荒崎のトコブシ

13日の土曜日、開店したばかりの佐島マリーナ近くの海鮮料理屋に、知人と行った。カマスとムツのフライ、刺身、生しらすが絶品だった。散り始めた通研と旧岩戸高校の桜を眺め、天気が良いので荒崎に行ってみた。久しぶりに磯を歩くと、人がかなり出ている。小学生や中学生が網を持って磯で遊んでいるので「何を採っているの?」と尋ねると、「ハゼやヒトデが掛かる」と言って実に生き生きしている。最近の子供はスマホばかり見ているので、磯で遊ぶ子供達を見て、嬉しくもホッとした。
 私も、磯で尻高や西貝を探してみた。子供の頃から磯遊びをしていたので自信がある。尻高や西貝が沢山あった。少し探しているとなんと大きなトコブシを見つけた。一寸持ち帰りたくなったが、ここでは、貝類の採集は禁止である。残念だが諦めた。知人が、「夢中でしたよ」と言っていたから、かなり真剣な顔をしていたのかもしれない。
 そういえば、子供達も磯物を採っていなかった。ここでは、子供達も貝採集禁止をしっかり守っているのであろう。
 磯遊びで思い出すが、もう20年以上前の5月のことだ(磯遊びは5月が最適)。例年通り、南下浦毘沙門で尻高を採っていると、知り合いの農家の主人に会った。
「せんせい、何してんだよ」(地元の知り合いは私のことをこう呼ぶ)
「見てのとおり、磯物を採ってんですよ」
「せんせい、そんなことすんとつかまんぜ。新聞に写真付きで出んぜ」
「何でですよ。昔からやってますよ」
「昔は良くても今だめだよ」
「サザエやアワビをシュノーケル付けて採ったら犯罪だけど、これ売り物になりませんよね。だめですか?」
「貝という貝はダメだだよ」
「あそこで釣りしてるじゃないですか!」
「釣りはいいだよ」
「・・・・」
「せんせい、せっかく採ったから、もってきなよ」
「いいんですか」
「俺、組合員だから俺が採ったことにして先生に遣れば構わねえよ」
「有り難う」
「近々相談に行ってもいいかね?」
「「どうぞ」
こんな具合だった。この日を最後に磯遊びを止めた。
 磯物を採るのは縄文以来の人間の本能的快感であると考えるが、規則は守らなければならない。トコブシを採り損ねたが、この日は楽しい一日であった。緊張して磯を歩いたせいか、今日も腰が心地よく痛い。

ある古い戸籍謄本を見て

ある古い戸籍謄本を見て
三浦郡西浦村佐島○○番地 甲崎乙助
本籍の変遷は以下の通りである
昭和10年7月1日、土地の名称変更により、三浦郡大楠町佐島に更正された。
昭和18年4月1日、行政区画の変更により、横須賀市佐島と更正された。
要するに、西浦の地名も大楠の地名も消失したのである。
 三浦半島は、「浦」のつく地名がまことに多い。三浦市自体が、「浦」を使っている。三方を海に囲まれているから当然とも言えよう。そして南下浦、北下浦、浦賀、安浦、長浦、浦郷、田浦、これらの地名は全部東京湾側だ。相模湾側には「浦」のつく地名が残っていない。
 小生が若い頃、父親が、西浦の何々さん、とよく言っていた。西浦とはどの辺りだろうか?と漠然と思っていたが、この戸籍を見て、地図を広げ、大楠小学校から佐島の辺りを指すであろうことが想像できた。相模湾側で唯一「浦」のつく地名であった。大楠の名は大楠小・中学校、大楠山が有るから、今でも我々に親しい。しかし西浦の名は全く跡形がない。西浦屋というそば屋さんが芦名に有るから、この地名を今に伝えているのであろう。
 地名はそれぞれ由来があり歴史の宝庫である。例えば小生が住む上宮田という地名は、海南神社の社田が有ったということだ。下宮田は隣村である。金沢区の朝比奈の地名も、剛力無双の朝比奈三郎義秀が一夜で切り通しを開通させたことにちなんでいるそうだ。
 考古学と違って地名は捏造が出来ない。以前詩人の谷川健一が、平成の行政による地名の乱造を嘆いていた。三浦半島でも、やたらと葉山、湘南の名を使いたがる人が多い。例えば湘南山手、これ、湘南でもなければ山手でもない! 横浜に泥亀という地名があるが、若い人たちがこの名を使いたがらないと聞く。ダサいというのであろうか。以前、湿地帯で泥亀が沢山いた!ということだろうが、とても愉快な地名ではないか!
 もうこれ以上、地名を勝手に変えてもらいたくないものだ。

雑学は身を助ける その1

平成23年の晩秋、品の良い声の老婦人から電話を頂きました。以前私が仕事をした別の老婦人からの紹介です。

 

 

 

 

 

 

 

