HIMARIさん、あなたもか!

 私は現代若者が使う言葉が余り好きではない。よく耳にするものが、「マジ?」「やっぱ」で、軽薄そのものに感じてしまう。言葉は時代とともに変わる。私の世代の言葉も前世代の人達からすれば若干違和感があるのかもしれない。しかし我慢どころではないだろうか。 
 若者言葉で我慢の限界を超えるのが、「ヤバい」だ。後輩がこれを口にすると、躊躇なく「止めろ!」と言う。この言葉は、そう遠くない過去までは非合法組織の隠語だった。これを若い女性が平気で使うと、ガッカリしてしまう。
 5月3日の日曜日に、NHKがHIMARI さんの特集を組んだ。14歳になって、音量が増し、技術も一段と上達している。もう楽しみでしょうがない。生きているうちに一度でいいから生演奏を聴きたいものだ。
 ところがである。インタビューで、彼女が「ヤバい」と言ったのだ。これには驚くやらガッカリするやら。何も上品な言葉使いをしてもらいたい訳ではない。しかしこれから古典の名曲を演奏するのだ。彼女の口から、「ヤバい」を聴きたくはなかった。
 私の感覚は時代遅れなのだろうか?
 

お茶を出さない海鮮料理屋

 二年程前のことだ。いつものW氏と月一度のランチに外に出た。彼はチラシ寿司が大好きで毎回それだ。しかしその日はいつもの店が休みで、市内の別の店に初めて入った。一見さんらしい客でごった返している。海鮮丼を食べたが、お茶ではなく水が出た。彼に「お茶出してもらおうか!」と言ったが、「いいよお!」だった。面倒だったのだろう。私は、「二度と来るのよすべよ!」  と三浦弁で言った。生ものを食べてお茶を飲まないのはかなり不愉快だ。
 それで思い出されるのは、もう40年以上前の出来事だ。婚約中だったから昭和58年か59年、鎌倉に行ったときのことだ。小町通りに、「茶店大○言」という店があった。そこであんみつを食べ、八幡宮を参拝して鎌倉巡りをする予定だった。以下のとおり。

私:   あんみつを食べ終わって、「お茶をください」と静かに言った。
店の人: 「お茶は出しません!」
私:   やや驚いて、「どうしてですか?」と、尋ねた。
店の人: 「土日は忙しいので、うちはお茶を出しません!」(驚愕の返答だ)
私:   「お宅の論法だと、平日あんみつを食べた客はお茶を飲みたくて、土日の客はお茶を飲みたくないということになりますね。およそあんみつを食べればお 茶を飲みたくなるんですよ!」(実に不愉快!)
店の人; 「・・・・・・・」
私;   怒りがこみ上げてきた。「店の暖簾に茶店と書いてあるではないですか!茶店とあってお茶を出さないのは詐欺に等しい商法だ!」 
他の客が一斉にこちらを見ているが、もう止まらない。「私達はこれから鎌倉巡りをする。あんみつ食べてお茶飲まなかったら一日気持ちが悪い。土日が忙しいというのならカネを払えばいいんでしょう。支払うからお茶を飲ませてください。」と言った。
店の人; 奥で、何やらグダグダしゃべっていたが、お茶を出してきた。
私;   帰り際、「いくらですか。支払いますよ」
店の人: 「いいです」
私:   「嘘つきにはなりたくないので払いますよ」
しかし、受け取らなかったので、お茶代を払うことなく店を出た。 

 この店、一見でごった返しているので、こういうことを平気でしていたのであろう。
その後、今の仕事を始めてから、同業とこの店の前を通るたびに、「この茶店はお茶を出さないぞ!」と言っていた。 
 しかし何年か前に小町通りを歩いたら、無くなっていた。やはりああいう商売をしていると結局客が来なくなるんだろう。と思うことしきりであった。
 どんな職業も常識的であって欲しいものだ。
 

