最後の将軍徳川慶喜の苦悩 14 鳥羽伏見の戦いと徳川慶喜の敗退

一、薩摩系浪士による江戸市中及び関東一円の騒乱行為そして薩摩藩江戸屋敷焼き討ち事件
 (あまりにも卑劣な行為なので)筆が進まないが、鳥羽伏見の戦いのまさに導火線となった一連の事件であり、避けて通る訳にもいかない。少し述べてみよう。
 西郷等は京都で予想される来たるべき幕府との戦争に備えて、関東一円の騒乱行為を早くから画策していた。手回しの良い西郷は早くも慶応3年10月には500人規模の浪士を関東に潜入させ、騒乱行為の準備を始めていた。この実戦隊長は、有名な益満休之助と伊牟田尚平であった。その目的は騒乱行為を行なって社会不安を増幅させること、更に大きな目的は幕府を挑発し、幕府側から戦争をやらせることであった。
 慶応3年11月中旬から浪士隊は挑発行動を開始した。数十人規模の武装した浪士が毎夜のように江戸の富豪や豪商に片っ端から押し入り、数万両規模で強奪するのだった。何の罪のない江戸町民が多数惨殺されたのは言うまでも無い。彼ら無頼集団には以下三つの特徴があった。その一 「御用金を申しつける」と口上する その二 薩摩訛りの者がいる その三 逃げ込み先が決まって三田の薩摩藩江戸屋敷である、ということだった。
 江戸町民はこの無頼集団を「薩摩御用盗」と呼んで恐れた。日本橋などの繁華街も夜になると灯が消えたように人の往来が途絶えてしまった。
 百万都市江戸の治安が悪化したのではたまらない。幕府は庄内藩に命じて江戸市中取り締まりを行なわせたが、薩摩藩を刺激したくない幕府は取り締まりを慎重に行なうよう厳命したので抜本的解決にはならなかった。
 挑発に乗らない幕府に業を煮やした浪士達は騒乱行為を関東一円に拡大した。
11月29日、薩邸から出発した浪士達は、野州出流山で薩摩藩旗を翻し、数百人規模で勤王討幕の決起をして、辺り一帯を荒らし回り金穀を強奪した。
12月11日、関八州取締出役渋谷和四郎等が中心となって浪士達を鎮圧、多数捕縛したが敗残兵は薩邸へ逃げ込んだ。
 次いで12月15日、甲府城乗っ取りを目指して薩邸を出発した浪士の一団は八王子で急襲され四散。同日、別働隊が相州山中藩の陣屋を襲撃して放火したが、小田原藩兵に鎮圧され、薩摩江戸屋敷に遁走した。
 野州等での騒乱行為が鎮圧されると浪士達は再び江戸での騒乱行為を激化させた。
12月22日、庄内藩の屯所に鉄砲を撃ち込み、更には翌12月23日、江戸城二の丸に放火するに及んだ。また同日、渋谷和四郎他の関八州取締出役の役宅が浪士等に襲撃され、家族が殺害された。これは野州出流山挙兵を鎮圧したことへの卑劣な報復であった。
 これら一連の挑発行為にたまりかねた幕府側は、遂に薩摩藩江戸屋敷を包囲し、罪人の引き渡しを要求し、これが拒否され決裂するや、薩摩屋敷を攻撃した。激しい銃撃戦になり、薩摩藩士及び薩摩系浪士達は命からがら品川沖から薩摩藩の軍艦に収容されて大坂に向かった。薩摩側の死者は49人であったという。
 以上が有名な薩摩藩邸焼き討ち事件の大凡(おおよそ)である。
この知らせが慶応3年12月30日(28日という説もあるが30日が正しいのではないか)に大坂城にもたらされると、城内は興奮の坩堝と化した。幕臣ほぼ全員が薩摩討つべし!と叫び、大坂城は打倒薩摩一色と化し、さすがの慶喜も手がつけられない状況となったのである。
 西郷が目論んだ挑発が見事に成功した瞬間であった。これほどズバリ上手くいった後方作戦は日本史上存在しない。しかしまた、これほど卑劣な攪乱行為も日本史上稀と言うべきである。目的の為には手段を選ばない西郷吉之助の陰湿な一面が垣間見える。
二、仮説 慶喜の選択肢
 松浦玲氏が徳川慶喜をコンパクトに評伝した中公新書の「徳川慶喜」によれば、クーデター政権に対する慶喜の対応は三つあった、としている。
その一 クーデター政権を武力により叩き潰すこと
その二 クーデター政権に割り込むこと
その三 一切の挑発の乗らず、クーデター政権の自壊を待つこと
 これらが選択肢だとしている。筆書も長年そう思っていた。
そして松浦氏は、一を選択したならクーデター政権(天皇政権)そのものを敵とすべきである、という。「薩摩などに担がれた不明の天皇を懲らしめ奉る 」という大義名分を押し立てるべきだった、というのだ。要するに承久の故事に学ぶ、ということである。そして二を選択したなら、慶喜は殺されてもいいから丸腰で上京すべきだった、としている。最後に松浦氏は、三の選択がベストであった、としている。筆者も長年松浦氏の説を支持していた。しかしこのようないささか教室説例的な回答では解決不可能だということが最近分かってきた。
 そこで、慶喜が議定就任の請書を出した慶応3年12月28日現在の段階でこれらの選択肢を検討してみたい。
 まず一の選択肢である。筆者はこれが一番だと長年思っていた。この最大の障害は慶喜自身の思想的克服のみ!と考えてきた。つまりセンチメンテルな尊皇思想を捨て、自らが日本近代化の全責任を負う覚悟を示す戦いをすれば良かったということであろうか。その究極の選択は、幼帝を廃し輪王寺宮を新天皇に擁立することも視野に入れた京都進軍である。 思想的には最高にスッキリする。これだと朝敵になろうと錦旗が出ようと全然お構いなしだ。フランス式軍装に身を固めた慶喜自らが幕府歩兵を率いて断然京都に進撃して御所を制圧し、反対派を一掃して新人事を断行するまでのことである。
敗れた薩摩の大久保や西郷は内乱罪で極刑は免れない。討幕の偽書という史上空前の偽造公文書を作らせた岩倉も、(公家なので死罪は免れるが)鬼界ケ島に終生遠島である。想像しただけでも痛快だ。
 しかしこの選択肢は事実上不可能だ。当時、クーデター政権は容堂や春嶽の公議政体派が勢いを盛り返し、薩摩討幕派は孤立状態であった。公議政体派は慶喜を議定に就任させるべく周旋の努力を重ね、ようやく12月24日、慶喜の議定就任が三職会議にて決定し、納地問題も曖昧になった。要するに公議政体派が尽力して慶喜の京都政界復帰を決めた12月28日段階で、クーデター政権そのものを叩くことになれば春嶽や容堂の努力を無視することとなり、その後の大事な政治上の味方を失うことになる。これでは将来の見通しが立たなくなる。だから慶喜は議定就任を受けた時点で、天皇政権そのものを敵とすることは不可能となったのである。ここに薩摩を叩く選択肢が極めて狭かったことが窺われよう。慶喜は戦争をやるにしてもクーデター政権そのものを叩くのではなく、あくまでも「君側の奸薩摩を除く」という限定戦争をやる以外になかったのである。
 では第二の選択肢、京都政権への割り込みは可能だったのであろうか?