内容は、夫の遺言を作成して貰いたいというものです。親族間は大変仲が良く、揉めたりする心配は皆無なのですが、ご主人が癌であまり余命がなく、自ら遺言を残したいというものでした。
  早速お宅を訪ねました。恰幅の良い老紳士が私を待っていました。思ったより元気そうで,とても体調が悪いようには見えません。ひとまず安心しました。何しろ遺言をせかされる程辛い仕事はありません。元来せっかちな私が更にせっかちにならざるを得ません。
 まず名刺の交換をしました。すると三浦から先の大戦に出征した人のとりまとめ(軍恩)をしていることが分かりました。その名簿を拝見すると、私の近所の人たちが大勢載っておりました。「あっこの人私知ってます」などと言いますと、彼が従軍時の話をしてくれました。まず満州です。ここで腸チフスに罹り、太い注射を何本も打たれて痛かったという話から始まりました。そして、終戦をボルネオで迎えたそうです。
 元々の軍人ではなく、徴集兵ですよ。それが満州からボルネオまで転戦したんです。いかに過酷な大戦であったかがこの一字で分かりますね。
 復員船がなかなか来なくて一日千秋の思いで待っていたそうです。やっと復員船(空母)が来て、ようやく日本に帰ったという苦心談をしてくれました。
 そこで思わず私は、「ご主人、その空母の名前当てましょうか」 と言いました。「えっ」と絶句しています。私は静かに「葛城でしょう」、と言いました。このときのご主人の驚きようと喜びようは今でも覚えております。「戦後60年生きてきたが復員船の名前を当てたのは先生一人だ」と言って、私の手を取って喜んでくれました。そして「神様が導いてくれた」とまで仰るんですね。すると奥様が「主人にこの話をさせると夜中になるので先生、もうしない方がいいですよ」と隣で言いました。夫人も若いときに戦地に夫を送り出して、家業を切り盛りし、家族を守って、随分辛い思いをしたに相違ありません。私も込み上げてくるものがありました。その後の手続きが順調に行ったことは言うまでもありません。
 尚、遺言者たるご主人はその後、平成24年秋、静かに往生されました。心からご冥福を祈りました。
 余談ですが、葛城は、大戦後半、雲龍、天城、葛城、笠置、生駒、阿蘇と六隻建造した同型空母の3番艦でした。ほぼ完成した状態で終戦を迎え、復員船として活躍したのですね。なるほど空母は飛行機を格納するように設計されていますから空間が広いので復員船には最適ですね。古い写真に葛城が復員船として出港している写真があります。偶々それを私は覚えていたのですね。雑学が依頼者の信頼を得ることもあるのですね。