フルトヴェングラーの名演二題

12月に入り、仕事が終わった5時、毎日この指揮者の演奏を聴いている。それも決まって、魔弾の射手序曲とフィンガルの洞窟だ。これを日替わりで聴く。どちらも10分そこそこなのでちょうど良い加減だ。ちょっとだけ述べてみたい。
 まずは魔弾の射手序曲から
 このオペラは30年戦争終了後のベーメンが舞台だという設定だ。しかしこの曲想から、もっと以前のハインリヒ捕鳥王が活躍した10世紀頃の鬱蒼とした森林(黒林)を連想させるのは私だけであろうか? 都合3種の録音を持っており、一枚は戦前録音、もう一枚は戦後のスタジオ録音、もう一枚はこれも戦後のしかも全曲盤だ。どれも素晴らしいが、敢えて言えば全曲盤だ!何しろ全編ゆらゆらモヤモヤして霧がかかったような雰囲気があらゆる想像力をかき立てて、堪らない。こんな演奏は今後出てこないのではないか。
 次にフィンガルの洞窟
 この曲は、若きメンデルスゾーンスコットランドの同地を旅行したときの感激を音楽にしたものだ。この洞窟の巨大な奇岩、光はあくまで薄く、水平線の彼方にキラっと船が見え、大きな波が打ち寄せる。そんな情景を見事に音楽にしたものだ。この曲を演奏するフルトヴェングラーはもはや神ががり的に素晴らしい。そして最後は得意の怒濤のフォルテシモを連発して終わる。この録音も3種持っている。一枚は戦前のベルリンフィル、もう一枚は戦後のウイーンフルとの共演でライブとスタジオ録音盤だ。ライブ盤は録音のせいかティンパニの音が大きすぎてやや耳障りだ。スタジオ録音盤が良い。 私事だが、父親がこの曲を大好きで、若い頃にベルリンフィルのレコードを聴いていたという。父は戦前盤が最高だといっていた。

 最後にフルトヴェングラーの演奏について一言だけ述べたい。
なぜ彼の演奏が素晴らしく聞こえるのか。長年分からなかったし、わかる必要も無かった。ただ彼の演奏は常にゆらゆらしていて、一糸乱れぬ演奏というものでは全くない。そこが生々しく人間くさく個性的なのではないか?などと感じていた。最近(と言うより大分前)分かったことだが、彼は意図的にオーケストラの音が揃わないようにしていたらしい。この不揃いがたまらなく良いのかもしれない。バイロイトの第九の最後などその最たるものだ。彼は気難しいで有名だったし、オーケストラにかなりの困難を要求していたようだ。楽団員の回想によると「皆が友情で結ばれていたなどということは絶対無く、辛くて逃げ出したくてしょうがなかったが、演奏後の聴衆の拍手があまりにも大きいのでそれが嬉しくて耐えていた」という。
 そのお陰で今日膨大な録音を聴くことが出来る。当分の夕方、この二曲の鑑賞が続く。

 

南足柄のバナナファーム

 若い頃から夢があった。それは赤道直下のジャングルへ行き、自生しているバナナを現地の人に捥いでもらい、その場で食べることだ。随分以前にラジオで聴いたことだが、南インドを旅行した人が、現地で食べた果物が卒倒するほど美味しかったと言っていた。誰もが知っているが、我々が食べるバナナは青いうちに捥いで輸入するものだ。だから本来の味ではない筈だ。是非樹上で熟したものを食べてみたいという願望があった。私は食べたさ一心で、庭に柿やサクランボ、梅を植え,季節になると収穫して食べている。梅はジャムにしている。今年の柿は大粒で期待できる。まもなく収穫だ。
 しかしバナナだけは植えられない。昨年の神奈川新聞に南足柄市の金太郎ファームの記事が載っていた。なんとハウスでバナナを栽培しているという!ずっと気にしていたが、出不精の私はそのまま1年経ってしまった。知人に尻を叩かれて、金太郎ファームに知人が予約をして、今月の4日に行ってきた。小田原から大雄山線に乗り、終点でバスに乗って10分くらいの場所だ。露地のバナナが植えてあったが、これは見るだけで、ハウスの中がバナナ園だ。実はバナナは草で樹木ではないという説明を受けた。この園主は会社員を退職して、手探りでバナナ栽培を始めたそうだ。家がミカン農家で、みかん園を一部バナナ園にしたということだ。誰も教えてくれる人がいなくて大分苦労したようだ。たわわに房をつけたバナナを見るとなんともいえない幸福感に包まれた。
 捥ぎ取りの実演を体験し、その場で二本食べ、スムージーを飲んだ。これが絶品だった。赤道直下に行くと、蛭に血を吸われたり、毒蛇にかまれたるする危険があるが、足柄ではそんな心配は無用だ。楽しい体験だった。
 その後大雄山最乗寺を参拝した。山全体が寺院で、大きな下駄が名物だ。それにしても先人達は偉い!ダンプも何もない時代にあれだけの大寺院を建設する。現代人はとてもかなわない。
 さらに足を伸ばし、小田原城に行った。以前展示していた錆びた槍や戦国武将の発給した見事な手紙などはもう展示していない。そこかしこに今風の漫画があり、皆現代人の顔をしている。一様に目が大きく不自然!これを見ると白けるばかりだ。
 久しぶりに17000歩も歩き、足が棒になったが、楽しい一日だった。

