荒崎のトコブシ

13日の土曜日、開店したばかりの佐島マリーナ近くの海鮮料理屋に、知人と行った。カマスとムツのフライ、刺身、生しらすが絶品だった。散り始めた通研と旧岩戸高校の桜を眺め、天気が良いので荒崎に行ってみた。久しぶりに磯を歩くと、人がかなり出ている…

ある古い戸籍謄本を見て

ある古い戸籍謄本を見て三浦郡西浦村佐島○○番地 甲崎乙助本籍の変遷は以下の通りである昭和10年7月1日、土地の名称変更により、三浦郡大楠町佐島に更正された。昭和18年4月1日、行政区画の変更により、横須賀市佐島と更正された。要するに、西浦の地…

雑学は身を助ける その1

平成23年の晩秋、品の良い声の老婦人から電話を頂きました。以前私が仕事をした別の老婦人からの紹介です。 内容は、夫の遺言を作成して貰いたいというものです。親族間は大変仲が良く、揉めたりする心配は皆無なのですが、ご主人が癌であまり余命がなく、…

兵庫開港問題再考

この問題は、拙書「最後の将軍徳川慶喜の苦悩」で取り上げているが、最近得た資料で若干の訂正をする必要もあり、改めてこの問題を取り上げてみたい。 尚、以下の記載は、10月14日、横浜南ロータリークラブにて行った講演原稿を若干加筆修正したものであ…

加山雄三を讃えて  そして恋は紅いバラ

一、恋は紅いバラ1、八月の終わり頃から加山雄三の「恋は紅いバラ」を練習している。毎日、朝夕入浴時運転中寝る前、思いつけば唄っているからもう数百回だ。私は音程には自信があり、この曲唄いたい!と思えばまず習得出来る。しかしこの歌は意外と難物だ…

最後の将軍徳川慶喜の苦悩増補改訂版の執筆を終えて

ようやくタイトルの執筆を終えた。あとは出版を待つばかりだ。ホッとしたがやや気が抜けてしまった。 今回は大政奉還以降の状況について初版で書き足りなかったことを補足するのが主たる目的であった。そしてこの目的はほぼ達成され、その意味では満足してい…

最後の将軍徳川慶喜の苦悩増補改訂版あとがき

増補改訂版 あとがき 歴史上の人物の評伝を書くとき最も大切なことは何か?それは言うまでもなく事実に忠実なことである。小説ではないのだ。事実を外すことは許されない。しかし事実を淡々と述べるだけならそれは単なる記録に過ぎない。書いた物に血が通い…

最後の将軍徳川慶喜の苦悩 第九章(補章)大政奉還以降の政治情勢

第九章(補章)大政奉還以降の政治情勢 雑考1 大政奉還 その意図と思惑(一)増補改訂版はしがきに書いたように、大政奉還について若干書き足りないことがある。何か消化不良のような不満感が消えないのである。第六章でも述べたように、大政奉還は山内容堂…

最後の将軍徳川慶喜の苦悩改訂増補版はしがき

増補改訂版 端書き 早いもので初版を発行してあっという間に二年ほど経過した。お蔭様で、読んで下さった方々からは概ねお褒めの言葉を頂き、とても嬉しくまた安堵もしている。 敬愛する呉東弁護士には重大なミス(年号)を指摘していただき、改訂版を是非出…

最後の将軍徳川慶喜の苦悩 改訂増補版 出版

2019年に出版したこのタイトルの拙書、新たに第九章 補章と題して付け加えて出版します。ブログでは第16話の続きになりますが、近々載せます。

神童メニューインが弾くパガニーニのバイオリン協奏曲第1番

(1)例によって長い前置きを許されたい。30年位前まではいわゆるクラシックの名盤推薦を見ると、現代気鋭の演奏者に混じってクライスラーの名が上がっていた。しかし、この偉大な演奏家もさすがに最近は名前が出て来なくなった。ネット上で誰か推薦して…

先日出版した「最後の将軍徳川慶喜の苦悩」の訂正

若干の誤りを発見しかつ有り難いご指摘を頂きましたので、ここに訂正させていただきます。 ① 11ページ及び帯 慶応三年四月十一日→慶応四年四月十一日 ② 43ページ 遺英留学生→遣英留学生 ③ 210ページ 切り死に→斬り死に

慶喜論出版しました

平成27年2月から30年11月にかけてブログに連載していた徳川慶喜論を本年3月28日出版しました。 ご希望の方は書店にて購入出来ますが松原の手元にもありますのでご一報ください。

最後の将軍徳川慶喜の苦悩 16 参考文献

一、著作 歴史読本 特集 最後の将軍徳川慶喜 昭和54年4月号 新人物往来社 この雑誌こそ筆者を徳川慶喜に誘った(いざなった)記念すべき一冊だ。興味深い記事満載でしかも巻頭の写真に仰天した。何しろ慶喜が近代的な顔立ちの二枚目だったからだ。松浦玲…

最後の将軍徳川慶喜の苦悩 14 鳥羽伏見の戦いと徳川慶喜の敗退

一、薩摩系浪士による江戸市中及び関東一円の騒乱行為そして薩摩藩江戸屋敷焼き討ち事件 (あまりにも卑劣な行為なので)筆が進まないが、鳥羽伏見の戦いのまさに導火線となった一連の事件であり、避けて通る訳にもいかない。少し述べてみよう。 西郷等は京…