難しいことに春嶽ら公議政体派は様々な条件を慶喜に突きつけている。まず軽装で上洛すること、次に毛利大膳親子の官位復帰と同時に議定就任すべきことなどである。後者はまだ我慢出来るとして、軽装での参内など実際出来たであろうか?
 何故なら、慶応3年10月段階では上方徳川勢の殲滅を視野に入れて討幕運動をしていた薩摩の軍兵数千が完全武装して京都に充満しているのである。いわば慶喜を殺そうとしていた連中である。そこに丸腰で来い!というのはいささか非現実的である。春嶽等は一体何を考えていたのであろうか?議定就任のため上洛するにしても薩摩等武装藩兵の解兵が条件であり、それに薩摩が応じなければ(応じるはずがない)、軽装での上京など現実問題として不可能そのものであったというべきであろう。
 最後に第三の選択肢である。しかしこれも非現実的である。公議政体派から上京命令が出ているまさにその時、これを無視して大坂に居座り続ければ、固唾を飲んで見守る諸藩世論は、慶喜に失望するであろう。政局は日々変化する。これも出来ない相談である。
 ならばどうすれば良かったのか?「歴史にタラは無い!」のだが、一度位はシミュレーションすることも許されたい。
 まず確認したいことは、、春嶽等の努力で慶喜の議定就任が決まり、慶喜が請書を出した慶応3年12月28日の時点を想定したい。
 慶喜はどう対応すべきであったか。
あくまで軽装にて上洛するのなら、御所を固める薩摩藩兵等の解兵を要求すべきであった。そして薩摩等がこれを拒否した場合(拒否するに決まっている)、次の二つの方法が考えられる。
その一 まず薩摩相手に限定戦争を仕掛ける方法、
 しかしこの場合、今まで有利であった大坂割拠が却って思想戦においてはハンデとなる。なぜなら大坂から京都に進撃するので朝敵となり易いからである。では朝敵とならずに京都に進撃するにはどうするか?京都は七つ口と言われるように進入路が七つある。だから何も鳥羽街道伏見街道の二本だけを愚直に進むのではなく、宇治街道・山崎街道・丹波街道など複数の進入路から京都に進撃すれば良いのである。
 しかしこの作戦を採ったとしても、京都に到着した後、御所を直接包囲するのかあるいは薩摩屋敷を包囲襲撃するのかはたまた二条城に一旦入るのか?その戦略をしっかりと決めておかないといけない。慶喜は京都進撃の難しさを直感していたのであろうか。しきりに禁闕に向けて発砲するな!と諭している。
その二 これが究極の必勝法である。
 大坂城に割拠して、薩摩を中心とする御所を占拠した兵力の解兵を断固要求するまではその一と同じであるが、上洛を急がないのだ。まず、京都への兵糧を遮断・妨害し、京都政権の干上がりを狙う。解兵に薩摩が応じない場合は以下の手段を取る。
 それは、東洋一と謳われる精強海軍を動員し、榎本武揚麾下の開陽丸他幕府戦艦打撃軍が薩摩の本国鹿児島に遠征、艦砲射撃を繰り返すのである。開陽丸の主砲の射程は3900メートルであり、鹿児島城の本丸も危ない。場合によっては陸戦隊を上陸させても良い。更に返す刀で馬関に立ち寄り、下関にも激烈な艦砲射撃を敢行する。これには薩摩も長州も手も足も出ない。地団駄踏んで悔しがってもどうにもなるまい。一方慶喜大坂城を一歩も出ない。大坂城は薩摩も長州も全く攻撃できない。仮に怒りに任せて攻めてきたら、幕府歩兵の精強伝習隊が出撃してこれを撃退する。その時こそ慶喜は薩摩排除の限定戦争をすべく自ら全軍を指揮して上京すれば良い。
 この進軍には、クーデター政権側は、錦旗も出せないし朝敵にもし難い。慶喜ワンサイドゲームとなろう。
 まあ、歴史に「タラ」はないから架空の戦略でしかないが。
三、クーデター以降の京阪の緊迫した交渉と綱引  
 シミュレーションはこれくらいにして現実世界に戻りたい。例によって時系列で事実関係を整理しながら若干のコメントを付していきたい。先号と重複する部分は簡単にした。
慶応3年12月12日、慶喜、二条城を退去し、下坂。翌13日大坂城に入城。
12月14日、老中板倉は、徳川家安否分かれるところとして、ただちに兵隊・軍艦とも在り合わせのものはすべて海路で大坂へ送るようにとの「ご沙汰である」、と江戸の老中に要求した。
12月16日、慶喜、六カ国公使を引見。成功裡に終わる。
同日、永井上京し、春嶽・後藤と会談。納地問題について公論で決定することに合意。岩倉も同意する。
 先号で述べたとおり、岩倉は12月13日、大久保の決意を打診し、慶喜が納地を拒否した場合、あくまで武力討伐を行なうのかそれとも尾越の周旋に任せるのを問いただし、大久保は意外にも後者を選んでいる。この遣り取りを前提にすれば、岩倉は春嶽等の意見に同意するほかなかったのであろう。
12月18日、永井、下坂。
12月17日、慶喜、「挙正退奸の表」を朝廷へ奏上。以下のとおり
