8月も終わろうとしているのに暑すぎる。思いつくままあれこれ考えてみた。興味のある人だけ笑読して頂きたい。
この出来事は、日本政治史上の画期だ。以下少し拙論を述べてみる。
日本史を紐解くと、天皇が政治権力を行使したのは古代の初期だけだ。9世紀から摂関政治が始まり、12世紀から武士に政治権力が移行してこれが明治維新まで続いた。その間の権力者達は、常に天皇にその権力の正当性を認証してもらわなければ成り立たなかった。
摂政関白は天皇の代理人だから、その地位そのものが天皇の存在を前提としている。武士はどうか?若干の時期を除き、武家政権は征夷大将軍となってその政治を始める。この官位は自ら名乗るものではない。時の天皇にその任命を乞い願わなければならない。つまり征夷大将軍の補任こそが武家政権正当性の認証だったのである。
ところで、天皇の最も大事な行事は新嘗祭だ。これによって農耕国家の至高の祭司としての義務を果たす。又、暦・年号の制定も大事な権限だった。
本能寺の変の原因は諸説があり、未だにはっきりしない。近年、天皇側近(具体的には近衛前久)が、明智光秀をそそのかしたとする説が出てきた。信長が尾張暦を採用するよう朝廷に迫り、これに危機感を抱いた近衛が動いたとするものである。当時、いかに朝廷の権威が衰えていたとしても、採暦権を要求することは天皇大権を犯すものだ。私はこの説、かなり信憑性があると考えるが、最近は下火のようだ。又、信長は法隆寺の秘宝蘭奢待(天皇も見たことがない!)を要求するなど、天皇の権威を失墜しかねない専横の振る舞いがあった。天皇側近には我慢が出来ないことだったのかもしれない。
足利義満も、太上天皇の尊号を朝廷に働きかけている最中に謎の急死を遂げている。不遜の行為だったのかもしれない。
要するに、いかに巨大な権力を取得しようと何だろうと、我が国で天皇の権威を否定するものは存在不可だったのだ。
鎌倉幕府は、最初の武家政権だ。成立当時はまだ公家勢力も健在で、日本全国を武士が支配していたわけではない。最近鎌倉幕府の成立を1192年ではなく、頼朝が守護地頭を置いた1185年とする説が有力になり、教科書もそうなっているようだ。しかし私は基本的に反対である。守護地頭を設置したのは、頼朝が主に関東の武家を統制出来るようになっただけで、これは日本の支配者としての正当性を認証されたわけでも何でもない。酷い言い方だが、武士という暴力組織の頂点になっただけで、暴力団の親分がヤクザ組織を把握したのと違わない。仮に南宋国から使者が来たら、その外交権は頼朝にあっただろうか?答えは否である。外交権は以前と同様、朝廷にあっただろうし、南宋国も頼朝を相手にはしなかっただろう。そんな関東の太守としての地位を確立しただけの時期を、幕府成立の時期とするのは明らかにおかしい。やはり征夷大将軍に任じられた1192年をもって、文字通り公的に幕府政治が始まった日とすべきである。
話が飛ぶが、足利尊氏という人は思想的にも大変優れた政治家であった。一時(いっとき)、後醍醐天皇に敗れて九州に落ち延びて行く際に、光厳上皇から院宣をもらっている。つまり、尊氏は朝敵でも何でもなく、正当な日本の支配者だというお墨付きである。この院宣は九州の武士達に大きな効果を発揮した。あっと言う間に50万に膨れ上がった尊氏軍は怒濤の進撃を開始し、有名な湊川の戦いで楠木正成を敗死させ、堂々入京して後醍醐天皇を吉野に追いやった。
偉大な武士は、思想的にも偉大だ。徳川家康は、三河一国を統一した30代で、近衛家を通じて、朝廷工作をして、その姓を源氏にしている。近衛家に多額の献金をしたことは言うまでもない。この時点ですでに将来の征夷大将軍を見据えていたのであろうか? 徳川などという姓では征夷大将軍になれないことを熟知していたのであろう。公的に日本の武家は、源平藤橘しかない。
本題に入りたい。なぜ承久の変が画期だったのか? この事件は、後鳥羽上皇が北条義時追討令を出したことがきっかけだ。上皇は鎌倉幕府の力を甘く見ていた。又、西国の武士達が上皇に与することを過大に評価して、当てにしていた。事実、初期の幕府権力は西国の武家にはまだ浸透していなかった。 しかし義時追討令への幕府の反応が上皇の想定外に早く、幕府はあっと言う間に20万の兵力を動員し、京都に迫った。
この時、幕府勢力すなわち執権は何ら宮廷工作をしなかった。つまり正面から上皇と対決したのである。幕府は朝敵だ。しかし執権政府は何ら恐れず、堂々と上皇を攻めた。後鳥羽は隠岐に流刑、ほかの上皇達も退位配流させられた。日本政治の画期と言うべきだ。多分執権側は、正義は我らにあり!という絶対的な自信があったのだろうか。だから朝敵になることなどなんとも思わなかったのかもしれない。勃興する武家政権の自信かもしれないが、日本政治史上圧倒的画期といえる 。
そして慶応3年12月9日 王政復古のクーデター
時は下り、幕末、薩摩を中心とする王政復古のクーデーで大坂城に退いた幕府側では、続々集まる幕臣達の間で、親仏幕権派を中心として、承久の故事が囁かれていたようだ。確かにクーデター政権は天皇を擁してはいるものの何ら政治権力を持っていない。行政権も徴税権そして外交権も旧幕府側が維持しているままだ。金策に窮した岩倉は慶喜に10万両の借金を申し出ている。革新官僚達が、承久の故事に習い、この際、天皇を擁したクーデター政権を叩いて徳川政権による全国統一を考えることも可笑しくはない。
しかし徳川慶喜はその選択肢を採らなかった。 慶喜が思想的相克が出来なかったのか、あるいは政治情勢からして(春嶽や容堂が周旋していた)、京都侵攻は得策でないと判断したのか、その辺りは分からない。しかし薩摩藩江戸屋敷焼き討ち事件に端を発し、激高した幕臣達が怒りにまかせて京都進撃を企て、鳥羽伏見で惨敗したことを考えれば、12月の段階で慶喜は動くべきだったのかもしれない。
結論:慶喜公の孤独にして巨大な苦悩を考えれば、軽薄な後講釈は厳に慎むべきだ!