する者は、かなり有名な歴史家でもこのように無造作に行なう者が案外多い。嘆かわしい限りである。
 さすがに髙橋教授はこの手の人達とは大いに違って、慶喜を高く評価している。ただ惜しむらくは、どうしてもクーデター政権側の目線で慶喜の行動を観察しているので、慶喜に関する記述がやや物足りないのは止むを得まい。
 更に言えば、高橋教授の二つの論文に共通することは、京都の情勢を克明に照らし出していることには感服するほかないが、彼は、欧米列強(特に英仏)の東アジア政策には一言の言及もない。また幕薩対立の原点である兵庫開港に関する諸問題についても、何ら触れていない。これらは非常に惜しまれる。教授にその視点がなかった訳ではなかろうが、これらを研究する前に急逝されたのであろうか?もう少し生きておられたら、これらの点についても明快な回答を用意されたに相違ない。 

3 大坂城脱出について
 さて、ここでは(慶喜に成り代わり)大坂城脱出の弁明を少ししたい。慶喜の俗評を決定的に悪くしているのがこの大坂城脱出事件だ。無責任、臆病、最高司令官自らの敵前逃亡など、ありとあらゆる非難・中傷・悪口雑言が慶喜の頭上に浴びせられている。果たしてそうであろうか?
 以下、第八章と少し重なるが再度述べてみたい。開戦三日目の一月六日の時点で、京都奪回は、ほぼ不可能な状況にあった。藤堂・淀などの譜代・親藩が次々と反旗を翻していたからである。要するに、固唾を呑んで日和見していた諸藩が、「ここを潮時」と、雪崩を打ってクーデター側に参加したのである。そうなると、慶喜に出来ることは大坂城に立て籠もって抵抗することだけであった。
 しかしそんな選択が妥当だったであろうか?答えは否である。確かに大坂城に立て籠もれば、クーデター側は攻めあぐねることは必定であった。しかしそんなことをすれば、内戦になり、慶喜の最も恐れる外国の干渉を招くではないか。慶喜はその一点のためにこれまでありとあらゆる事に堪えてきた。この期に及んで諸外国の干渉を招いたら、何のために今まで我慢苦労をしてきたのか全く無意味になってしまう。慶喜には戦(いくさ)を止める以外に選択肢はなかったのである。
 ではどうやって戦を止めるのか。戦争というものは、これを始める時は皆威勢が良いが、敗戦を認めて降伏終了するのは至難の業である。なぜなら、意地、見栄、楽観論、戦後処理の恐怖等々様々な障害が噴出してくる。だから簡単には止められない。
 そもそもこの戦は慶喜が望んで始めたものではない。薩摩の卑劣な挑発に幕臣達が乗せられて始まった戦である。幕臣達は勝手に始めた戦でしかも負けてしまったので引っ込みが付かなくなってしまった。そこで慶喜を引っ張りだそうとしたのである。まずもって迷惑な話だ。では戦を止めたい慶喜はどうすれば良いか?主戦派を説得するか?しかし勝手に戦を始めた幕臣達だ。慶喜の説諭で止める筈もなかろう。
 例えは悪いが、太平洋戦争終結の時と状況がやや似ている。この戦争を終わらせたのは天皇陛下だ。御前会議でも誰も降伏を言い出せない。対米戦争を遂行したのだから尚更ハードルが高い。ありとあらゆる事が降伏の悪しき障害となる。言い出した者は殺されかねない。だから昭和天皇は自ら降伏の宣言をなされたのだ。「神聖にして侵すべからざる天皇陛下」のお言葉には誰もが従わなければならない。まさにご聖断であった。
 しからば慶喜はどうか?慶喜は神ではない。しかも武家の棟梁である。家臣に「戦を!」と縋(すが)られたら、それを断ることは出来まい。説諭で分かる連中ではない。下手をすると殺されるであろう。殺されて済むならそれでも良いが、慶喜が殺されれば更に収拾が付かなくなる。ならばどうするか?答えは一つだ。その場から逃げるしかないのだ。
 だから筆者は、慶喜大坂城脱出は必然だった!と理解している。またこのような選択をしなければならなかった慶喜を誠に気の毒に思う。そして無責任な主戦論者達を糾弾したい。
 更に何よりも、慶喜大坂城脱出を非難する歴史家には、是非その代案を提示してもらいたいものだ。あろう筈もないが。      
 慶喜公はやはり、「下手な言い訳はよせ!」と仰せになるだろうか?