「宇内の形勢を熟察し、政権一に出でて、万国並立の御国威を輝かさんがため、広く天下の公議を尽くし不朽の御基本を立てたしとの微衷より、祖宗継承の政権を返し奉り、諸大名の上京を待ちて同心・協力、天下の公議・世論を探り、大公至平の御規則を立てんことを思うの外、他念なきところ。にわかに一両藩武装して宮殿に立ち入り、未曾有の大変革仰せられし。先帝よりご委託あらせし諸官をゆえなく排斥し、一方、譴責を受けた公卿を抜擢、陪臣の輩玉座近くを徘徊するなど実にもって驚愕の至りなり。公明正大、速やかに天下列藩の衆議を尽させられ、正を挙げ奸を退け、万世不朽の国是を定めたく奏聞仕る」
 更に諸藩に対しては、「思召のほど感激たてまつり候面々は、人数召し連れ早々上坂し候よう致さるべく候」と、征夷大将軍さながらの動員令を発している。
 この挙正退奸の上表と永井の上京との関係をどう判断するかであるが、それぞれ慶喜の本音だと考えたい。クーデター直後の慶喜は若干の動揺があったものの、大坂城に割拠してすぐ立ち直りを見せたのである。それが六カ国公使の引見の成功であり、矢継ぎ早に行った永井の派遣と「挙正退奸」の過激な上表である。
 慶喜は基本的に平和路線で行きたかったと筆者は推測している。これが永井の派遣である。彼に京都の状況を探らせ、併せて妥協点を見出したかったのではないか。
 それなら何故このような過激な上表を出したのか、疑問は尽きない。しかし慶喜は一方でクーデター政権に対して大きな憤りを持っていた。この、腸が煮えくりかえるような憤りが、(大坂城に割拠して落ち着いてくると)慶喜の脳裡に噴出してきたのではなかろうか。しかし常に理知的な慶喜がただ怒りをぶつけるだけの無意味な行動を取るとは考えにくい。この上表を提出することにより、「私は怒っているのだ!」ということをクーデター政権に知らせたかったのではあるまいか。またそれと同時にクーデター政権に大きな圧力を加えて、妥協を迫ったのではないか。要するに慶喜一流の高等戦術であったと筆者は推測する。
 だからこの上表は過激派に迫られて止むを得ず作成したのではない。またこの上表について慶喜不関与説もあるが、筆者は妥当でないと考える。更に言えば、この上表は後の討薩表と酷似しており、筆者は、慶喜の偽らざる真情だったと推測している。また文面の格調が大政奉還の上表とも似ており、やはり永井が起草して慶喜が校正したと推測する。平山も関与していたかもしれない。
 一方岩倉は、既に永井と妥協策が出来つつあったので、この過激な上表を公表しない方が得策と判断し、春嶽・容堂に預けて事実上握りつぶしたのである。
12月24日、(先号で詳説したとおり)三職会議にて慶喜の辞官納地問題についての結論が決まる。
12月26日、春嶽・慶勝下坂、慶喜と面談。慶喜、公議政体派の尽力に謝意を表明。
12月28日、慶喜、議定就任の請書を提出。春嶽・慶勝両人は晦日(30日)に帰洛、慶喜の請書を朝廷へ提出、近々の上洛も合意された。この上洛は翌慶応4年1月3日(慶明雑録)あるいは1月4日(村攝記)と予定されていたようである。
四、慶喜の苦悩と幕臣等の無理解
 以上のように、大坂の慶喜と京都のクーデター政権との際どい遣り取りの中で、クーデター政権内部で勢力を回復した春嶽・容堂等の公議政体派の尽力により、慶喜の政界復帰が決まりかけ、翌年に予定された議定就任への目途も立ち、慶喜は少し安堵したのではなかろうか。
 思えば、12月9日のクーデター以降いや遡って10月14日の大政奉還以来、慶喜は全く休む間もなく、毎日が決断の連続だったのではないか。しかも原市之進亡き後、相談できる側近も無いまま、常に唯一人で決断をしてきた。慶喜の双肩にかかる負担と責任は想像を絶するものであったと推測される。 しかし 慶喜は今日までのあらゆる無理解や偏見に我慢して自ら断行してきたことが正しかったことを確信し、平穏な正月を迎えられるとやや安心していたのではなかろうか。              
 しかしながら、大坂城に集結した幕臣達は、今日に至るまでの慶喜と公議政体派との緊迫した微妙な遣り取りの苦心や、京都進撃の難しさを全く理解せず(理解しようともせず)、ただ口々に討薩を叫ぶのみであった。
 確かに12月9日以来の薩摩のやり方には幕臣ならずとも不満を持つ者が大半であった。更に遡れば会桑二藩や在京幕臣達にとっては大政奉還以来、薩摩への不満がくすぶっていたのである。それはまた煎じ詰めれば、大政奉還を理解できない守旧派にとっては、慶喜への不満そのものでもあった。 これに加えて、江戸から来た幕臣達は元々慶喜と意思の疎通が出来ていない。大坂城は爆発寸前の火薬庫に等しく、慶喜は限りなく孤独であった。
五、薩摩藩江戸屋敷焼き討ちの知らせが12月30日、大坂に届き、大阪城は沸騰する!