馬場さんの奇跡

 6月30日、久しぶりに東京に出張した。場所は新宿都庁に近いNSビルの中にある会社だ。この会社が三浦の物件を購入し、売主が旧知の三浦の会社なのでご指名だった。その日は午後も三浦で決済があるので、早めに戻らなければならない。朝の九時半にセットしてもらい、三浦海岸発7時10分の電車に乗った。朝の特急はノロい。しかもクーラーが効きすぎて寒くなってきた頃、漸く9時40分品川に着いた。 私は大学に7年通ったので品川は乗り慣れている筈だ。しかし、この日はどういう訳か山手線内回りに乗ってしまった。「高輪ゲートウエイ」と放送があり、アッと気づいて電車を降りて外回りに乗り換えた。5分ロスしたが、まだ時間は十分ある。新宿で降りた。都庁に20年通ったウチの有資格者が「南口で降りるんですよ!」とアドバイスをしてくれていたが、その南口が見つからない。西口でもよかった筈で、都庁方面の標識があったので歩き出した。しかしなんとなく不安だ。ノーネクタイながらスーツを着た企業戦士らしい人に早速尋ねた。以下のような遣り取りをした。
「NSビルに行くのですが、この道でよいのですか?」
「私もセントラルビルで、同じ方面なので一緒にいきましょう。」
これはありがたい。少し歩くと、セントラルビルの表示が見えた。
「ご主人、セントラルビルですよ!」
「分かってます。間違えるといけないので途中までいきましょう。」
なんと有り難いことか!動く歩道の出口近くに案内看板があり、これを見てくれるという親切ぶりだ
「矢張りもう一本向こうの通りです。ここを渡ってすぐです。」
「ありがとうございます。」と言って、名を名乗り、「三浦に来たら訪ねてください」と言った。
横断歩道もないが、走って道を渡り、向こう側に行ったら目当てのビルが見えた。エレベーターに乗って25階を目指す。今のエレベーターは優秀で、音もしないし、男なら皆知っている下半身がちぎれるようなあの不快感がない。25階でちょうど売主と一緒になった。
 事務室に入ると社長が出迎え、「遠くからおいでいただき恐縮です」と言ってくれた。随分感じのよい人だと思った。書類のやりとりもすぐ終わり、「お支払いしてくださって構いません!」と言うと、「もう支払ってあります」という。なんと鷹揚な人なんだろう。
 売主と買主による、この土地の進入路や近隣のことなどの一通りの打ち合わせが済んだので、ちょっと気になることを社長に尋ねた。というのも、会社の登記簿を見て、この会社が新潟から移転してきたことと新潟に支店があることを確認していたからである。
まさかとは思ったが、「ジャイアント馬場さんと何か係わりがありますか?」とである。 驚愕の答えが返ってきた。「親族です!」とである。五代前は一緒だったそうだ。「三条に支店がありますね。」と言うと「ウチも三条から出ました!」と仰る。ここからは馬場さんの話で盛り上がった。以下のとおり。
「私が高校生の時はよく試合を見に行きました。」
「社長が高校生の時は馬場さんは少し衰えていましたね。」
「はい」
「あの人の全盛期は昭和40、41、42、43、44、45年頃でした。私は馬場さんの熱狂的なファンでしてね。試合も見に行っています。最近はメールアドレスを《ジャイアントオフィス》にしたばかりです。皆さんちょっと馬場さんの話をしていいですか?」
「どうぞ!」
「普通、格闘家というのは体力が衰えると人気も無くなるものです。しかし馬場さんは体力が衰えても全く人気が下がることがなかった。馬場さんのファンは、彼がリングに上がっていてくれるだけで喜びかつ勇気を与えられました。稀有の人ですね!」
