最後の将軍徳川慶喜の苦悩9  兵庫開港布告と勅許取得③

一、四候の京都集合
1、 西郷・大久保らを中心とする薩摩藩士の工作で、有力諸侯(薩摩・島津久光、伊予宇和島伊達宗城、福井越前・松平春嶽、土佐・山内容堂)が京に集合した。容堂が入京したのが慶応3年5月1日なので、4人揃ったのは5月になってからであった。
 当初、薩摩藩士の目的は、パークスをして「(幕府ではなく)朝廷と直接、条約を締結したい」旨言明させ、それに呼応して、諸侯会議の圧力で、あわよくば、外交権を幕府から朝廷(すなわち雄藩なかんずく薩摩)に移してしまおうという策略であった。 しかし、パークスは、先述のとおり、薩摩の期待通りには動かなかった。パークスは勅許云々は日本の国内問題であり、条約交渉の相手はあくまで幕府であるとの立場を崩さなかった。内政干渉を避けたのである。パークス及びその後ろ控える大英帝国の基本方針を熟知した慶喜は、「祖宗以来の全権を掌握せしにつき、貴国と結んだ条約を一々踏み行い、兵庫を断然開港すべし」と迅速に四国公使に表明し、大きな支持を得たことは先述したとおりである。そこで薩摩が企てた次の攻撃材料は、違勅を責め立てることと、長州問題を取り上げ、時間稼ぎをして幕府を困らせることであった。
 しかし、そもそも四候も皆内心では兵庫開港止むなしと認めている上、慶喜が外国公使に堂々と開港を宣言し、これが支持されたのだから、攻撃する側としては迫力を欠くことは否めなかった。
2、四候が打ち揃って二条城に登営したのは5月14日であったが、この日まで久光は幕府の再三の登営指示にも拘わらず頑として応じていなかった。「自分はもう慶喜の家来ではないのだ」と言いたかったのかもしれない。しかし他の三候が登営を勧めたので孤立する訳にも行かず、渋々登営したのであった。この日慶喜は老中を伴わず一人で四候に対面している。これも前代未聞の出来事であった。よほど慶喜は自信があったのであろうか。要するに4人が束になっても慶喜には敵わないということであった。果たして慶喜が兵庫開港止むなしの大弁説を振るうと誰も正面切って反対することができなかった。
 次に長州問題であるが、これは難航した。そもそも敗戦続きの長州征伐を、慶喜は勅命による停戦という形でひとまず時間稼ぎをして休戦に持ち込んでいた。勝海舟を広島に派遣して、彼をして、「幕府は一変する(一言でいえば長州との宥和政策を実行するということ)から追うな」と言わせ、何とか休戦させたのであった。しかし慶喜はその後、全く正反対の行動をした。要するに親仏幕権派の上に立って、権力強化に邁進し始めたのである。慶喜が長州問題の解決に不熱心だったのは、長州を容易く許したのでは、幕府保守派の反発を買うことが目に見えていたことや又、長州が占領地を相変わらす占拠していることも釈然としなかったことによるとする説がある。一理はあるが、そんな事より慶喜にとって、長州はまさに正面の敵であり、軍備が整い次第、一戦交えざるを得ない存在だという基本認識があったからだと言うべきではなかろうか。
 この日議論は平行線のまま日没になり、休憩を宣言した慶喜は、自ら飲食の接待を行い、四候の写真まで撮らせている。彼らのほろ酔い顔の写真が残っている。四候が慶喜にいなされた一日と言うべきであろうか。
3、話題がやや逸れるが、ここで長州について一言。
 長州が、英・仏・米・蘭の四国連合艦隊に下関砲台を徹底的に破壊・占領され、しかも幕府から長州征伐を受けたことで、生き残る為に近代化を急いだことは、少し先述した。要するに観念的な尊皇攘夷思想など全く役に立たないことを身をもって実感したからである。この後長州は一藩絶対主義にひた走り、藩内での殖産興業、富国強兵等、近代化政策に藩を挙げて邁進した。つまり徹底的に合理化政策を実行したのである。その指導者は、高杉晋作品川弥二郎大村益次郎らであり、若党の伊藤俊輔(後の博文)や山県狂助(後の有朋)、井上聞多(後の馨)らが実働部隊であった。更には、勤王の志士の生き残り桂小五郎もいた。中でも高杉晋作は正に、大洞吹きと言えるほど気宇壮大で、しかも天才と言える程行動的な男であった。又、大村益次郎も歩兵の指導に優れ、奇兵隊の戦闘力強化に大いに力を振るった。加えて密貿易で最新式の火器を大量に入手しており、表向きは武備恭順を装ってはいたが、ひたすら軍事力を培養する長州の実力は並みではなかった。