 歴史とはむごいものである。こうした状況の中で、慶喜の平和路線の希望を打ち破る破壊的に巨大な情報が江戸からもたらされたのである。この椿事により、慶喜の計算は全てご破算になってしまった。以下のとおりである。
12月30日、大目付滝川具挙が歩兵200名を率いて軍艦順動丸にて大坂に到着、薩摩藩江戸屋敷焼き討ちの顛末を報告。更に、大坂城諸所にて薩摩の罪悪を盛んにアジ演説して糾弾。大坂城は打倒薩摩一色となり、慶喜も御しがたい状態になった。
 その時の城内の様子を、春嶽に同行して下坂していた中根雪江が、「丁卯日記」にて以下のように記している。曰く
大目付滝川播磨守殿その外、江戸表より兵隊と共に汽船にて着坂これあり。東地薩藩の悪説、かつ二五日薩邸攻撃の始末など敷演これあり。この表の奸状を合わせて伐薩の議を主張し、下地除姦の説も起こりたるを、内府公御恭順の御誠意をもって無理〃ながら御鎮圧なし置かれたる坂地麾下の人心、一挙に煽動誑惑せられしかば、満城立地に鼎沸の勢いとなり、憤慨激烈の党奮興して、板閣(板倉)其の他を圧迫説倒し、事ついに敗れに帰し、形勢一変、もっぱら伐薩除姦の兵事に及び、内府公といえども如何ともなし給うべからざるに至りしなりとぞ。天、徳川氏に祚いせず。嗚呼。」
 他方、会津藩家老山川浩が記した「京都守護職始末」によれば以下のとおりである
「越えて三十日、この報が大坂に達した。内府はこれを聞いて忿怒に耐えず、『薩摩藩がひそかに凶徒を使嗾し、関東をかき乱し、東西相応じて事を挙げようとしたに違いない。乱逆を企てるの罪は許すことできない』と、即夜、老中およびわが藩、桑名藩重臣と会見し、典刑を正したい旨を奏請することに決議を定め、入京の部署を定めた。」
 この二つの資料を読むと慶喜の態度は完全に矛盾するが、正に慶喜の揺れ動く心境・苦悩をそのまま活写している。要するに平和路線が破綻しつつある現状を嘆きつつも薩摩の卑劣なやり口に怒りを露わにしているのだ。慶喜が生涯で最も苦悩し、かつ決断を迫られたその時が遂に来たのである。
 しかし大坂城内は既に沸騰しており、もはや慶喜を以てしても御しがたい状況であった。事ここに至り、慶喜はようやく薩摩と一戦を交える覚悟を決めたのであろう。これが明けて翌慶応4年元旦の奏聞書となって表されたのである。
六、慶喜、討薩を決断
慶応4年1月1日、いわゆる「討薩の表」出来る。以下のとおり
「臣慶喜、謹て去月九日以来の御事体を恐察奉り候得ば、一々朝廷の真意にこれ無く、全く松平修理太夫島津忠義)奸臣ども陰謀より出で候は、天下の共に知るところ。殊に江戸・長崎・野州・相州処々乱妨及び劫盗候儀も、全く同家家来の唱導により、東西饗応し、皇国を乱り候所業別紙の通りにて、天下共に憎む所に御座候間、前文の奸臣ども御引渡し御座候よう御沙汰下されたく候。万一御採用あい成らず候はば、やむを得ず誅戮を加え申すべく候。」
 この「討薩の表」を巡って、慶喜がどの程度関与していたのか、歴史家の間でも未だに評価が定まらない。明治になってから企画された歴史家との問答である「昔夢会」で、慶喜本人は自らの関与を曖昧にしている。しかし筆者はこのいわゆる討薩表は慶喜自らの意思で作成したものと推測している。
 まず、世間で言うところの「討薩表」は、正確には、朝廷への「奏聞書」が正しいのだ。またその内容も、薩摩を非難こそしているが、直接「討つ」とは言っていない。
この上表の主たる内容は関東等で行なった騒乱行為に薩摩藩士が関与しているので、彼ら罪人を引き渡してもらいたい、拒否されたらやむを得ず討伐する、という内容である。つまり基本的には刑事事件であり、警察行為を行なうことへの許可を奏請しているのである。
 何よりも江戸の幕府は、薩摩藩江戸屋敷を焼き討ちしているのであるから、慶喜には朝廷への説明責任もあった筈である。だから慶喜は薩摩の罪悪を公開・非難し、その孤立化を図り、かつ罪人の引き渡しを要求し、拒否されたなら(拒否される)、薩摩との限定戦争をやろうとしていたのであろう。朝廷に対しては、「薩摩との政権争い」というより、犯罪人引渡を請求する警察行為の方が客観的必然的正義を主張できると考えたのではなかろうか。
 この文体は18日の「挙正退奸の上表」とほぼ似ており、騒乱行為への薩摩の関与が明らかになったことを書き加えて、薩摩の非を鳴らしているのである。
 この討薩表を過激な宣戦布告と評価する説が多いが、見当違いと言うべきである。そもそも朝廷への奏聞書なのだ。過激なことなど言えるわけがない。薩摩を非難してはいるが主たる目的は罪人の引き渡しであり、宣戦布告などでは決してない。ここに慶喜の苦悩がありありと読み取れる。やはり京都進撃そのものがこの時点ではかなり高度の戦術を要求される行為だったのである。
 しかしその一方で、諸藩には以下のように露骨な軍令状を発している。すなわち
大義に依りて君側の悪を誅戮し、自然本国(薩摩領)を征討に及ぶべく候に付き、国々の諸大名速やかに馳せ登り、軍列に相加わるべき者也。尤も軍賞の義は、平定の後、鋒先の勲労に応じ、土地を割き与うべく候事。」
