最後の将軍徳川慶喜の苦悩 8 兵庫開港布告と勅許取得②

兵庫開港をめぐる薩摩藩士の対抗策
 小松帯刀・西郷吉之助・大久保一蔵らを中心とする反幕派の有力薩摩藩士達(以下省略して「薩摩」という)は、兵庫開港問題こそ幕末最大の政局になることを早くから見通し、様々な対抗策を打ってきた。以下、それを述べてみたい。
 なお、この時点ではまだ薩摩藩の藩論が統一されていたわけではなく、これを一括りにして「薩摩」と言うのは若干抵抗があるが、許されたい。
一、英国公使等への働きかけ
1、 まず、慶応3年1月12日、小松帯刀は、大坂に滞在する英国公使館員ミットフォード及びアーネスト・サトウと会談を持った。この席で小松は、英国公使パークスが、天皇と直接条約を締結することを提案すれば、京都に集合する有力諸侯はこれを支持し、将軍の偽装権力を打破して、権力の移行がなされるであろうと述べた。
 しかし、ミットフォードは、英国は他国の内紛に関与しない旨言明し、小松の期待は空振りに終わった。
以下話がやや逸れるが一言 
 小松が言う偽装君主とはつまり、将軍権力の不法性を訴えたものである。要するに、日本は本来天皇が統治すべきで、将軍はその権力を不法に奪ったというのだ。これを論理的に言うなら、かつての律令国家が日本の本来の正しい政治のあり方で、将軍はその権力を不当に奪ったものというものであろうか。
 確かに武家政権は軍事政権である(その証拠に行政を行う者が皆日本刀を差している!)。軍事政権の本質は、戦時の将軍のカリスマが、戦勝の連続によって実証され、これが政治権力すなわち統治者に転化したものである。これは古今東西同じである。
 徳川氏もその始祖家康が関ヶ原の大勝利によって、統治者としての地位を不動のものにしたことは前回述べたとおりである。しかし翻って日本では、源頼朝鎌倉幕府開府以来、武家政権が常態化しており、これを非常時の政権でイレギュラーだというのならば、日本の政治は1192年以来この方イレギュラーだったと言うに等しく、笑止と言う他はない。武家政権はそれが常態化するに応じて政治制度として合法化し且つ進化していった。そして最終的に、徳川氏によって、天皇に任命(委任)された武家の棟梁たる征夷大将軍が300諸侯を率いる幕藩体制として定着したことは前回述べたとおりである。
 ついでながらいえば、日本では、天皇が直接政治権力を行使した期間は極めて短く、奈良時代から既に藤原氏が事実上政治権力を独占していた。つまりは、尊皇思想家達が理想とし、小松がその主張の根拠とした律令制度は早くから形骸化していたことは周知のとおりなのである。藤原氏は、律令制度にはあり得ない摂政・関白として大きな権力を振るったのだが、天皇代理人として、天皇に委任されているというのがその権力の論拠であった。摂政・関白も征夷大将軍も、天皇からの委任によってその正当性を認証されて政治を行なうのである。
 日本の政治はこの委任の論理(但し、委任者は至高の権威者たる天皇でなければならない)によって柔軟に行われてきたと言うべきである。
 ただ小松の言うような、いわばアナクロ的な発想も、幕末の尊皇思想の広がりの中で一定の支持を得ていたことも事実である。
 ならば小松の論理を適用すれば、彼が属する武家の大藩である島津氏が薩摩・大隅77万石を長年に亘って支配し続けていることも不法ではないか?もし慶喜がこの席にいれば、このような稚拙な論理は即座に論破してしまったであろうが。
2、慶応3年4月10日、将軍との会見が終わってなお大坂湾に留まっていたパークスを、小松、西郷、大久保らが訪ねた。ここで彼らは、再び、将軍の権力の不当性をパークスに訴えた。すなわち 将軍はここ7~8世紀の間、大きな権力を不法に行使してきたものだというのである。これに対し、パークスが何と発言したかは、石井博士の名著には記載されていないが、前項のミットフォードの回答に100点の評価を与えたパークスでもあり、この薩摩の訴えには回答しなかったものと推測される。尚、この席で、慶喜が兵庫開港を四国公使に宣言したことを、薩摩は初めて知らされたのであった。
 パークスの基本方針は内政不干渉であった。これは外務大臣スタンレーの訓令に沿うものでもあった。大英帝国の対日政策はあくまで貿易の安定的な発展を期するものであり、内政干渉は控えようというものであった。
 しかし、だからといって、パークスが幕府を信頼しているという訳では決してなかった。それは兵庫開港延期事件、生麦事件、下関事件、長州征伐の敗北などで幕府が度重なる失策を続けたことにより、その主権保持能力に大きな疑問を感じざるを得なかったからである。この意味でも慶喜は、兵庫を自らの責任で断然開港すると言明することによって四国公使謁見を成功裏に収め、幕府が主権を保持していることを、内外に堂々と宣言する必要があった。