 慶喜がこの長州を打ち倒す為には、今やっと整備し始めた幕府歩兵をさらに2~3万の精鋭部隊として鍛え上げ、東洋一と謳われる海軍と呼応して圧倒的な戦力を誇示し、戦わずして長州を屈服させるか、あるいは速やかに海陸から攻め込んで圧勝するしかなかったのである。要するに、幕府と長州は、日本近代化の主導権争いの最終決着の当事者であり、慶喜は長州とは妥協する余地はなかったというべきではなかろうか。
 歴史に「たら」はなく、しかも想像の域を出ないが、仮に慶喜と長州が争った場合、初戦で慶喜が圧勝すれば、一戦で決着したのではなかろうか。内戦する余裕がないことはどちらも知っていたし、近代化の道筋は双方共通だったからである。意外に早々と休戦協定を結んで決着したのでないか。
 仮に薩長ではなく、慶喜主導で近代化を推し進めたとして、最も障害になったのは長州ではなくむしろ幕府内部の守旧派ではなかったろうか。差し詰め会津藩などは近代化すなわち慶喜が進める郡県制に最後まで抵抗したのではなかろうか。まあ「たら」はやめよう。
 脱線したついでに言ってしまおう。
長州の民謡で「男なら(別名、オーシャリ節)」というのがあるが、この民謡、長州の女達の天を衝く心意気を示したもので、誠に痛快である。
 歌詞を挙げてみたい
一番
男なら、お槍担いで、お中間(チュウゲン)となって、ついて行きたや、下関
国の大事と聞くからは、女ながらも武士の妻、まさかの時には締め襷
神功皇后さんの雄々しい姿が鑑じゃないかいな
オーシャーリ シャーリ
二番
女なら、京の祇園長門の萩よ、目元千両に鈴を張る
と云うて天下に事有らば、島田落として若衆髷、紋付袴に身を窶し、
神功皇后さんの鉢巻き姿が鑑じゃないかいな
オーシャーリ シャーリ
 この唄、馬関攘夷戦争に自主的に従軍した長州の女達に広まった歌である。金を湯水のごとく使い、幕府財政を圧迫した大奥の女供は、長州烈女の爪の垢を煎じて飲み、はたまた彼女達の腰巻きの洗濯でもすれば、幕府は滅びなかったのではなかろうか?  いずれにしても婦人までもが報国の従軍を行う長州の実力は大したものであった。
 ちなみにこの唄、赤坂小梅の十八番であった。最近(とも言えないが)の歌手でこれを歌えるのは、齊藤京子あたりであろうか。
 赤坂小梅は、鍾馗様を思わせる風貌で、「黒田節」が得意だった。他にも「田原坂」や「おてもやん」など絶品であった。どうでもよいことだが、筆者が子供の頃はまだ彼女がテレビに頻繁に出ていた(特にNHK)。司会者が「コウメネエサン」というのだが、どこが「姉さん」なのかさっぱり分からなかった。後年「小梅姐さん」だと分かり、納得したものである。もう、彼女のような歌い手は永久に現れまい。
4、話を元に戻そう
 5月19日、容堂を除く3人は再登営した。この日も、久光は長州処分問題を持ち出し、この解決を先決すべしとして譲らず、議論は平行した。兵庫開港の国内布告期限は6月7日であり、慶喜としては国内問題に時間を割く余裕などあるはずがなく、長州処分と兵庫開港の後先(あとさき)問題は絶対に譲れないところであった。春嶽が妥協案として同時解決を持ち出し、慶喜はこれに乗る形を見せ、一応の妥協をみた。
 しかし同時解決が保証され、しかも長州の処分に関しては「寛大に」という以外、何ら具体案を示せという訳ではなかったのだから、慶喜としては、どうにでもなる案であった。これには容堂が深く関与していた。
5、容堂の行動
 容堂は、薩摩藩士の陰険な反幕行動を快しとせず、薩摩の反論を封じる形で、慶喜が堂々と兵庫開港を行うことを期待し、そのために、「まず、摂政亭に将軍及び四候その他が出向いて下話をする。その上で慶喜が参内し、勅許を得る」ということを、5月15日、春嶽に提言した。