 これではまるで創成期の征夷大将軍の命令書さながらである
慶喜は「対朝廷」と「対その他」とでは態度を変えているのであり、ダブルスタンダードそのものである。要するに薩摩との限定戦争をやるのだと一般には公布しており、朝廷に対してだけは用心深く警察行為であることを強調している。
 ならば慶喜はやる気満々だったのだろうか。筆者はそうは思わない。出来れば京都市街地での戦闘は避けたかったのではなかろうか。何しろ禁門の変では二万八千戸が焼失し、当時禁裏守衛総督だった慶喜はかなり非難されている。他方、これまでの薩摩のやり口に対する憤りもあり、議定就任の先駆けとして大軍を動員しての威力行進をすれば何とかなると考えたのであろうか。 慶喜は随分と悩んだに違いない。
七、鳥羽伏見の戦い
1、前哨戦始まる
1月2日夕方、大阪湾にて榎本艦隊、薩摩の軍艦と交戦。
幕軍主力艦開陽の砲撃に抗議した薩艦に対し、艦隊司令官榎本は「尊藩はもはや弊藩(幕府)の敵と存じ候」と通告した。
1月3日、大坂の幕閣三名が、在坂外国公使に、武器を日本政府(旧幕府)以外に売ってはならない、外国船は開港場以外に寄港してはならない、当方が薩摩船を攻撃する場合もあるので危険だから注意されたい、という内容の警告書を発した。
同日夜、旧幕軍、薩摩藩大坂屋敷を襲撃。
2、公議政体派の動きと討幕派の決意
慶応4年1月1日、最後まで望みを捨てない春嶽等公議政体派は慶喜上洛の条件を煮詰め、「軽装にて上洛・即参内」という案をまとめ、3日の午後、中根雪江を大坂に使者として送った。 中根は先月末も大阪城まで春嶽に同行している。正に開戦回避のために挺身した讃うべき国士である。
1月2日、旧幕軍は慶喜上洛の先供と称して大軍にて淀まで進出した。
1月2日、危機感を強めた大久保は西郷に開戦の決意を示した。
1月3日朝、(先号のとおり)大久保は岩倉を突き上げて、断然開戦するよう迫った。
3、開戦と敗北
慶応4年1月3日午後三時頃、大目付滝川具挙率いる幕府軍は鳥羽村にて道路封鎖する薩摩軍と押し問答をするも埒があかず、強行突破しようとした瞬間薩摩側から発砲され開戦となった。
 旧幕府側は行軍状態であったため銃砲に弾薬を装填しておらず、不意を突かれて大混乱となり、初戦の大敗となった。
1月3日夜半、初戦の大勝で勢いに乗った大久保は、間髪を入れず岩倉・三条を説得し、旧幕府側すなわち慶喜を朝敵とする政治工作を行ない、これが成功する。
 すなわち、仁和寺宮嘉彰親王征討大将軍に任じ、錦旗・節刀を賜わり、次いで諸藩へ慶喜征討を布告したのである。これにより、慶喜は公的にいわゆる「朝敵」となったのであった。
1月5日、仁和寺宮、戦場視察に出発、錦旗はためく。
1月4日・5日・6日、局地的善戦はあったが、旧幕府側は初戦の大敗を挽回することができず、大坂城に退却した。
1月6日、慶喜、大演説をした直後、大坂城を脱出。
(一) 奇妙な戦いだった。「必討薩摩」を掲げて大坂城を大軍で押し出しながら、鳥羽村に至り、「上様上洛の先供だから通せ」と主張する。薩摩は「朝廷の指示がないと通さない」と言い、押し問答となる。薩摩は初めから通すつもりなどある訳がない。
 幕軍は一体何を考えていたのだろうか?そもそも初めからこの進軍には作戦計画らしいものがない。手強い薩摩相手の限定戦争をやるのだ。(綿密でなくてもいいから)戦闘計画を策定し、予想される相手方の反撃予想などの想定戦を行なうのが当たり前であろう。しかし、総督老中格大河内正質・副総督若年寄塚原昌義・司令官若年寄格竹中重固等は全くそんなことをした形跡がない。これでは致命的必敗の行進そのものであった。
 慶喜自身も後年「勝手にせよ」と言い放ったと回想している。最高司令官がこのような消極姿勢では勝てるわけがない。慶喜は、近日予定される議定就任もあり、出来れば戦いを避けたい、という優柔があったのかもしれない。また大軍で威力行進すれば何とかなると考え、知らぬフリを決め込んだのかもしれない。いずれにしても曖昧な態度に終始したのである。言うまでも無く、この戦いの敗戦の主たる原因は慶喜自身の無策と曖昧であろう。
 しかし仮に慶喜がこのように作戦計画に関与しなかったとしても、幕軍幹部がしっかりしていればこんな無様な負け方はしなかったろう。要するに怒りと興奮と熱狂で行進し始めたはいいが、薩軍と長州軍の猛烈な銃火に晒され、狼狽して立ち直ることが出来なかったのであろう。竹中などは持ち場の放棄といってもいいほど惰弱であった。
 一方、薩摩・長州は幕軍を京都に入れてしまえばお終いなのである。それこそ決死の覚悟で眥を決し、銃火の火蓋を切って待ち構えていたのである。これでは勝てる訳がない。