兵庫開港問題再考

 この問題は、拙書「最後の将軍徳川慶喜の苦悩」で取り上げているが、最近得た資料で若干の訂正をする必要もあり、改めてこの問題を取り上げてみたい。

 尚、以下の記載は、10月14日、横浜南ロータリークラブにて行った講演原稿を若干加筆修正したものである。

徳川慶喜と兵庫開港問題 幕末政局の転換点 
1、兵庫開港問題とは
 1858年7月29日(安政5年6月19日)、井伊直弼を中心とする徳川幕府アメリカ合衆国との間で日米修好通商条約を締結し、その後、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を締結した(いわゆる安政五カ国条約)。
 この条約では、今後5年以内(1863年1月1日、文久2年11月12日)の兵庫開港が決められていた。
 しかし、文久に入ると攘夷運動が激化し、孝明天皇の外国人嫌いもあって、京都に近い兵庫を開港することは到底無理な状況となった。そこで幕府は欧州に特使を派遣して開港延期交渉を行い、当時の駐日英国公使オールコックの協力もあって、5年の延期を認めてもらった。そして開港の期限は慶応3年12月7日と定められた。開港するにはその6か月前に国内に布告する必要があるので、幕府は慶応3年6月7日までに、兵庫開港の国内布告をしなければならないという非常に大きな問題を抱えていた。
 ちなみに、攘夷運動が激化したのは単に思想的理由だけではない。開国により諸物価が跳ね上がり、庶民の生活を直撃している。日本は長年鎖国をしていて貿易体制が十分に整わないままの開国だったので様々な混乱を生じたのである。更に安政文久年間にコレラが大流行した。すぐ死んでしまうので皆が「コロリ」と言った。江戸では23万人が犠牲になり、どの家も玄関や神棚にコレラ除けのお札を貼ったりしている。横須賀のある村では入り口にドクロの彫り物をした立て札を立ててコレラが来ないようした、という話を郷土史家の先生から興味深く聴いた記憶がある。
 物価の高騰もコレラの流行も開国のせいだ!と言えなくもない。
 慶応2年8月20日(1866年)、徳川本家を相続した慶喜は、当初将軍就任を渋っていたが、この差し迫った兵庫開港問題を自らの手で解決するにはやはり将軍に就任するほか無いと判断したのであろうか、慶応2年12月5日、つまり兵庫開港国内布告期限の半年前に、(京都で)第15代征夷大将軍に就任している。
 幕府は、慶喜がまだ正式に将軍に就任する前の慶応2年12月2日、早くも諸外国に、謁見を行うので大坂に参集するよう通知をした。随分手回しがよいことだ。しかしこれにはオールコックの後任公使パークスが異を唱えた。(将軍がただ謁見を行うだけでは、幕府権力の強化に力を貸すことになるだけなので)幕府が本当の日本政府なら、謁見の際に兵庫開港を確約すべきである、との旨を12月7日、老中稲葉正邦に告げている。兵庫開港について幕府はまだ勅許を得ていなかったので、これは幕府の弱みを突いたと言える。
 そこで幕府は、翌慶応3年1月10日、孝明天皇の死去を理由に謁見を延期し、兵庫開港の準備を急いだ。6月には国内布告しなければならなかったので、残された時間はあまりなかったのである。また慶喜と親しいフランス公使のロッシュが、2月6、7の両日、(京都から下坂した)慶喜大坂城で会見し、兵庫開港を宣言しなければパークスは謁見に出席しないだろうと述べている。将軍慶喜が「断然兵庫を開港すべし」と決意したのは多分この時ではないかと小生は推測する。
 ちなみにパークスという人は優れた外交官であったが、気難しいうえに癇癪持ちの大男で、幕府の外国奉行等も手を焼いたようだ。筆頭書記官のアーネスト・サトウもあまりパークスのことをよく言っていない。
2、兵庫開港の意義と幕府の方針
 幕府は、兵庫開港については初めから積極的で、慶喜も兵庫を開港する揺るぎない決意を持っていた。決して諸外国に迫られてよんどころなくやったのではない。
 では兵庫を開港することにどのような意味があったか、以下のとおり述べてみる。
① まず国際社会との約束である。仮に兵庫開港が出来ないことにでもなれば、日本は諸外国からの信頼を将来に亘って失ってしまい、近代国家の仲間入りが出来なくなってしまう。
 自らの手による日本近代化に強い意欲を持っていた慶喜は何としても約束を果たしたかったと推測される。小生は慶喜の心を突き動かした最大の要因はこれだと推測している。
 又、当然のことながら、将軍自らが開港を宣言することで、幕府が日本の統治者であることを内外に示し、その求心力を高めるという政治的かつ外交的意義がある。
② 次に経済的利益が挙げられる。貿易が順調に進むと、3年もすれば100万両の関税収入が見込まれていた。当時の幕府の歳入が(なかなか分からなかったが)約450万両(拙書では600万両としていた)と推測されるので、この100万両がいかに大きな額かが分かる。
 更に例示すると、当時世界最高水準の戦艦開陽丸のオランダに支払った建造費が50万ドルで、当時の為替レートで換算すると37万5000両となる。要するに幕府は十二分の武器弾薬を満載した開陽丸クラスの軍艦を毎年2隻づつ就役させてもまだ資金が余ることになり、これでは反幕勢力との軍事力は比較できなくなってしまう。余談だが、この開陽丸は榎本武揚が乗って函館に行くのだが、江差に廻したとき猛烈な時化に遭い座礁沈没してしまった。
③ 何よりも諸外国は、兵庫での貿易が軌道に乗れば日本の内乱を絶対に望まなくなり、薩摩贔屓の英国も現政権つまり幕府を支持せざるを得なくなる。反幕派は倒幕の機会を永久に失ってしまい、日本の近代化は徳川勢力の主導で行われることになる。
④ 親仏幕権派の巨頭にして勘定奉行小栗忠順(上野介)、この人は関東の行財政改革の全てを仕切っていたが、当時の武士には珍しく経済に明るくしかも物品の流通等を正確に把握していた。
 小栗は、慶応3年6月5日、来たるべき兵庫開港に備えて、三井や鴻池等の豪商を糾合して、半官半民の兵庫商社を結成させた。兵庫港を整備するには巨額の資金が必要で、財政難に喘いでいた幕府には彼らの協力が不可欠であった。又、横浜では外国商人に物品を安く買い叩かれていたので,この兵庫商社を結成して物品の輸出入を独占し、貿易の利潤を確保することを目論んだ。
 又、小栗は三井、鴻池等の拠出した資金を担保にして100万両規模の兌換紙幣の発行を企てていた。小生は最近得た資料で、1万両だけだが、兌換紙幣が発行されていたことを知った。この兌換紙幣発行が順調にいけば、財政面でも幕府は完全に立ち直ってしまう。
 反幕勢力にとって更に都合が悪いことに、西国雄藩は三井、鴻池といった豪商に多額の(というより天文学的な)借金があり、ただでさえ頭が上がらない(薩摩は500万両の借金があった)。倒幕の機会は無くなってしまうのだ。
⑤ 当時の下関は密貿易で大いに栄えていたが、兵庫が開港されれば姑息な密貿易などは霧散し,下関は火が消えてしまうことになる。長州にとっても困ったことになるわけだった。