 これは、「開港事件の切迫なるを奇貨として窃に幕府の失策を希望する姦人」が「姦をなす」のを防止する密策として、春嶽に打ち明けたものである。姦人とは言うまでもなく薩摩藩士を指している。春嶽はこれを「上策」として、即座に賛成している。
 このあたりは文献が少なく実に読み取り難い。ただ、慶喜はこの策に乗って行動し、19日、三候と面談した際も、四候に摂政亭に同行するよう促したのであった。しかし、久光は予想した通り、あくまで反対したので、ここに四候会議は分裂した。容堂は、この分裂を狙っていたのかもしれない。彼は四候会議の見通し(しかも分裂するという見通し)がはっきりすると、朝廷の許可を貰い、土佐への帰藩を急ぎ、激派の憤激を買った。
 この四候会議は初めから分裂の要素をはらんでいた。そもそも4人の思惑が異なっていたこともあるが、何よりも薩摩藩士のパークスの動向への読み違いが誤算の全てであったと言えよう。この点では、現に外交を担当する幕府側の方が状況分析に優れていたと言えよう。
二、兵庫開港勅許
 果たして、四候会議の分裂は、慶喜に兵庫開港を強行する大いなる自信を与えたのであった。要するに大名達がまとまって反対しなければ何とかなると判断したのである。
 慶喜はこの好機を逃さなかった。すなわち、5月23日午後2時、所司代・老中らを従えて参内した慶喜は、長州への寛大な処置と兵庫開港とを順を追って述べ、両者同時に勅許されたいと要請した。
 名著「明治維新の国際的環境」によれば、午後8時から開始された朝議で、彼は、「一心決定の上の参内之義故幾晩徹夜仕り候とも不苦、勅許の有無拝承仕り候までは更に退出致さず」とあるように、流れるような能弁で演説し、その後書見するという傲然たる態度を示したという。
 二条摂政は、幕府の強硬な態度と激派の公家の間に挟まれて何ら決断を下し得ないまま翌24日となり、ついには総参内の命により、続々参内した公家達が様々な名論を述べた。中でも、反幕派の巨頭大原重徳、中御門経之らの兵庫開港反対意見は強硬で、「兵庫開港を許さざるは先帝のご遺志である」と主張して譲らなかった。これに対し慶喜は、「足下の如き、旧事記、日本記、年代記様の議論にては当今の事少しも間に合い申さず」と相手を愚弄し切った答弁を敢えてし、全然取り合わなかったという。さらに、その他の公家の議論に対しても「一々ご説得」というように、一人能く八方に当たるという奮闘ぶりであった。
 要するに慶喜は、大名の意見も公家の意見をも、「天下の政権御委任の将軍」たる自分が全ての責任を持って決定するのだという不動の態度を堅持したのであった。これに対し、優柔不断な二条摂政は何ら決断を下し得ないまま、この日も夕暮れが迫り、一同徹夜の会議で疲労困憊する中、慶喜は、突然、「こうまでしても朝議決しなければ、これより退出する」と脅迫的言辞をもって迫った。これで公家達の抵抗の気力が失せ、遂に午後8時、兵庫開港の勅許が出された。慶喜は、午後10時頃、有志の公家が悲憤嘆息する中を、「堂々然」と二条城に還御したという。
 この一昼夜30時間に亘る奮闘ほど慶喜の能力を示したことは他になかった。慶喜は、薩摩が一昨年九月この方、倒幕の切り札としていた兵庫開港問題という極手を見事に封じ込め、しかも堂々と兵庫開港の勅許を手にしたのであった。この勝利は誠に大きかった。
 この知らせを聞いたロッシュの喜び様は並々ではなく、「上様の果断は凡慮の及ぶ所に御座無く候」と喜んだという。
 遂に幕府は、慶応3年6月6日、長年の懸案事項であった兵庫開港・大阪開市を、慶応3年12月7日に行う旨、堂々と布告したのであった。
三、慶喜への批判と不満
 さて、世論とは難しいもので、この勅許獲得には大きな批判や不満が噴出した。
伊予宇和島伊達宗城は、「大樹公今日の挙動、実に朝廷を軽蔑の甚だしき,言語に絶し候」と批判した。果たしてそうであろうか?