 ただ幕府側の名誉のために、奮戦した者も多数いたことを付言したい。会津・桑名の藩兵、見廻組・新撰組である。彼らは奮闘したが、惜しむらく皆、刀槍部隊である。薩長の銃火に晒され、多数犠牲者を出した。また、幕兵も歩兵部隊の精強伝習隊は善戦している。後世の歴史書には傭兵達は戦意がなかったなどという無責任な記述が散見するがそんなことはない。ただ彼らは指揮官がいないと戦えない。歩兵奉行並の佐久間近江守信久は馬上督戦指揮中戦死、歩兵頭の窪田備前守鎮章は敵陣に突入して戦死した。両人とも薩摩の狙撃兵に狙い撃ちされたものである。面子を重んじる幕臣が派手な陣羽織を着て陣笠を被り、馬上指揮するのだから「撃つて下さい」と言うに等しい。連隊指揮官のしかも高官二名が戦死したのだから伝習隊は退却する以外無かったのである。
(二)慶喜、敗戦を悟る。
 こうした予想外の敗北に驚いた慶喜は、何を考えていたのであろうか。錦旗が出て朝敵となったとき、彼はありもしなかったクーデター政権がようやくその実態を整えてきたことを直感したであろう。つまり鳥羽伏見の決戦で旧幕軍を打ち破ったという厳然たる事実により、薩摩を中心とする政府らしきものが、硝煙の中からその姿を現してきたのである。慶喜が勝っていればクーデター政権などは何の実態もない幻のようなものに過ぎず、霧散するはずであった。しかし慶喜があっけなく敗れてみると、ありもしないクーデター政権がその存在を現してきたのである。それによって慶喜はクーデター政権すなわち天皇政権に攻撃を仕掛けて敗北した、というイデオロギー的既成事実が出来上がってしまった。
 クーデター政権は鳥羽伏見の戦勝によって、ようやく天皇政府としてその存在を現したのである。戦勝ほど政権の正当性を主張するに強固なものはない。勝てば官軍、つまり新政府軍なのである。おまけに勝者は多大な犠牲を払って戦を勝ち抜いたのである。これに文句を言うのはかなり困難である。だからクーデター政権の中で、公議政体派は急速に発言力を無くし、朝議は薩摩長州を中心とする討幕派一色となり、誰も異議を唱える事が出来なくなったのである。
 要するに日本近代化のヘゲモニー争いは、その最終段階において、鳥羽伏見の勝利により、薩摩・長州を中心とする討幕派の手に帰することとなったのである。
 怜悧な慶喜はこうした政局の変化が手に取るように分かったのであろう。様々な後悔や慚愧が彼の脳裡をかすめた筈だ。斬り死にしたいくらい悔しかったかもしれない。 しかし、である。冷静かつ理知的な慶喜は結局、「残念だが万事休す!」と判断したと筆者は想像する。そうすると、慶喜にはもう戦う理由がない。しかし激昂した幕臣達はなおも慶喜に出馬を求めたのである。
(三)大坂城脱出
 こうした状況の中で、一敗地に塗れた幕軍将兵は続々大坂城に戻ってきた。そして慶喜の出馬を要請した。曰く、「家康公以来の馬印を押し立て、上様が全軍指揮すれば薩長など一捻り」と皆々口々に叫ぶのである。会津藩兵はこの一敗でむしろ悲壮感を帯びていよいよ血気盛んになっていた。
 しかし戦略的に京都奪還はほぼ不可能になり、旧幕軍に出来ることは大坂城に立て籠もり反抗することであった。確かに大坂城は堅固で、慶喜が立て籠もれば「新政府軍」も簡単には落とせない。数ヶ月間も睨み合いになろう。しかも大坂湾では無敵榎本艦隊が制海権を握っている。
 しかし、慶喜は冷静に考えた。「それでどうなる」とである。彼が最も恐れている内戦突入となり、欧米列強の内政干渉の格好の的になるだけではないか。そんなことにでもなれば、日本の近代化のために寸暇を惜しまず挺身してきた努力は水泡に帰してしまう。「ここで踏みとどまって何になるのか。つまらぬ武士の意地など有害無益そのものではないか。」 怜悧な慶喜は、自分が「日本一の卑怯者」と呼ばれようと、はたまた「臆病者」と蔑まれようとあらゆる悪口雑言を浴びせられようと何だろうと、そんなことはどうでも良かったのではないか。 自分さえいなくなれば戦にはならないのである。 例によって、慶喜の決断は早かった。 大坂城大広間に幕臣達を集め生死関頭の大演説をした直後、数名の供を連れて大坂城を脱出し、開陽丸に乗り込んで江戸に帰還したのである。この慶喜の行動によって、鳥羽伏見の戦いは事実上終了したのであった。
 この慶喜の行動を評価する者はほとんどいない。しかし慶喜を批判する者に尋ねてみたい。他に方法があったのか?とである。内戦で更に多くの犠牲者が出れば良かったのか?列強の干渉を招くほど長期間慶喜が頑張れば良かったのか?そんな事はあるまい。結果論だがあの逃亡は正解だったのである。単に格好が悪いだけだ。
八、徳川慶喜の退場
慶応4年1月7日、岩倉が徳川慶喜追討令を公示し、在京諸藩に朝廷への帰属を迫る。各藩続々請書を出し、薩長両藩は政治的にも主導権を確保することとなった。
1月11日午前八時、慶喜座乗の開陽丸、品川沖に投錨。
1月15日、小栗忠順慶喜自ら罷免。
1月17日、慶喜勝海舟を海軍奉行並に任命。
同日、慶喜、春嶽及び容堂に書簡を送り、朝敵処分解消を依頼。但し、この段階では無条件に謝罪しているわけではない。書簡の内容は以下のとおり。
「驚愕之至、素より途中行違より不料先供之者争闘致迄之儀に候処、斯く之通之御沙汰に而は、甚だ以心外之至」とし、追討令に抗議している。