3、幕府と反幕派との政治闘争と慶喜の決断
 以上から分かるように、幕府主導で兵庫が開港されることは、反幕派にとっては決定的に不利になることが明白だった。だから、反幕派は何としても幕府の手による兵庫開港を阻止したかった。そこで兵庫開港を巡って幕府と反幕派との熾烈な政治闘争が始まるのであった。反幕派(その中心は薩摩だが、実はこの当時の薩摩はまだ一枚岩ではなかったのだが、薩摩と一括りにすることを許されたい)が打った様々な対抗手段と幕府との駆け引きを少し述べてみたい。
 まず、薩摩は、兵庫開港問題について、パークスをして直接朝廷と交渉させ、外交権を幕府の手から奪い、薩摩を中心とする雄藩連合に移そうと企てていた。しかし、パークスはこれを日本の国内問題だとして取り上げなかったので、薩摩は当てが外れてしまい、戦略の練り直しに迫られた。さすがのパークスも内政干渉はしたくなかったのである。
 何よりも薩摩は、勅許なしには慶喜は兵庫開港を宣言できないだろうと踏んでいた。そこで反幕派の公家に猛烈に入説して勅許の阻止に全力を注いだ。これは成功し、慶喜は3月に二度勅許を奏請したが、いずれも却下されている。よって慶喜は勅許なしに下坂し、謁見を挙行することになったのである。ちなみに慶喜は将軍宣下後もずっと京都に留まっており江戸には帰っていない。江戸に戻れるような状況ではなかったのだ。
 果たして慶喜は、3月25、26、27、28、29日及び4月1日の六日間、大坂城で英・仏・米・蘭の四カ国公使を堂々と謁見したのであった。謁見は、各国ともテーブルを囲んでの非公式の話し合いをする内謁見と烏帽子直垂に身を包んで各国公使と厳粛に対面する公式謁見(有名な写真のとおり)の二回づつ行った。この日程は想像しただけでもかなり過密だ。このスケジュールを難なくこなしてしまう慶喜の能力には誰もが脱帽するほかないのでなかろうか。しかも慶喜はただの飾り物ではなく、自ら最高のホスト役を堂々と演じたのである。小生は、この外国公使の謁見が、短かかった慶喜政権の絶頂期であったと考える。
 この公式謁見の場で慶喜は、「祖宗以来の兵馬の権を掌握せしにつき、大法を遵法し、貴国と結んだ条約を一々踏み行うことを断然決定した!」と事実上の兵庫開港を宣言したのである。徳川慶喜は声がよく通る人だったという記録が残っているが、大坂城の大広間に将軍慶喜の声がビンビン響いたのではないか!
 この謁見は大成功で、パークスは本国の外務大臣スタンレーに宛てた手紙で、慶喜の素晴らしさを縷々語り、絶賛している。何よりも慶喜が率直に兵庫開港を宣言したことを評価し、日本近代化のために自らが率先して行動することを述べたことや、彼の風貌容姿などを讃えている。
4、兵庫開港宣言後も幕府と反幕派との水面下の政争が続いた。
 しかし慶喜には最後の関門が待っていた。勅許である。反幕派はここを最後の拠り所として勅許阻止に全力を傾けた。
 まず、反幕派は、慶喜が勅許なしに兵庫開港を宣言したことを違勅と責め立てた。 これに対し慶喜は、条約の対外的宣言と国内布告は別問題で、国内布告についてのみ勅許が必要だとの見解を示している。要するに国際法上の条約二元論の主張である。当時の慶喜国際法を熟知していたとは考えられないが、こうした法理論を即座に展開できるのが慶喜の優れた能力であった。ただ、国内布告のために勅許が必要であることは変わりは無かった。
 次に、薩摩は一つの奇策を用意していた。パークスの旅行である。慶喜の兵庫開港宣言の直後、まだ大坂に留まっていたパークスと面会した薩摩藩士は、パークスに出京及び国内旅行を勧めたのである(けしかけた)。これは外国人の日本国内旅行により、排外感情を引き起こし、幕府を困らせようとするまことに陰険な策謀であった。幕府は入京をしないことを条件に渋々同意したが、パークスは4月12日、伏見、大津を経て敦賀へ出た。果たして京都は騒然とした状況となり、異人が都に潜伏しているなどの流言が乱れ飛び、佐幕派の公家の議奏・伝奏が四人も免職となった。(その後開催されるはずの)廉前会議で佐幕派の公家が減れば慶喜は不利になるので、この薩摩の策謀は成功したのである。
 更に薩摩はこの兵庫開港問題が慶喜攻略の最後の手段とみて、早くから島津久光(薩摩太守)・福井越前松平春嶽・土佐山内容堂・伊予宇和島伊達宗城という当時の日本を代表する有力諸侯に根回しをして、これらの諸侯の京都集結を促した。ただ、この四人が京都に集まったのは5月初めであったので、慶喜が兵庫開港宣言をしてから大分日が経っていた。
 本来、薩摩としては、慶喜の兵庫開港宣言前にこの諸侯達を集め、反幕派の公家と連携して、勅許と兵庫開港を結びつけて慶喜を追い詰めるのが目的であった。しかし、慶喜が意表を突いて勅許なしに兵庫開港を堂々と宣言し、しかもこれが諸外国に絶賛されたのでこの意図は挫かれてしまったのである。
 そこで今度は、この諸侯達に、長州処分問題(当時の大問題)を持ち出させ、兵庫開港問題と関連付けて慶喜を追い込もうとしたのである。諸侯達は数回に亘って二条城で慶喜と会談したが、結局意見がまとまらず、山内容堂に至っては土佐に帰国してしまい、激派の憤激を買ったほどであった。
 この四候会議の分裂は、将軍慶喜に兵庫開港を強行する大いなる自信を与えた。要するに諸侯達が纏まって反対しなければ何とかなると踏んだのである。
 果たして5月23日夜八時、参内した将軍慶喜は、30時間奮闘して翌5月24日深夜二時、兵庫開港の勅許を取得した(体力勝負のようなことをした)。幕府は慶応3年6月6日、来たる12月7日に兵庫を開港する旨、堂々と布告した。
 この一連の兵庫開港問題で薩摩が常に幕府の後手に回った最大の理由は、慶喜が、たとえ勅許が得られなくても徳川家と自らの存亡を一挙に賭けて、兵庫開港を宣言する決意を固めていたことを予測できなかったことだ。
 尊皇攘夷運動が吹き荒れていた文久年間ならいざ知らず、慶応3年ともなると開港は国是であることは誰もが認めていた。だから、将軍慶喜は日本国統治者として、自らの手で国際社会との約束を履行し、兵庫を断然開港する決意だった。薩摩は、この慶喜の揺るぎない決意を見抜けなかったのである。
5、結語
 兵庫開港問題で慶喜に完敗した薩摩は、政治闘争では到底慶喜に勝てないことを悟り、その方針を、早くも翌日の6月7日から武力討幕に転換し、嘗ての仇敵長州との連携を強め、芸州をも巻き込んで武力による討幕そして打倒慶喜の具体的準備に邁進した。そのタイムリミットは兵庫開港予定日の12月7日であった。
 小生はこの兵庫開港国内布告こそが、正に、(反幕派が武力討幕に方針を転換した)幕末政局のターニングポイントになったと考えている。
 ちなみに、討幕派が王政復古のクーデターを敢行したのが12月9日なので、間一髪、慶喜を追い落とす可能性をこの時漸く手に入れたのであった。
 