 そもそも公家達は京都に近い兵庫の開港を本能的に望まなかった。異人の侵入を嫌悪したのであろう。その代表が、怖れ多いことだが、お隠れになった孝明天皇である。元来公家達は生来保守的で変革を望まなかった、というより世の中の変化に対応したくなかったのであろう。
  しかし、兵庫開港は国是であり、慶喜としては如何様にしても勅許を取得するしかなかったのである。頑迷固陋な公家達こそ非難されてしかるべきではなかろうか。しかも一部公家達は薩摩と通じて政治的に慶喜を困らせようとしていた訳であり、感情的な攘夷論よりさらに狡猾であるとさえ言えた。だから朝議の場でも、大原重徳の「有志と事を共にすれば憂うるに及ばず」の強硬論が出たのである。これに対し慶喜が、「有志とは、浮浪の徒ではなく、定めて大藩なりしが、天下の政権御委任の将軍を差し置き、卿らと事を共にする藩とは如何なる藩にて候や」と満々たる闘志で応酬したのもうなずけることである。言うまでもなく、有志とは薩摩を指している。
 次いでながらこの宗城は、朝議に参加はしたが、慶喜の弁舌に太刀打ちできず自らの無力を嘆いたほどであった。しかも、薩摩を通じて自藩の産品を売り捌いて貰っていたので、慶喜批判をするしかなかったのであろうか。
 又、近年ユニークな視点で慶喜を論じている家近教授も、勅許取得に向けた慶喜の行動には批判的である。慶喜が諸藩に兵庫開港を諮問しておきながらその答申を待たずに四国公使に兵庫開港を宣言したことについて、「
堪え性のない性格」だと批判している。しかしそもそも当時は諮問すれば答申まで必ず待つという制度が確立していた訳ではなかった。何よりも薩摩は、四候会議の開催を計画し、有力大名の意見を集約して慶喜に圧力を加えようと画策していた。又教授は、慶喜が「他の大名もほぼ自分の意見と同じである」と朝廷に言上したことを、薩摩が慶喜に利用された、と怒った旨記述し、これに賛成するかのようである。しかし薩摩は、先述したように自藩の意見を早くから表明し、加えて、四候会議で慶喜を困らせようとしていたのである。
この薩摩に、慶喜の手法を非難する資格があるのであろうか。薩摩が慶喜の言動を非難するのは、まるで任侠世界の人達が、「仁義の切り方が悪い」といって出入りにまで及ぼうとするのと同じ論法で、国政に関わる者の論理としては実に野暮ったく、且つ泥臭いというべきである。 要するに薩摩は、わずかな手違いであろうと手続きの瑕疵であろうと何であろうと、慶喜を非難する材料を探していたと言うべきではなかろうか。
四、その後の政局と兵庫開港決定の位置付け
1、慶応3年5月23日の慶喜による兵庫開港の勅許取得と同年6月6日の兵庫開港・大阪開市の布告はその後の政局に決定的な影響を与えた。
 即ち、まず朝廷では、急進派の公家達の間で慶喜排斥の動きが見られ、王政復古派が台頭し始めた。
 何よりも、決定的な動きは、非武力的手段による倒幕が不可能だと悟った薩摩を中心とする反幕派は、「倒幕」から武力による「討幕」へと運動方針を切り替え、長州との連携を強化し始めたことであった。
 しかし方法論として「倒幕」が不可能だから「討幕」だというのは分かるが、だからといって、そもそも幕府を倒さなければならないということにはならない。幕府を倒すにはそれなりの理由が必要である。従来の書物では、慶喜の能力が高すぎて非武力的手段では彼を倒せないので討幕になったという面が強調されすぎて、なぜ幕府を倒さなければならないのかの本質的議論がなおざりにされている。これは歴史家にとって、討幕が必然だったという無意識の結果論が前提に立っているからであり、ために討幕の必要性についての検討がなされないのであろう。笑止と言えまいか。
2、兵庫開港・大阪開市の歴史的意義
 以前にも少し述べたが、兵庫開港の経済的効果は決定的であった。何しろ3年後の関税収入が軽く100万両と見込まれていたからである。元治元年の幕府の歳入が(関税収入を除き)約800万両であることを考えれば、この100万両は、圧倒的に幕府に有利であった。
 親仏幕権派の巨頭にして勘定奉行小栗忠順は正にこの日を待っていたと言える。横浜では輸出品を諸外国に買い叩かれていたので、鴻之池や三井を中心とする金融・商業資本を動員して、兵庫商社を結成させて外国に対抗し、しかも幕府による貿易の独占を計画したのである。更に小栗は、兌換紙幣の発行まで計画していた。これが実現すれば幕府は完全に立ち直ってしまう。すなわち、圧倒的な財政力を背景に軍事力を整え、日本全国を郡県制にするという最終目標が完全に見えてくるからである。そうなれば長州は敗北する他なく、薩摩も幕府の主導権を崩すことは不可能になる。
 この将来が見えてきたからこそ、反幕派は討幕を急いだというべきである。要するに日本近代化の主導権争いは、ここに至り、幕府対薩長という図式に純化されていったのである。正に兵庫開港の決定こそ、幕末政治のターニングポイントそのものであった。