同日、慶喜、静寛院宮に面会を求め、朝廷への取りなしを依頼。
1月25日、英・仏・米・蘭・伊・普の六カ国は局外中立を宣言、これにより、天皇政権を交戦団体として認定。
1月28日、春嶽、慶喜に書簡を送り、謝罪を勧告。
2月2日、西郷、大久保宛への手紙で、「慶喜退隠の嘆願、甚だもって不届千万、ぜひ切腹」と記す。
2月5日、慶喜、春嶽に書簡を送り、初めて「恭順」の意向を表明。
2月9日、有栖川宮熾仁親王東征大総督に就任、西郷らが参謀となる。軍令・軍政・領地処分等の広範囲の権限を付与される。
2月11日、慶喜、家臣に沙汰書を下す。曰く
「伏見の一挙、実に不肖の指令を失せしに因れり。計らずも朝敵の名を蒙るに到りて、今また辞なし。ひとえに天裁を仰ぎて、従来の落度を謝せん。かつ臣ら憤激その謂われなきにあらずといえども、一戦結びて解けざるに到らば、インド・シナの覆轍に落ち入り、皇国瓦解し、万民塗炭に陥入らしむるに忍びず。その罪を重ねてますます天怒に触れんとす。臣らも我がこの意に体認し、あえて暴挙するなかれ、もし聞かずして軽挙なさん者は、我が臣にあらず。すでに伏見の一挙我が命を用いず、甚だしきは不肖を廃して、事を発せんとなすに到る。再び指令に戻りて、我が意を傷うなかれ。」
2月12日、慶喜、上野寛永寺に入り、恭順・謹慎開始。
2月21日、徳川方の謝罪状は全て東征大総督を経由すべき旨の沙汰書が下る。これにより、慶喜の処分は総督府が握ることとなった。
2月26日、静寛院が慶喜の嘆願書を受け取ったのを知った大久保は、国元への手紙で「あほらしさ沙汰の限りに御座候。反状顕然、朝敵たるをもって親征とまで相決せられ候を、退隠くらいをもって謝罪などとますます愚弄たてまつるの甚だしきに御座候」と
書き送り、更に続けて、「慶喜の罪は天地の間に居場所がないほどの大罪である(要するに死ぬべきだということ)」としている。思えば、慶応元年9月の四国連合艦隊大坂湾侵入事件以来、常に徳川慶喜に翻弄され続けてきた大久保にとって、仕返しをする絶好の機会であったのではなかろうか。
3月5日、江戸城総攻撃の日時が3月15日と発表される。
3月13日、東征軍参謀の木梨精一郎が、横浜滞在のパークスを訪問した。江戸城攻撃で予想される負傷者の治療に英国病院の利用を依頼するのが表向きの理由だが、真の目的は2日後に予定される江戸城攻撃の了解を求めることであった。
 しかし冒頭からパークスは怒り出した。曰く
「恭順・謹慎している慶喜を死罪にするのは人道に反する。慶喜が亡命を望めばこれを受け入れるのは国際公法上当然の行為である。」とである。 仰天した木梨は急ぎ大総督府に戻り、これを西郷に報告した。
3月14日、勝、西郷会談し、翌日の江戸城攻撃中止し、慶喜の処分については、隠居のうえ水戸で謹慎することに決定。
4月11日、江戸城明け渡し。そして慶喜、江戸を退去し、謹慎地の水戸へ向かう。
 
(一) 以上の時系列からも分かるように、慶喜は東帰後すぐに恭順したわけではない。むしろ「甚だ心外の至り」と抗議さえしている。これについては、情勢の見通しが甘いと批判する意見が多い。しかしそもそも、この戦は慶喜が望んで始めたものではない。むしろ無理矢理引っ張り込まれた、というべきである。慶喜にしてみれば、抗議の一つもしたくなるであろう。
 しかし、諸藩が続々新政府軍に帰順し、東征軍が5万の兵力で東上することが決まり、京都の春嶽から、「恭順の他はない」との書簡を受け取った段階で、慶喜は恭順・無抵抗を決心したのであろう。その理由は、2月11日の家臣への沙汰書が全てを語っている。要するに、江戸百万市民が塗炭に苦しむことを避け、且つ、インド・シナの轍を踏む事態になることだけは絶対に阻止したかったのである。
  さて、西郷・大久保は、「慶喜の首を取らずして維新は完成しない」と豪語していた。これについては彼らの本心ではなく、多分に東征軍の士気を維持・鼓舞するための大言であった、とする説が散見する。誰も西郷にその本心を聞いたわけではないから、筆者は分からない。しかし、恭順・謹慎する慶喜に対し、西郷・大久保は弱者をいたぶるように執拗且つ陰険であった。正に彼らの性格の一端が垣間見られるようだ。
 しかし、慶喜の最後の冴えがパークの怒りであった。すなわち以下のとおり
内心慶喜を寛典に処したかった西郷が、パークスの「慶喜処刑大反対」を事前に想像していて、彼の口からそれを言わせようとしたのか、はたまたパークスの言は西郷にとっては想定外の意外な言葉であったが、西郷がパークスのこの言葉を奇貨として取り込み、慶喜寛典の理由付けにしたのか、これも分からない。しかし、当時の西郷が前者のような思考をする国際感覚を持っていたとは筆者には想像できない。
 筆者は、慶喜寛永寺で謹慎しながらも、パークスが処刑に大反対するであろうことを確信していたと推測する。パークスの懐刀サトウは3月9日、密かに勝と会っているので、勝はサトウを通じて慶喜処分についてパークスの考えを打診していたのかもしれない。慶喜寛永寺で謹慎し憔悴し切っていながらも、冷静な彼はひょっとすると勝に何らかの指示をしていたのではないか、などと興味が尽きない。