加山雄三を讃えて  そして恋は紅いバラ

 一、恋は紅いバラ
1、八月の終わり頃から加山雄三の「恋は紅いバラ」を練習している。毎日、朝夕入浴時運転中寝る前、思いつけば唄っているからもう数百回だ。私は音程には自信があり、この曲唄いたい!と思えばまず習得出来る。しかしこの歌は意外と難物だ。半音を多用しているので正確な音程が取りにくい。最近になって漸くしっかり唄えるようになった。
 実はこの曲には思い出がある。昭和40年、私が中学2年の時だったと思う。親しい同級生3人で初めて横須賀に映画を見に行った。目当ては東宝得意の特撮映画、「フランケンシュタイン対地底怪獣バルゴン」だった。この映画、怪獣映画としては二流だった。やはりゴジララドンモスラの三大怪獣に比べて見劣りすることが明らかだった。ただ何分子供だ。初めての映画館でわくわくしたものだ。当時はどの邦画も二本立てだった。それが加山雄三の「海の若大将」だった。この映画は全く目当てではなかったが、見るともなく見て意外と面白かった。そしてこの映画に出てくる星由里子さんが何と綺麗なこと!世の中にこんな美しい女性がいるのか!と驚いたことを今でも覚えている。
 何よりもこの映画の中で唄う「恋は紅いバラ」がとても素敵だった。当時の日本の流行歌では考えられない垢抜けしたメロディで、アメリカのポップスのような曲だった。私は子供の頃からアメリカのヒット曲を聴いていたせいか、この曲をすぐ受け入れることが出来た。まさに思春期に差し掛かる少年の初い気持ちを捉えて放さなかった。加山雄三はこの後すぐ「エレキの若大将」で「君といつまでも」を歌い、大ブレークした。私は、「 俺はもっと前から加山雄三を知っているんだよ!」というおかしな優越感を当時から持ち続けていた。
 私が加山雄三の曲で一番好きなのは、この「恋は紅いバラ」だ。大体の人が「君といつまでも」を挙げるだろうが、私は断然前者がいい。何か男のはにかんだ心情を見事に歌にしたような名曲だと思っている。何よりもメロディがとても素敵だ。それに比べ、「君といつまでも」を初めて耳にしたときは、聴くこと自体恥ずかしかった。あまりにもストレートではないか? 中学生の私にはちょっと聴くに堪えなかった。最近、Kayama Yuzo Premium Bestというアルバムを買った。自分の年齢を考えて、もうCDは原則買わないことにしている。しかしもう一度加山雄三を聴き直してみたくなってつい手を出してしまったが、このCDドンピシャの当たりだった。何よりも、音源が当時のままなのが一番嬉しい。音があまりよくないがそんなことは問題外だ。またこのCD、オーケストラが実に美しい演奏をしている。正に出色盤だ! 改めて聴き直してみると、みんな素晴らしい曲だ。「ある日渚に」なんか最高だ。
2、ところで、この「恋は紅いバラ」を最近唄うようになった切っ掛けは全くの偶然である。ここからはひどく長い前置きになるので、気が向いた人だけに読んでもらいたい。
(1) 実は5月22日の日曜日夜九時頃、Yシャツを畳みながら、N響アワーを付けた。そこで驚嘆すべきシーンに出くわしてしまった。何となんと十一歳の少女がN響メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲を弾いているではないか!その音色のなんと美しいこと。私は思わず聴き惚れてしまった。しかもこの少女、可愛い上にマナーが最高に良い!お辞儀の仕方がなんとも可愛くて謙虚だ。早速パソコンで調べたら、その名も吉村妃鞠!どうやら知らないのは私だけのようだ。そしてこの日から彼女の演奏をYouTubeで聴く毎日が始まった。クラシック好きな年長の友人K氏にも早速この演奏家の存在を伝えた。数日して彼に電話したらやはり病みつきになっている様子であった。「CD出たら買いましょうね!」と言ったら、「いや、あの子は、映像で見るのが最高ですね!」という回答だった。
 そしてこの妃鞠さん、嬉しいことに得意のレパートリーがパガニーニなのである。以前ブログに書いたが、私はパガニーニの曲が大好きだ。バイオリンコンチェルト第1番を始め、カンタービレ、ラ・カンパネラを弾いている映像がたくさん出てくる。私はこれらを見る度に感動で泣いている。とにかく妃鞠さんは素晴らしいの一言に尽きる。
 今年はジュリアード音楽院に行くらしいが、順調に成長すれば、歴史に名を残す演奏家になるのではないか!我々ファンの期待と夢は広がる一方だ。
(2) ここまで書いても、何ら、「恋は紅いバラ」とは繋がらない。読者にはもう少し我慢されたい。
 妃鞠さんを毎日聴いていると嬉し涙の連続になる。泣いてばかりいると目が渋くなってくる。そこで少し気が抜ける曲を聴きたくなった。季節は夏だ。もうベンチャーズ以外はない。私はベンチャーズの大ファンだ。CDも10枚ほど持っている。彼らが1965年に来日したときはテレビに釘付けになって見ていた。このライブはCDになっていて、もちろん時々聴いている。ベンチャーズの演奏もやはり初期のものほど良く、代表的アルバム 「The Very Best of The Ventures Kayama Yuzo Serection」なんか最高だ。ファンならきっと分かるだろうから好きな曲を何曲か挙げてみたい。
まず、ウオークドントラン  これは外せない。
ダイヤモンドヘッド 日本で初めに大ヒットした曲だ。
ランナウエイ ノーキ・エドワーズのリードギターが小気味良く唸りをあげて冴え渡                  る!ドン・ウイルソンリズムギターも絶妙だ。
ブルースター これ、とても美しいメロディだ。最後の転調するところなんかもう最高!
10番街の殺人 (個人的には)ベンチャーズの最高傑作ではないか!
青い渚をぶっ飛ばせ これ、冒頭、バイクかなんかの音が入る。もうウキウキするような曲だ。夏の暑い日はこれを大音量で聴くのが最高に心地よい。 