最後の将軍徳川慶喜の苦悩13 王政復古のクーデターとその後の政局

慶応3年12月の僅かひと月の間に日々刻々と生起した重大事件をまず時系列で整理してみたい。前号と若干重複することを許されたい。 11月25日、西郷・大久保等が御所制圧、辞官・納地の要求を骨子とする薩摩のクーデター計画案を策定。 12月1日、西…

最後の将軍徳川慶喜の苦悩 15あとがき

執筆後記 体制が危機に瀕したとき、その責任者はどのように行動したか?歴史に興味のある者なら皆大きな関心を持つ。徳川慶喜は、開府以来ともいうべき幕府の危機を救える能力・見識・実行力を持った唯一の男であった。彼は本来、十四代将軍が相応しかった。…

最後の将軍徳川慶喜の苦悩 12 大政奉還と前後の政局

初めに 慶応3年10月14日から翌慶応4年1月3日までのわずか3ヶ月足らずの期間に日本の歴史の帰趨を決定する事件が3回生起している。 まず大政奉還次いで王政復古のクーデター、最後に鳥羽伏見の戦いである。この三大事件を経て日本は幕藩体制から脱…

最後の将軍徳川慶喜の苦悩11高まる討幕運動と謀臣原市之進の死

始めに 読み易くするために今回は西暦対照表を付してみたい 元治元年 1864年 慶応元年 1865年 慶応2年 1866年 慶応3年 1867年 一、討幕運動の高まり 1、薩摩藩を中心とした討幕派の動向 徳川慶喜による兵庫開港の宣言を契機として討幕運…

ルンバ王ザビア・クガートが紡ぐ名曲ビギン・ザ・ビギン

もし仮に絶海の孤島で生活することを余儀無くされ、2作品だけ歌舞音曲を持っていくことが許されるとしたら、私は迷うことなくザビア・クガートが演奏するビギン・ザ・ビギンを選ぶ。それも1954年に吹き込んだアルバム「CUGAT`S FAVORITE…

最後の将軍徳川慶喜の苦悩10 国際環境の悪化と借款の不調

初めに 四国公使への兵庫開港の宣言と勅許取得は将軍慶喜の大きな政治的成功であった。しかし、政治とは儘ならないもので、皮肉にもこの6月6日の国内布告を境として、慶喜の政治的立場は急速に悪化していくのであった。 まずフランスの対外政策の変化とそ…

最後の将軍徳川慶喜の苦悩9  兵庫開港布告と勅許取得③

一、四候の京都集合 1、 西郷・大久保らを中心とする薩摩藩士の工作で、有力諸侯(薩摩・島津久光、伊予宇和島・伊達宗城、福井越前・松平春嶽、土佐・山内容堂)が京に集合した。容堂が入京したのが慶応3年5月1日なので、4人揃ったのは5月になってか…

最後の将軍徳川慶喜の苦悩 8 兵庫開港布告と勅許取得②

兵庫開港をめぐる薩摩藩士の対抗策 小松帯刀・西郷吉之助・大久保一蔵らを中心とする反幕派の有力薩摩藩士達(以下省略して「薩摩」という)は、兵庫開港問題こそ幕末最大の政局になることを早くから見通し、様々な対抗策を打ってきた。以下、それを述べてみ…

最後の将軍徳川慶喜の苦悩 7 兵庫開港布告と勅許取得①

一、初めに 「貴国との条約を遵守し、断然兵庫を開港する」と四国公使に堂々と宣言したことにより、慶喜政権に対する諸外国の評価は高まった。しかしこの問題について、彼には最後の関門が待ち構えていた。勅許である。 まず、兵庫を開港するには国内布告が…

最後の将軍徳川慶喜の苦悩 6 四国公使謁見と兵庫開港問題②

一、将軍慶喜による四国公使謁見 そのスケジュール 天下の耳目をそばだたせる将軍慶喜による四国公使謁見は、いずれも内謁見(非公式の会見)と公式謁見に分け、大坂城において挙行された。 前号で述べたとおり、パークスはすでに3月14日、大坂に到着して…

最後の将軍徳川慶喜の苦悩 5 四国公使謁見と兵庫開港問題①

一、初めに 「兵庫は開く」 この明快過ぎる言葉を危ぶんだアーネスト・サトウ(英国公使館員)は、「そのお言葉、横浜や本国の新聞に掲載しても宜しきや?」と伺いを立てたほどである。慶喜の回答は更に明快であった。「苦しからず」と。 これは、司馬遼太…

最後の将軍徳川慶喜の苦悩 4 将軍慶喜の政権構想③そして幕政改革

一、初めに 序論①②から分かるように、慶喜が将軍に就任したときの幕府は正に開府以来最低の状態に落ち込んでいたといえよう。これは直接的には、第2次長州征伐の敗北による幕府自身の権威の失墜とそれに伴う求心力の著しい低下によるものである。また慶喜…

名歌手藤山一郎が唄う城ヶ島の雨

もうじき鬱陶しい季節になる。木々が潤い、生き物全てが命を育む梅雨時である。 私は生まれも育ちも三浦なのでこの歌の情景が手に取るように分かる。この歌、古今の名曲だ。偏見だが、日本の歌曲は肩肘張って理屈っぽいものが多い。その中でこの曲、メロディ…

最後の将軍徳川慶喜の苦悩3 将軍慶喜の政権構想②

また前置きが長くなってしまうが、ここで慶喜の将軍就任までの過程を少し述べたい。 彼はすんなり将軍になった訳ではないからである。 (1)第二次長州征伐が敗北続きの中で将軍家茂が慶応2年7月20日に大坂城で死去した。この未曾有ともいうべき幕府開…