ついつい熱がこもってしまった。
その後、売主さんと社長が細かい打ち合わせをしている間も事務所の書斎などを見て廻った。
「社長、近衛さん好きなんですか?」
「いや、その本は頂いたものです。」
近衛さんとは近衛文麿のことだ。
テレビのモニターの前に無造作にCDが何枚か置いてある。見るとエリック・クラプトンだった。この有名なギタリストは名前だけは知っているが、残念ながら聴いたことがない。私はギターに関しては、ベンチャーズのノーキ・エドワースの演奏くらいしか知らない。
 雑談を続けた。以下、
「社長、あそこは三浦でも絶景と言ってよい場所ですよ、静かですしね。」
「そうですね。」
「以前は、京マチ子三船敏郎の別荘がありました。新潮社の寮もあったんですね。近年は曾野綾子さんが、自分の別荘にアルベルト・フジモリを匿っているという噂もありました。」
「ああ、ペルーのね。」
こういった具合だった。
 最後に皆で集合写真を撮った。この社長、私のメールアドレスを分からないということで売主を通じて写真を送ってくれた。私が最近メールアドレスをジャイアントオフィスにした!とは言ったが、名刺にも何も書いてなかったからだ。
 楽しい立ち会いが終わり、社長に「三浦に来たら是非寄ってください。馬場さんの本も6冊あります。本日はまことにおめでとうございました!」と言って、帰途についた。地下が嫌なので、表に出て南口を目指した。しかし暑い。三浦とは比べものにならない。15分も歩いたらヘトヘトになった。そして人が多い。人・人・人。それだけで疲れてしまう。
 新宿に出ると、果たして日本は不景気なのかな?と思うほど活気がある。また、都会で知らない人に親切にしてもらえるのはとても嬉しいことだ。収穫の多い一日だった。
 さいごに、この会社は、「馬場長」という新宿に本社がある会社で、代表取締役の姓は、当然のこと乍ら、「馬場」さんだ。尚、この拙文にて会社名を公表することについては快諾を得ている。
 最後に、折角の機会なのでジャイアント馬場さんについてもう少し述べたい。
ジャイアント馬場という人は、リングに上がると見る者に不思議な安心感を与える人だった。なぜ不思議なのか?馬場さんはいつも穏やかな表情をしていて、争いごとや諍いとは無縁の佇まいを湛え、悠揚迫らざる風格があった。これが見る者に安心感を与えていたのではないか。しかもこの穏やかな人が、一旦試合が始まると、リング狭し!と暴れまくるのだから、ファンはたまらない。今思えばまさに奇跡の人であった。 

小栗忠順小考

 一、再来年のNHKの大河ドラマの主人公は小栗忠順だという。
 それを聞いて大きな感慨を禁じ得ない。私が若い頃は小栗の評価は否定論が圧倒的であった。五十年も経つとこんなに変わるものなのか?
 小栗の評価が否定的であった最大の理由は、例の借款のせいであろう。外国から金を借りてまで幕府の延命を図った男ということだ。石井孝博士なども小栗の能力を高く評価しながらも「買弁的徳川絶対主義」と評している。買弁とは外国資本に追従し、自国の利益を損なう行為であるから、煎じ詰めれば小栗は売国的な人物ということになる。
 彼は兵庫商社の設立を企て、兵庫開港後三年もすれば、100万両の関税収入が見込まれていた。だから返済の目途がある借款だったと言える。これを単純に買弁と決めつけるのはあまりにも短絡的ではないか?という考え方が今日の歴史家に徐々に浸透してきたのであろうか。 