そしてお決まりのキャラバン! これ、ライブの最後に必ず演奏するが最高に盛り上                 がる!
 他にも、クルエルシ-、ドライビングギター、ワイプアウト等枚挙に暇がない。
また注目すべきは、ベンチャーズ加山雄三の曲を好んで弾いていることだ。ベンチャーズの演奏する「君といつまでも」や「夜空の星」は、エレキ曲としても大ヒットした。そして何よりも、「ブラックサンドビーチ」!これ、日本人のエレキの曲の最高傑作だが、なんと加山雄三が作曲したものだ。彼はベンチャーズと親しいが、このバンドが有名になる前からすでに注目していたというから、凄い慧眼だ!また加山雄三エレキギターが素晴らしく上手い。下品な表現をすれば、エレキギターで十分飯が食える!というほど達者だ。
 前置きが異常に長いが、もう少し我慢されたい。ベンチャーズのCDを沢山持ってはいるが、YouTubeで聴くのも愉快だ。映像があるから楽しいのだ。また私はドラムが好きだ。実は、慶喜公を自費出版した時に、手間の係る校正を引き受けてくれた友人の高橋克己氏がエレキギターの名手で時々バンドを組んで演奏会をやっている。私はドラムを習い直して克己氏とベンチャーズを演奏するのが夢だ!
 実は高校の時ブラスバンドに所属していて、スネアドラムの基本は出来ている。あとはセットドラムをマスターするだけだが、ベンチャースやスイングジャズを若いときから聴いているので、曲想やメロディはすぐ分かる。あとは手足を動かすだけだが、かなり自信がある。ドラムは老化防止にも最適ではないかと考えている。手足さらに頭も同時に使うからだ。唯一心配なのは私は体が硬いので足がしっかり動くかどうかだ。また諸事情があり練習等の時間を確保できるかどうか?少し迷っている。
(3) 話を元に戻そう。ベンチャーズをYouTubeで見ていると、必然なのか加山雄三が出てくる。ベンチャーズとの共演シーンやランチャーズをバックにエレキを弾くシーンだ。そんな中で加山雄三が隣に座って市川由紀乃という歌手が唄う「恋は紅いバラ」が飛び込んできた。この曲を聴くのは何十年ぶりか。しかも別人が唄うのだ。なんだか興味が湧き、クリックしてみた。するとこの由紀乃さんのなんと上手なこと!私はびっくりしてしまった。大体流行歌手は他の歌手の持ち歌を唄えない。仮に唄ってもやたらと崩したり変に溜めて唄ったりして、ほとんどが聴くに堪えない。しかしこの由紀乃さん、原曲のとおり、寸分も違わずしかも情感豊かに唄い上げるのだ。加山さんは台詞の部分だけを歌ったが、多分由紀乃さんには感心していたのではないか。私が「恋は紅いバラ」を数十年ぶりに思い出す切っ掛けとなったのは、加山雄三本人ではなくこの市川由紀乃さんであった。そしてこの日から毎日「恋は紅いバラ」を唄うようになった。さらに加山雄三の魅力を再認識し始めたのである。
 この人の曲は泥臭さとは全く無縁で、垢抜けして常にピュアだ。演歌っぽい要素や陳腐なしがらみ等が全くない。要するに、純粋に男の心情を表現する彼の歌は、従来の日本の流行歌とは全く異質な存在なのだ。むしろ彼の歌はアメリカのポップスに近いのかもしれない。 彼は決していわゆる「上手い」歌手ではない。しかし自分の心情をそのまま自ら作曲して表現するのだから、上手い下手は関係ないのだ。また彼の歌にはセリフが入る事が多々ある。大体、日本人は曲中のセリフが苦手だ。サマにならないのだ。しかし加山雄三は、曲中のセリフが自然体で実に素晴らしい。「君といつまでも」のセリフなんか、他の歌手が唄ったら吹き出してしまうか、あるいは気障で聴くに堪えないだろう。