3、薩摩の策謀はさらに続いた。すなわち慶応3年4月12日、パークスを扇動し、彼をして敦賀方面への国内旅行を申し出させたのである。これは幕府の兵庫開港宣言によって、この問題で幕府を追い詰めようとしていた薩摩の見込みが外れてしまった為、今度は外国人の内地旅行によって排外感情を引き起こして幕府を苦しめようとする陰険な奇手であった。この事件は大きな波紋を巻き起こすのだが、詳しくは後述する。
二、有力諸侯を京都に結集そして四藩会議開催を企図
1、さて薩摩は、慶応3年1月下旬段階から早くも四藩会議を画策していた。すなわち、小松、西郷、大久保は手分けして有力諸侯である薩摩島津久光、伊予宇和島伊達宗達、土佐山内容堂、福井越前松平春嶽らを訪れ説き伏せ、彼らを京都に結集させて将軍に圧力を加えようとしたのであった。
 彼らの本来の目論見は、パークスに、外交について朝廷と直接条約を結びたいと言わせ、これに京都に結集した四藩が応じ、内外呼応して将軍の外交権を奪い、兵庫開港を朝廷(つまりは雄藩)主導で行おうとしたものであった。しかしパークスは彼らの期待に反し、内政不干渉を宣言したのであった。当てが外れた薩摩は、今度は違勅(勅許無しに兵庫開港を宣言したこと)で慶喜を責めようとしたのである。
 山内容堂の上京が遅れた為、四藩代表全員が京都に揃ったのは、慶応3年5月1日であった。しかしこの時点で既に早々と慶喜は兵庫開港を宣言しており、慶喜を追求する攻撃者の迫力が減退していたことは否めなかった。
 薩摩は、パークスの思惑と将軍の兵庫開港宣言について大きな誤算を犯していた。彼らはパークスに内政干渉とも言える程の発言を期待していた。しかしパークスは慶喜が自らの責任で兵庫開港を宣言するなら何ら不満はなかったのである。勅許の有無は彼らにとってはあくまで日本国内の手続き問題に過ぎず、仮に幕府が条約不履行なら砲艦外交を展開すれば済む、というのが、当時パクス・ブリタニカの絶頂期を迎えつつあった大英帝国の本音ではなかろうか?
 パークスの方針を察知していた慶喜は、日本を開国に導き、兵庫を開港させるのは自分を置いて他にいないという強烈な自負と責任感を持っていた。その意味で勅許は認証に過ぎず、事後承認でよいという考えであったと推測される。いや、勅許は出すべきだ、と踏み込んでいたのではなかろうか?
 薩摩は今までの経緯から慶喜が勅許無しに兵庫開港を四国公使に宣言するとは夢にも思わなかったのである。しかし慶喜は、徳川家の存亡を一気に賭けて、自らの責任で兵庫開港をすることを決心していたのである。
 薩摩はこの大英帝国の思惑への理解が足りず、しかも慶喜の決心を推測できなかった。この目論見違いが、兵庫開港問題について、薩摩が慶喜の主導権を覆すことが出来なかった主たる原因であったと考える。
2、京都に集まった四藩代表は、5月上旬から会議を始めた。兵庫開港の国内布告の期限は6月7日であり、時間的余裕はもうなかったのである。
 四藩会議の顛末を詳述する前に、前述したパークスの国内旅行が巻き起こした大きな波紋について述べよう。
 パークスが敦賀方面に旅行を始めると尊攘派の浪士達が大騒ぎし、これに激派の公家が呼応して、ついには二条摂政を動かし、佐幕派議奏武家伝奏両役を罷免させた。更には、異人が京に潜伏しているとの噂が立ち、薩摩・因幡備前の三藩に京都警護の勅命が下るという事態にまで発展した。この勅命は、将軍の権威を無視するものであり、慶喜は憤激の情に駆られた。
 すなわち4月18日、二条摂政邸を訪れた慶喜は、極めて強硬な態度で三藩の京都警護の撤回、議・伝両役の復職及び激派公家の処罰を要求した。これに対し摂政が、「左様な激命を下し候えば大動乱を醸し候は必然」と言うや、慶喜は「如何様に動乱生ずるとも苦しからず、拙者引き受け、取り鎮め申すべし」と応じ、困窮した摂政が辞意を表明すると、「御勝手次第如何にも御辞職しかるべし」と言い放ったという。
 後年、昔夢会筆記(明治になって歴史家が慶喜を招いて質問をしながら作った歴史書)で、歴史家にこの点を問われると、「それほどではなかったと思う」旨述べていたが、やがて、「お止しなさるがよいということは、言ったことを覚えている、仄かに夢のように・・・」と述回している。
 激派の公家は差し控えを命ぜられ、三藩の警備は撤回されたが、佐幕派の議・伝両役の復職はならなかった。さらに西郷らは、やがて開かれる廉前会議(朝議)を優位に導く為、反幕派の公家を議・伝両役に登用すべく島津久光を通して盛んに朝廷に入説したが、その企ては摂政が反対した為成功しなかった。 
 いずれにしても、ここに幕末政局のターニングポイントとなった兵庫開港を巡る争いは、いよいよ四藩会議を経て廉前会議(朝議)へと、終局に向かいつつあった。