二、 ここで彼の生涯を語るほどの知識は持ち合わせていないが、思いつくままに少しだけ述べてみたい。
 徳川幕府はその最末期になると、親仏幕権派が台頭してきた。そのメンバーは小栗忠順、栗本錕、向山一履、平山忠敬等である。彼らは等しく優秀で実務能力に長けていた。また徳川絶対主義を貫くという点で守旧派の支持も得やすかった。最末期の幕府をリードしたのは、革新官僚とも言うべきこれら親仏幕権派の面々であった。そしてその中心が実に小栗忠順であった。彼は関東の行財政改革を一身に担っていたが、その政治構想は、徳川勢力によって日本を統一し、全国を郡県制にするというものである。だから必然的に雄藩連合やその発展形とも言うべき公議政体論とは相容れないものであった。また、王政復古により朝廷を担いで幕府を倒し、日本を近代化しようとする薩摩長州を中心とする討幕勢力とは、敵対関係になることが必然であった 。要するに明治維新は、これら二大勢力による日本近代化の主導権争いと言って差し支えない。当時の福沢諭吉も、王政復古などではなく「大君のモナルキ」によって日本を近代化すべきであると述べていた。
 彼の政策は後の明治政府が行ったことを先駆けていると言って良いが、幕府が瓦解したため、ほとんどがご破算となった。 彼の現代まで続く目に見える遺産は横須賀の軍港である。フランスのヴェルニーが、ツーロン港に地形が似ているということで横須賀を選んだ。また、他の国よりも遙かに低額の建設費を提示したため、フランスに発注したものである。横須賀港は、幕府が崩壊した後も明治政府に引き継がれ、大日本帝国海軍鎮守府として大いに栄え、戦後も海上自衛隊の基地として今日に至るまで立派に機能している。だから小栗は三浦半島発展の恩人と言える。臨海公園に小栗とヴェルニ-の胸像が建っているのは当然とも言えようか。
 最末期の幕府は、急速に近代化政策を進めていたが、特に陸軍の近代化が急務であった。しかし極度の財政難に喘いでいた幕府は、常備軍を整備する財政面でのゆとりがなく、小栗はそれを解決する手段として借款に頼る道を選んだ。これが後世の歴史家に叩かれているのだ。
 しかし小栗は借款の返済について、ある程度の自信があったのではなかろうか?その切り札が兵庫開港であった。筆者は兵庫開港問題を何度も取り上げているが、幕府にとってこの兵庫開港こそが、自らの手による日本近代化の切り札であったと言える。
 何しろ三年もすれば、100万両の関税収入が見込まれていたのだ。小栗は兵庫開港に備えて、三井、鴻ノ池といった豪商に数十万両の資金を拠出させ、半官半民の兵庫商社を設立し、更にこの基金を担保に100万両規模の兌換紙幣の発行を計画していた。これが順調に進めば、幕府は財政面でも完全に立ち直ってしまう。この小栗の発想は当時誰も思い付かなかったもので、正に革新官僚小栗の面目躍如たるものがある。
 また、兵庫開港・大坂開市をすれば、英・仏・米・蘭など当時の欧米大国は、日本の内乱など絶対に望まなくなる。薩摩は、日本近代化の主導権を永久に封じられてしまうのだ。更に、当時の下関は密貿易で大いに栄えていたが、兵庫開港・大坂開市により、諸外国はそんな姑息な密貿易などしなくなる。長州も出る幕がなくなってしまう。だから薩摩は何としても幕府の手による兵庫開港を阻止したかった。この幕末最大の政治課題で且つ幕末政局のターニングポイントになった兵庫開港問題は、徳川慶喜が大奮闘して幕府の管理主導による兵庫開港が決められたが、その顛末は、別稿で、以前に記した。
 では話を転じて日本からの輸出品の目玉商品は何であったろうか?これは言わずと知れた生糸である。生糸の生産地が幕府領(いわゆる天領)に集中していたことも小栗にとっては心強いことであった。彼は、当時の武士にしては珍しく物品の流通を正確に把握していた。この生糸を輸出品の切り札として貿易を活発に行おうと計画していたのである。折しもフランスでは生糸の病気が蔓延して壊滅的な打撃を受けており、日本の生糸が喉から手が出るほど欲しかったのである。また蝦夷地の海産物も有力な輸出品目であった。