二、加山雄三という個性
 今まであまり考えたことがなかったが、加山雄三という人は、戦後初めて日本の若者に、ある種のモデルを示した人ではないか。そう考えると彼の存在はとてつもなく大きいのである。
 日本の映画界は戦後(民主主義の)新体制になってもしばらくの間、若者のモデルを示すことが出来なかったが、昭和も30年代に入り、漸くその兆しが出始めてきた。その筆頭が石原裕次郎であった。彼は「太陽の季節」や「狂った果実」で、初めて戦前のモラルをぶち壊した。 戦前の若者のモデルは言わずと知れた軍国青年である。帝国主義下では当然のことである。他方、帝国主義になじめない(戦前の)若者は、思想的相克に悩み、恋愛に悩む。つまりこの悩める若者達は総じて病弱で行動力がない。典型的な青白き秀才だ。 石原裕次郎は、そういった青白き秀才達とは全く無縁の健康な若者を演じた。しかし彼が演じたのはいわゆる不良であった。なぜ不良だったのか?それは昭和30年代の初めはまだ民主的な市民社会が成熟しておらず、国民も決して豊かでなかった。何よりも大学生の人数も少なかった。要するに、健全な若者のモデルを示す基盤としての市民社会が未熟だったのだ。だから当たり前の若者を描く事が出来ず、結局不良の世界を借りて、戦前のモラルもぶち壊すほかなかったのである。要するに石原裕次郎は映画スターではあっても、若者のモデルにはなり得なかったのだ。
 これは大ファンの小林旭を見るとさらにはっきりする。彼の映画は荒唐無稽で現実性や日常性がまったく無い。虚構の世界そのものだ。大体昭和30年代になって馬に乗る訳がないが、彼は馬に乗って登場する。そして酒場の地下に颯爽と現れ、ギター片手に一曲唄った後、必ずトランプをやり、そのいかさまを見抜いて大立ち回りをする。大体日本の賭博は花札かサイコロではないか?そもそも当時の酒場の地下に賭博場があったのかどうか知るよしも無いが、さすがにトランプはやってなかっのではないか。また最後のクライマックスはお決まりの派手な拳銃の撃ち合いになる。どう考えてもあり得ない世界だ。旭の映画は非日常の極致だった。
 私が小学生の時、三崎に映画館が三つあった。通学の途中、日活のポスターがいつも貼ってあり、それは言わずと知れた日活のドル箱映画「渡り鳥シリーズ」だった。旭が拳銃を構え、その向こうに宍戸錠がやはり拳銃を構えている。旭のそばにはいつも可憐な浅丘ルリ子がいて、端の方にヌードダンサーの白木マリが怪しいポーズで立っている。この映画をなんとか見たくて、母親に「あれを見たい」とせがんだ。母の回答は「あんなものを見ると不良になる!」の 怖~い一喝だった。
 大分脱線したが、要するに石原裕次郎小林旭は紛れもなく映画スターだが、それはあくまでスクリーンの中でのことだ。その意味では、大映の看板シリーズ市川雷蔵眠狂四郎勝新太郎座頭市と変わらないのだ。
 総じて我々見る側は、映画に非日常の世界を期待する。日常はつまらないし刺激が無い。だから、時代劇(これは過去の世界だから、非日常100%!)、アクション物、刑事物、怪獣映画、スペクタクルなど、我々の身辺にはあり得ないものを映画に求める。
 しかし加山雄三はその若大将シリーズで、従来の映画の主役と全く異なる個性を示した。そこに出てくる加山雄三演じる若大将こと田沼雄一は、ごく普通の大学生で、日常的な生活を送っている。但し「二枚目でスポーツ万能、女性にモテて、知的、性格も素晴らしい!」という設定である。この映画では、拳銃もトランプも派手な殴り合いのアクションも出てこない。しかしそんなものは無くても、この映画は当時の若者に圧倒的な支持を受けた。スポーツに熱中し、純粋で歌が上手く、女性にモテるが不器用でなかなか告白できない、という若大将は当時の若者からすると理想的な人物像であった。これを見る者皆がこの若大将に憧れ、自分もこうなりたい!と思ったのではないか。その背景には東京オリンピックが行われた昭和39年頃からの高度成長期における日本社会の安定化と大学生の増加等があったのであろう。
 要するに、日本映画界は、この時期に至って、漸く若者の日常の世界を映画のテーマにすることが可能になったのである。
 しかし日常を扱う映画となると、その主役がよほど魅力が無ければ、客は入らないことが容易に想像される。その意味で、加山雄三は正にドンピシャの求められた男そのものであった。
 加山雄三という人は、二枚目でとても知的だ。何よりもがっしりしていて健康的、しかも人なつっこくシャイだ。スポーツ万能でピアノが弾け、ギターもとびきり上手い。さらには作曲まで手がけてしまうという正に百才を持って生まれた男で、ケチの付けようが無い。
 彼は、若大将を演じるについてもあまり違和感が無かったのではないか?演技など不要で、普段の等身大の自分をそのままスクリーンに投影するだけでよかったのだろう。我々がこの映画を見ていてごく自然に受け入れられるのはそのためだ。
三、結語
 加山雄三はその出現以来、類い稀な個性として輝き続け、日本の若者の憧れであり続けてきた。それは虚構ではなく、彼の本質そのものが素晴らしいからである。だから彼は、単に芸能界などと言う狭い世界を超えた日本文化の至宝とさえ言えるのではなかろうか。
 今年でコンサート活動を終えるそうだが、加山雄三さんには、いつまでお元気でいてもらいたい。我々の永遠の若大将として!

最後の将軍徳川慶喜の苦悩増補改訂版の執筆を終えて

ようやくタイトルの執筆を終えた。あとは出版を待つばかりだ。ホッとしたがやや気が抜けてしまった。

 今回は大政奉還以降の状況について初版で書き足りなかったことを補足するのが主たる目的であった。そしてこの目的はほぼ達成され、その意味では満足している。

 しかし冷静に振り返ってみると、今更ながら、慶喜の政治行動の基本理念は何であったのだろうか?と考える。それこそが鳥羽伏見で周囲はたまた後世からの批判を顧みずに敢行した大坂城脱出の根底にあったものではないか。筆者は敢えて小著でそれを書かなかった。読む人が必ずそこに行き着くと思ったからである。

 ではそれは何か?やはり「国益」だったのではないか?慶喜の行動原理は国益の遵守だったと考える。当時、日本近代化は国是であった。徳川と薩摩・長州はそのヘゲモニー争いをしていただけなのである。鳥羽伏見で一敗地に塗れた慶喜は、悔しいがヘゲモニー争いから離脱したのである。その彼の決断を突き動かしたのは、結局国益の遵守だったと考える。それは武家の意地とか徳川家の護持とかあるいは漠然とした尊皇思想などそんなレベルの話ではない。だから慶喜は後世の批判などあまり恐れていなかったのではないか。