 いずれにしても、パークスはほぼ一年前の慶応3年3月、大坂城で大君慶喜に拝謁した時の大いなる感動を忘れていなかったのである。
(二) さて、徳川慶喜江戸退去の日がいよいよやってきた。
4月11日朝3時、上野寛永寺大慈院の門扉が開き、慶喜一行が現れた。駕籠はなく、得意の騎馬も許されない。わずかな供を連れて徒歩で謹慎地水戸に向かうのであった。 積日の憂苦に顔色憔悴し、月代も髭も剃らず、黒木綿の羽織を着て小倉の白い袴を穿き、麻裏の草履を履いていた。「拝観の人々、悲淚胸をつき、嗚咽して、敢えて仰ぎ見る者なかりき」と記されている。
 その一挙一動が天下の耳目をそばだたせた英傑が歴史の表舞台から静かに去って行くその瞬間であった。徳川慶喜こそ大局観に秀でた完璧な敗者そのものであった。
九、総括 微力ながら鳥羽伏見の戦いの近代日本への影響を考えてみたい        
  鳥羽伏見の戦いはその後の日本の政治に決定的な影響を与えた。この戦で勝利した薩摩・長州を中心とする討幕派はその後の日本近代化の主導権を握ることとなった。
 それは「玉を担いだ大芝居」などと木戸が比喩したクーデター政権(王政復古政権)によっては到底なし得ない、巨大な政治権力となって出現したのである。
 鳥羽伏見の戦いまでの王政復古政権は公議政体派の巻き返しによって、薩摩を中心とする討幕派の意図はほぼ挫かれ、当初の目的は失敗しつつあった。しかし起死回生の戦で完勝した討幕派はここに新たな政治権力を構築し始めたのである。ここで生まれた新政府すなわち維新政府は、戦勝によって正当性を認証された、(クーデター政権とは全く異質な)薩摩・長州の軍事力を背景とする天皇絶対主義を目指す軍事政権であった。これにより、今まで有力であった公議政体論は鳴りを潜めざるを得ず、その精神の復活は自由民権運動が盛んになる明治七年まで待たざるを得なかったのである。後藤等がこの運動に再び邁進したのは必然であった。
 要するに明治政府の原点すなわち出生証明は、鳥羽伏見の戦で勝利し、硝煙の中から姿を現した維新政府であり、王政復古のクーデター政権まで遡るのは明らかに間違いと言うべきである。維新政府は天皇と軍隊を不可分の関係とした軍事政権としてスタートしたのである。
 やがて日本は、日清・日露戦争に勝利して大国の仲間入りを果たした。大日本帝国陸海軍は精強を謳われ、世界に雄飛した。しかし、日本の軍隊は大元帥天皇陛下を奉ずるいわゆる「天皇の軍隊」であり続け、昭和に入るとしばしば「統帥権の独立」を主張して独走することとなったのである。仮に、統帥権の独立のルーツが維新政府だと言ったら、因果関係なし!との誹りを受けるであろうか。
 翻って天皇は瑞穂の国日本の祭祀を司る至高の祭主として天地開闢以来我が国に君臨し続けてきた。しかし天皇は、摂関政治から武家政治を経た幕末まで、千年の長きに亘って統治権を行使しないのが伝統であった。しかし、新政府は天皇統治権の主体とし、世俗権力をも行使する存在としたのである。本来、世俗権力を行使する者はその責任を負わねばならない。そこで責任を負ってはならない天皇が世俗権力を行使するために、大日本帝国憲法は「天皇神聖にして侵すべからず」と規定し、ここに神権天皇制が確立し終戦まで続いたのである。
 仮に慶喜が勝利して日本近代化の主体になっていれば、いかに慶喜が大きな権力を手中に収めても彼は決して政治責任から逃れられない存在であったと考える。そして神権天皇制にはならなかったと考える。「慶喜敗北の影響は終戦まで続いた」などと言ったら、「とんでもない論理の飛躍で、荒唐無稽そのものだ!」と批判されるであろうか。
 いずれにしても鳥羽伏見の戦いで勝利した新政府はその後の明治政府のあり方に決定的な影響を与えたのであった。       
十、その後の慶喜
 さて、江戸を退去した慶喜はその後どのようにして過ごしたか。このテーマだけでも一冊の本になるが、本書の主題ではない。簡単に記したい。
 江戸を退去する時、家臣の誰かが、「御心を忍ぶが丘の夏木立、立ち返り来ん春をこそ待て」と詠むと、慶喜はその場で「とにかくに国のためとて忍ぶ身は行くも帰るも時をこそ待て」と返している。この歌はなかなか意味が深い。まだ政界復帰を考えていたのであろうか。しかし静岡隠居時代の慶喜は「散らば散れ、積らば積もれ、人訪わぬ庭の木の葉は風に任せん」と詠み、諦観の境地そのものである。
 東京に戻った慶喜華族社会に急速に溶け込んだようである。大勢の親族に囲まれた写真が沢山残っている。写真に写る慶喜はやや寂しそうな表情があるものの総じて穏やかで無風だ。平穏な生活を享受していたのではなかろうか。
 彼は西南戦争での西郷の自決やその直後の大久保の横死も知っている。更に、大日本帝国の成立や日清・日露戦争の勝利も確認し、明治という時代の終焉にも立ち会い、大正2年、77歳で静かに息を引き取っている。正に偉大そのものの生涯であった。