三 さて肝心の借款はどうなったであろうか。結論から言えば不調に終わったのである。 これにはいくつがの原因が考えられる。
 パリ万博で幕府は様々な出品をして、日本文化を紹介した。しかし何とその隣の一角では、薩摩が「薩摩琉球国」と名乗って薩摩の物品を紹介したのだ。更に薩摩は「幕府は日本政府ではない」とパリの新聞に書き立て、幕府の正統性を疑わせるキャンペーンを行った。意表を突いたといえばそれまでだが、日本の政争を遠いパリまで持ち込む、正に、成り振り構わぬえげつない行為と言えようか。薩摩は何としても借款を阻止したかったのであろう。
 幕府にとって不幸だったのは、フランスがメキシコ干渉に失敗したことである。日本に理解のある外務大臣は更迭され、対外政策慎重派の大臣が就任した。第二帝政は明らかに下り坂となり、対外政策は縮小され、日本への肩入れに及び腰となった。
 この借款の構造は複雑で未だ解明されていない。分かっているのはフランスが直接幕府に資金を供与するのではなく、フランス輸出入会社を設立し、そこから資金を提供する予定であったらしい。しかし、当時ヨーロッパ全体が不況に陥り、資金が集まらず会社の設立が思うように進まなかった。幕府は状況打開のため栗本錕を特使として送り込み、蝦夷地の海産物の開発権を担保に借款を進めようとしたが結局頓挫したのである。
 ところでこの借款計画は秘密契約であった。幕府は瓦解時に全ての文書を処分したので、日本側には何も残っていない。フランスはソシエテ・ジェネラール銀行が主力であったが、158年経った今でも議事録を公開していないので、この条約は謎のままだ。
 この借款が最終的に破談したのは慶応3年12月である。しかし慶喜は逸早くこの状況を知っていた。それは駐英国公使格の向山が、慶応3年7月15日にロンドンから小栗に電報を打ったからである。「クーレーより金あらす。直ちにオリインタルバンクから為替組むべし!」とである。600万ドルの借款契約をしたフランス側の当事者は、このクーレーであった。徳川昭武のフランス駐留費についても「何の心配もない」と豪語していた彼が手のひら返しをして、民部卿(昭武)の滞在費が底を尽きつつあった。オリエンタルバンクから滞在費用を振り込んで欲しいという電報であった。筆者は、小栗そして慶喜が、何時借款の不調を知ったのか、なかなか分からなかったが、数年前「小栗日記を読む」という書籍を購入し、そこに上記の電報のことが記されていた。船便では数十日掛かるであろうが、電報だと筆者の想像では、ロンドンからカサブランカ、カイロ、テヘランカルカッタボンベイサイゴン、上海経由で江戸に着くとして数日であろうか? この当時電報があったとは、驚きである。
   討幕勢力との軍事衝突の危機が高まる中で、借款が不調に終わったことは、徳川勢力による日本統一を目指した幕府には大きな痛手であった。慶喜が内乱防止のため、大政奉還に打って出た大きな要因になったと考える。