自分の名誉を捨て、大多数の批判を浴び、後世までも残る汚名を承知で国益を守った徳川慶喜はやはり偉大な敗者そのものである。

 

最後の将軍徳川慶喜の苦悩増補改訂版あとがき

増補改訂版 あとがき
  歴史上の人物の評伝を書くとき最も大切なことは何か?それは言うまでもなく事実に忠実なことである。小説ではないのだ。事実を外すことは許されない。しかし事実を淡々と述べるだけならそれは単なる記録に過ぎない。書いた物に血が通い、読む人に納得してもらわなければ意味がない。ではどうすれば血が通うのか?
 やはりその人物の立場に立って、「一緒に悩み、時には一緒に喜ぶ」ことではなかろうか?勿論、慶喜公は(拙書の)タイトルの通り「苦悩」の方が多かったであろうが。
 だから、いくら客観的に書いてもその人を好きにならないと血が通った物は書けないのではないか。筆者は事実を外さないようにしたつもりである。しかしそれだけでは何も書けないし、何よりも書くエネルギーが生まれて来ない。
 筆者は素人なのでプロの学者の手法は知らない。しかし慶喜ファンであることは誰にも負けないつもりである。その情熱がこれを読んで下さった人に伝わればこの拙書の目的は達成だ。
 一点だけ言い訳をしたい。この拙書は、初めから構想を練って一気に書いたものではない。2015年の2月からブログにて発表を始めたものだ。2018年の夏になり、丁度半分位、即ち、大政奉還直前あたりまで進んだ頃に出版を思い立った。だから、前半の部分(特に序論)と後半の部分とで、記述に若干の矛盾が生じている。これは止むを得ないことだ。縁あって拙書を手にして下さった読者の方々は、この矛盾をむしろ、「筆者が書き乍ら進化した」と善解し、笑読して頂きたい。
 
 初版の執筆後記にも記したが、この改訂版を偶然にも慶喜公が手に取ってくれたら多分こう仰せになるだろう。「しかし、松原とやら、余程ワシの事を好いておるのじゃノウ。嬉しく思うぞ。」 とである。
 平伏した筆者は、額を畳に擦りつけてそのまま感涙に咽びつつ気絶してしまうかもしれない。
 この改訂・増補版も旧友の髙橋克己氏に校正を依頼し、快諾を得た。改めて厚くお礼を述べたい。
 また湘南社の田中社長にもお礼申し上げる。


番外編  慶喜公拝謁の夢
 ある初夏の清々しい日、慶喜公からお召しがあった。筆者は、礼服を新調して拝謁の栄に浴する事になった。その日、三崎名物のマグロ、そして三浦特産のスイカ・メロン・カボチャをリヤカーに満載して、第六天町の屋敷に伺った。
 十二畳二間の畳部屋に続く広縁に通された。額を床に擦りつけていると、慶喜公がお出ましになった。勿論平伏しているのでお顔は拝顔できない。
 慶喜公が筆者に声を掛けて下さった。よく通る美声であった。「松原隆文近う参れ!」とである。筆者は緊張して声も出ない。
「どうした、こちらに来ぬか」
「ハアアアア」というのが精一杯である。しかし、何とか膝行して近くまで進む。
「顔を見せよ」
「ヘエエエ」
「顔を見せよというのじゃ」
 これ以上、下を向いていたら却って失礼と思い、恐る恐る顔を上げた。 写真で見たとおりの端正なお顔だが、間近に寄ると、更に威厳のある辺りを払う品格があった。
「沢山の手土産を持ってきてくれたそうじゃノウ。また家令達に心付けまで済まぬノウ。 ワシは鮪が大好きでノウ、夏なので西瓜や真桑瓜も美味しいノウ!」
「ハアアア」(この感激のまま失神したいと思った!)
「せっかくここまで来たのじゃ。何を聞いても良いぞ。但し、一つだけじゃ」
 筆者が一瞬頭をよぎったのは、パークス謁見の時の意気込みや大政奉還の際の心境、クーデターをやられた時の悔しさ、鳥羽伏見の敗戦時の無念等々である。しかし、筆者は意外なことを口走ってしまった。
「あの上様は」
「その上様は止めよ!」
「はい、では御前(ごぜん)はどのような女性がお好きでしょうか?」とである。
 慶喜公はにこやかに即答した。
「そうよのう。まあ女優なら若尾文子のようなおなご(女子)かのう。幾つになっても典雅にして可愛らしい。」
「えっ!」筆者は思わず顔を上げて、慶喜公の顔を見てしまった。慶喜公もこちらを見て微笑んだ。
 アっ女性の好みも筆者と一緒だったか!
 その後、慶喜公は、筆者を気に入って下さったようで、「昼餉を食べていけ」と仰せになった。再三固辞したが、家令が「御前の希望である!」というので、ご相伴にあずかった(この間の至福のひとときは、別の場所にて披瀝するつもりだ)。
 楽しい時間があっという間に過ぎ、日が傾きつつある四時頃お暇(いとま)することとした。
 すると慶喜公は、「何か欲しいものはないか?」と仰せになった。腰を抜かしそうになって戸惑っていると、
「遠慮は要らぬぞ」と仰せになった。
 黙っていては失礼なので、「誠に僭越ですが」
「何を僭越なことがあろう。何でも申せ」
「はあああ、では上様の書を頂きたく存じます」
「何、ワシの書か?」
「はい、家宝に致します」
「良かろう」
  お暇するときに、慶喜公の書を家令から渡された。そこには「真心」と書かれてあった。見事な書であった。筆者の最良の一日だった。

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