4 鳥羽伏見で慶喜が勝利していたら、戦後処理はどうなったか?
 歴史に「もし」はないが、少し位は許されるだろう。
 もし慶喜が鳥羽伏見で勝利したら、いくつかの解決すべき問題が浮上するのは当然だ。 まず王政復古政府を認めるのか?それとも王政復古政府なるものを完全否認して、一二月九日以前の状態に戻すのか? この選択はかなり難しい。慶喜大坂城に拠ってからこのクーデター政権を否認する声明を出していたし、かなり怒っていた。一方、慶応三年一二月末の段階で、容堂・春嶽らの奮闘でクーデター政権への議定就任、つまり割り込みが決まっていた。だからこの判断は難しいところである。春嶽・容堂等と協議を行なってその結論を出すことになろう。
 ただいずれにしても、岩倉、中御門、正親町、中山等の反慶喜派の公家達は一掃され、天皇政府の組織を大改革したうえで、改めて天皇の名で諸藩に上京を命じ、議政院を開くことになろう。 こうなると日和見していた諸藩は上京するほかはない。
 では薩摩、長州の処分はどうなるであろうか。
 まず薩摩であるが、元来薩摩は藩の内部で、公議政体派と討幕派が拮抗していた。しかし鳥羽伏見の敗戦が決まれば、討幕派は一掃され、小松等の公議政体派が藩を掌握することになろう。慶喜に詫びを入れ、討幕派の西郷・大久保等を極刑に処して一応決着するのではないか。
 慶喜も薩摩が議会に参加しないのは政局安定の観点から決して望ましくないので、薩摩に妥協するのではなかろうか。島津久光との関係も復活するかもしれない。
 問題は長州である。長州は、蛤御門の変以来、藩を挙げて、反幕↓倒幕↓討幕と、常に幕府の正面の敵であり続けてきており、その一貫性はむしろ「痛快」というべきではないか。また、それに見合った軍事力を常に培養し続けてきた。
 慶喜はまず、責任者の処分と第二次長州征伐で長州が分捕り占領している領地の返還を求めるだろう。
 長州は、占領地の返還には渋々応じても、責任者の処分は拒否するかもしれない。そうなったら慶喜は開戦を覚悟するほかない。ただ今までと違って長州を取り巻く環境は急速に悪化して、孤立状況になるだろう。何故なら、薩摩は慶喜と和解しているので、長州に手を貸せない。そうなるとグラバーも、薩摩の船で下関に武器を運搬することが出来なくなる。何よりも、武器運搬を生業とする坂本龍馬も既にいない。
 下関は慶応元年の頃から密貿易の巣窟で、西洋商人達はここに群がって大いに儲けていた。しかし、である。「兵庫開港・大坂開市」によって正規の貿易が堂々と出来るようになれば、そんな危険を冒して下関でこそこそ物品を売り買いする必要が全くなくなる。
 兵庫の貿易は大いに栄え、ここを管理する徳川勢力は大いに潤う。下関の価値は全く低下してしまうのだ。また慶喜は長州と戦う前に、長州非難の議政院決議を求め、更に勅命まで奉ずるかもしれない。つまり、長州は再び朝敵となってしまうのである。
 また、戦になった場合でも、慶喜は大敵の奇兵隊と正面から対峙して陸戦をする必要は全くない。開陽丸以下の無敵海軍を長州沿岸に差し向け、激烈な艦砲射撃を繰り返せば足りるからだ。さすがの精強長州もこれには対抗策がない。
 この段階に到って初めて長州は、慶喜に全面降伏するのではなかろうか?ここまで行くと詫びを入れて占領地を返還するだけでは済むまい。領地そのものを削がれるかもしれない。しかし、全ての藩の国会への参加を目指す慶喜は「良い加減で」妥協するのではなかろうか。
 こうして薩摩・長州の問題を解決した慶喜は、以前より遙かに安定した政権運用が可能となり、国会にて世論を形成・立法しつつ、懸案事項を巧みに解決し、いよいよ郡県制への道に乗り出すのではないか。
 つまり「最後の将軍にして最初の立憲開明君主」としての不滅の業績を、近代日本に刻んだのではなかろうか?

5、結び
  明治維新の完成点が大日本帝憲法の成立による神権天皇制の確立だとすれば、明治維新の終焉は太平洋戦争の敗戦による新憲法制定と天皇陛下人間宣言であろう。
 そして、仮に徳川慶喜鳥羽伏見の戦いで勝利していれば、近代日本は別の道を歩んでいたかもしれない。

以上、新書版が八章までなので、ブログでは第14話の続きとなります。