四、さいごに徳川慶喜と小栗の関係について述べてみたい。
 小栗は、先述したように、徳川勢力単独で日本を近代化しようとしていた。この点は慶喜も同様であった。しかし関東にいて行財政改革をまっしぐらに進めようとする小栗にとって慶喜は分かりづらい存在であったのではないか?慶喜は政争渦巻く京都にずっと滞在し、江戸に帰らなかった。というより江戸に帰れる状況ではなかったのだ。慶喜は権謀術数を駆使し、反対派からは、「百端の人」とか「譎詐無限」と恐れられた。昨日と今日と言うことがまるで違った。これは慶喜が望んだことではなく止むを得ずやったことではある。しかし小栗にとっては理解不能だったのではなかろうか?現代のように電話も何にもない時代で、江戸と京都は大いに離れている。通信手段が手紙しかなく、お互いの意思の疎通が困難であった。
 慶喜が徳川本家のみ相続して将軍就任を渋っていた慶応2年9月上旬、小栗は上京して慶喜に拝謁している。ここで話し合われたのは、江戸の行財政改革の進捗状況の報告、借款契約の確認等であったことが推測される。小栗は、慶喜が自らの手で日本を近代化しようとする強い意思を持っていることを確認し、慶喜は小栗を通じて江戸の親仏幕権派の革新官僚達をその支配下に納めたものと推測される。慶喜が将軍に就任したのはその後の12月5日であった。

五、慶喜と小栗の最後の会談 シミュレーション
 しかし小栗の得意の時代は長く続かなかった。徳川勢力は、薩摩の挑発に乗せられて、鳥羽伏見で惨敗し、慶喜があっさりと江戸に東帰したからである。慶喜は悩んでいた筈である。その証拠にロッシュ(フランス公使)とも会見している。ただロッシュの援助を丁寧に断っている。外国勢力の干渉を恐れたのであろう。
 慶応4年1月、小栗は押して慶喜に拝謁を求めた。以下、筆者の推測である。
    小栗: 上様、箱根で敵を迎え撃ち、幕府伝習隊を出動させ、海軍を駿河方面に展開          させれば敵は袋のネズミ、一網打尽であります。ご決断を!
   慶喜:  ・・・・・・
  小栗 : 玉を担ぐ偽官軍に、などて我らが服従せねばならないのでしょう!
    慶喜:  ・・・・・・                                                
    小栗: 上様年来の主張であらせられた御自らの手による日本近代化の夢は如何せられました !
  慶喜: 忠順、錦旗は上がったのじゃ!    (退席を始める。)
  小栗: (なおも慶喜の袖をつかんで放さない。)
  慶喜: 罷免じゃ!

 この後、慶喜は上野寛永寺大慈院に籠もって、謹慎生活を始めた。
 罷免された小栗は知行地の上州権田村に向かった。その後の小栗の悲惨な最期については、これを語るのを控えたい。

パガニーニのバイオリン協奏曲第1番 その愛聴遍歴

 この曲は面白い曲だ。ベートーベンやメンデルスゾーンの協奏曲のような格調の高いクラシック音楽というより、むしろ1800年代初頭のイタリア市民の猥雑な会話が聞こえてくるような、当時の流行歌を彷彿させる刺激的な曲だ。大道で演奏しても大受けしただろう。
 筆者がこれを初めて耳にしたのは、(またか!だが)クライスラーが編曲したものだった。それも偶然聴いたものだ。原曲とかなり違っていて、スローなテンポに終始している。まるでウオルト・ディズニーの世界を想像させるようなファンタスティックな編曲だ。ただ、近年は余り演奏されていないようだ。ちょっと時代遅れなのかもしれない。しかしこの編曲に刺激されて、筆者はサルバトーレ・アッカルドが演奏する原曲を買っってみた。ちょっと聴いたが印象がなく忘れてしまっていた。しかし何年か前、YouTubeでこの曲を聴いて衝撃を受けた。それはメニューインが演奏する盤で、彼が18歳の時パリで録音したものだ。
 何しろ若さに任せてこの稀代の難曲を弾きまくる。なんの屈託もないひたむきな演奏がストレートに耳に飛び込んでくる。筆者はこの演奏がなんとしても欲しくなり、ヤフーオークションでようやく手に入れた。朝晩毎日、休日は朝昼晩聴いていた。しかし何十日か経ったある日、何か物足りないものを感じ始めた。何だろう。分からない。ただ、とにかく別の人の演奏を聴きたくなった。そこで、この曲に定評のあるジノ・フランチェスカッティのライブ盤を買ってみた。これがズバリ的中であった。何しろパガニーニの情熱そのもので、何度聴いても飽きない。徹頭徹尾唄いまくっているのである。メニューインになかったのは正にこれ(唄う)だった。スタジオ録音盤もあり、これも買った。こちらの方が完成度は高いかもしれないが、筆者は断然ライブがお薦めだ。演奏が終わると、録音と一緒に拍手をするくらい素晴らしい。更に嬉しいことにこの盤、ブラームスのバイオリン協奏曲とカップリングだ。この演奏が出色で、このCDは儲けもの、というところだ。
 話が逸れるが、ブラームスの協奏曲は地味で味も素っ気も無い。クライスラーアメリカに演奏旅行に行ったとき、1シーズン20回も演奏して普及したという。だからブラームスのこの曲にとって、クライスラーは大恩人だ。筆者はこの曲、今でもクライスラーの演奏が指折りだと思っている。定評のあるオイストラッフの盤も買ってみた。アフリカのサバンナで、犀が悠然と風に吹かれてボンヤリしているような演奏だ。しかし凄い盤を見つけた。ジネット・ヌブーの盤だ。味気ないこの曲を、冒頭からまるで火を吐く様な熱のこもった演奏をしている。これを聴いてしまうと、オイストラフの演奏も凡庸に聞こえてしまう。ブラームスは北ドイツハンブルクの出身だ。だから本来ドイツの演奏家が得意な筈だ。しかし女王アンネ・ゾフィムターの演奏も素っ気なくてつまらない。フランチェスカッティもヌブーもラテン系だ。意外にもブラームスはラテン系の演奏家の方がしっくりするのかもしれない。残念なのはヌブーが夭逝したことだ。
 本題に戻ろう。フランチェスカッティの演奏を聴いて、更に別の名人の演奏を聴きたくなった。その名もレオニード・コーガン!早速購入して聴いてみた。この演奏も素晴らしい。第1楽章の初めの超絶技巧の高速演奏部分などはフランチェスカッティよりコーガンの方が断然上だ。フランチェスカッティが脳天気の名演なら、コーガンは冷たくしかも大きな情熱を内に秘めた氷河のような名演だ。この二つを交互に聴いて楽しんでいた。両人とも唄いまくるのである。メニューインを聴かなくなったのは多分唄わないからかもしれない。
 さて、今まで述べたことは、実は前置きだ。これからが言いたいことだ。この曲を演奏する凄いバイオリニストが現れたからだ。その名も吉村妃鞠! 彼女のことは、数カ所で書いているから、「またか!」と言われるかもしれない。しかし、何度讃えても讃えきれないほど素晴らしい!  彼女が数々のコンクールで、幼少にも拘わらず優勝したときに弾いていたのがこの曲だ。他に定番のチゴイネルワイゼンパガニーニカンタービレを弾いている姿の映像が数多ある。審査員が聞き入っていると言うより、聞き惚れている姿が印象的だ。筆者などは、このカンタービレを聴く度に、感動で涙が止まらない。しかもこの人は、マナーが実に良い。お辞儀が愛らしく、おでこの辺りが実に可愛い。野球の大谷も凄いが、この妃鞠さんは日本が世界に誇る天才だ。そしてこの人が弾くパガニーニは最高だ。子供でありながら、天性の感性なのか、心に染み渡る演奏をしてしっかり唄ってくれる。この人の演奏を聴いて困るのは涙が出すぎることだけだ。今年ジュリアードに最年少で入学した。日本で演奏することも増えるだろうから、是非一度でいいから生で聴きたいものだ。最近はその名をHIMARIで統一しているようで、元気に成長して大成することを願うばかりである。
 パガニーニは、人間的にも少し問題があったらしく、悪魔に魂を売った男などと言われたそうだ。妃鞠さんは、バイオリンの神様に守られた人だと思う。

 今宵もhimariさんの演奏に涙して夜が更ける。

 この寄稿は、以前「神童メニューインが弾くパガニーニのバイオリン協奏曲第1番」と題して寄稿したものの、謂わば続編である。