最後の将軍徳川慶喜の苦悩10 国際環境の悪化と借款の不調

初めに 
 四国公使への兵庫開港の宣言と勅許取得は将軍慶喜の大きな政治的成功であった。しかし、政治とは儘ならないもので、皮肉にもこの6月6日の国内布告を境として、慶喜の政治的立場は急速に悪化していくのであった。
 まずフランスの対外政策の変化とそれによる借款の不調である。次に彼が最も頼りとしていた謀臣原市之進の暗殺、最後に急速に進む討幕勢力の結集であった。
 慶喜は、日々刻々と変化する彼を取り巻く状況の推移を捉えつつ、日本国の独立と内乱の防止を至上命題として、日夜苦悩していたものと推測される。
 
一、まずナポレオン3世の外交政策の推移について少し述べてみよう。
 フランスはナポレオン3世のいわゆる第二帝政になってから、対外的積極策を推進した。皇帝は、その求心力を高める為にも外征でその名声を勝ち取ることを希求したし、折しも彼が帝位に就いた1850年代は、フランス産業革命の完成期であった。産業資本の発展と彼の野心は対外進出という目標で一致していたわけである。
 彼が手始めにやったのはアルジェリアの撫順と更に南のサハラへの進出であった。この広大な地域をフランスの植民地としたのである。100万人のフランス人がアルジェリアに進出したが(「コロン」と呼ばれた)、彼らは原住民の土地を奪い、その民族性や習俗を無視し、徹底的に搾取することに貪欲であった。
 時は100年下り、第二次世界大戦後、アジア・アフリカの民族独立運動が高まり、アルジェリアでも独立運動が激化した。アルジェリアの独立に絶対反対したのは、このコロン達であった。そしてこの問題を解決できるのは英雄ドゴール将軍だけだった。彼は愛車シトロエンを独立に反対するテロリストに爆破されるという事態の中で、1962年、アルジェリアの独立を認めたのであった。100万人のコロン達が故国フランスに逃亡することを余儀なくされた。
 次いでアジアに矛先を転じた皇帝は、まずインドシナ半島へ進出した。すなわち、1862年、コーチシナを植民地化し、カンボジア保護国として、後年の仏領インドシナの原型を作ったのである。更に、清国に対しては、1860年、アロー号戦争を続行する英国の誘いに応じて参戦し、北京まで進出した英仏連合軍は、乾隆帝がこよなく愛した円明園を徹底的に破壊し、略奪の限りを尽くしたのである。日本にもこの情報は当然伝わっていたはずであり、当時の一橋慶喜も「英仏恐るべし」の衝撃を受けていたのではなかろうか。
 彼の外征はこのあたりまでは順調だった。しかしその躓きのきっかけはメキシコ干渉の失敗であった。メキシコは独裁者が倒れて民衆が蜂起し、民主化のリーダー、ファレスが大統領になっていた。ここに目を付けたナポレオン3世は、オーストリア皇帝の弟マクシミリアンを押し立てて傀儡政権を作り(1863年)、いわゆるメキシコ干渉を行なったのであった。しかしこの企ては結局完全に失敗し、マクシミリアンは人民裁判に掛けられて銃殺される(1867年6月)という最悪の結果となり、ナポレオン3世の権威も大いに失墜したのであった。又これによってオーストリアとの関係も悪化した。
(以下余談だが)
 このメキシコ干渉を題材にした映画「ヴェラクルス」は、アクション映画の大傑作であった。南北戦争に敗れた南軍将校という触れ込みのゲーリー・クーパーとならず者のバート・ランカスターが、この動乱のメキシコに乗り込んで一儲けしよう、という設定であった。無駄なく素早いテンポの中で繰り広げられる2大スターの丁々発止の遣り取りが実に痛快であった。そしてクライマックスのラストシーンでは、馬車に積んだ金塊を独り占めにしようとするバート・ランカスターと、「その金塊はメキシコ国民のものだ」と言って、これを阻止しようとするゲーリー・クーパーとの、まことに絵になるような早撃ち比べの決闘になり、勿論、我らがゲーリー・クーパーが勝利するのであった。
 話を本題に戻そう。
1866年に勃発した普墺戦争終結後、ナポレオン3世は、中立を守った代償として、プロイセンに対しライン左岸の割譲を要求したが、稀代の英傑宰相ビスマルクに「宿屋の勘定書」と一蹴され、相手にされなかった。次いでルクセンブルク併合の野心もビスマルクに阻まれ、第2帝政は完全に下り坂に向かっていった。フランスのプロイセンに対する敵意はいよいよ強くなったが、ビスマルクは、ドイツ統一の最後の障害がフランスであることを早くから認識し、対仏戦争を「歴史的帰結」と位置づけ、着々と外交・軍事両面から準備を進めていたのであった。
 こうして、否応もなくプロイセンとの戦機が高まる状況の中、第2帝政の対外政策は縮小せざるを得なかったのである。
 
二、 フランス対日政策の変化
 慶喜による四国公使謁見が無事に終わって、その陰の立て役者とも言うべきロッシュの興奮も醒めやらぬ慶応3年4月5日、彼は新任のフランス本国外務大臣ドゥ・ムスティエの詰問的訓示を受けた。ロッシュの全面的支持者であった前任外務大臣ルーアン・ドゥ・リュイスは既に、メキシコ干渉の失敗から引責辞任をしていた。
 実は前年、来日したフランス経済使節クウレと江戸幕府は協約を締結していた。その内容は、まず、600万ドルの借款契約の締結(8月20日)、そしてその見返りは主に生糸の独占輸出等であった。この目的のため、幕府側は、特権商人が出資する「航海・商業大会社」を設立し、フランス側は上記二つの目的を遂行する窓口として、目下設立中の「フランス輸出入会社」を充てる予定であった。この二つの会社の関係に関する契約も9月下旬に締結されていた。第3号で「小栗が上京した」と記述したのはこのことである。 ところが、イギリス議会は、この契約の後者の部分について、つまり日仏巨商会社の設立について、日仏政府が貿易を独占する意図を持ち、自由貿易の原則に反するのではないか、として審議に取り上げたのである。
 ドゥ・ムスティエはまず、この点をロッシュに糺したのであった。次いでロッシュに対し、最終的勝利が疑わしい幕府にのみに肩入れするのではなく、パークスのように西南雄藩にも接近する方が賢明であるとの考えを示したのであった。この訓示は今ロッシュが進めている対日政策を全面否定するものであり、到底彼の受け入れられるものではなかった。果たしてロッシュは激しい反駁と弁明を行い、自己の政策が正しいことを猛烈に主張したが、これ以降のロッシュは本国の支持のない根無し草的な存在になってしまったのである。
 なぜ新任外務大臣はロッシュを詰問したのであろうか?確かに日仏巨商(それも国策会社といっても間違いではないほど)による商社設立にイギリスが抗議することは予想されることである。しかし西南雄藩への接近は前任のリュイスからは何ら指示されていなかったことであり、ロッシュの政策は本国フランスでも支持されていたのである。
 具体的に言えば、日仏巨商による商社設立も600万ドルの借款も前任の外務大臣ルーアン・ドゥ・リュイスの承認を受けており、更にリュイスは西南雄藩に接近するパークスの行動に対し、英国本国の外務大臣を通じて、警告まで出している。ロッシュは確かに突出して幕府というより慶喜を熱烈応援していたが、本国の支持がなかったのではない。 
 近年、フランス本国はさほど幕府を支持していたわけではなく、ロッシュの独断であった、という意見が散見する。確かにロッシュは突出してはいたが、本国が幕府を支持していなかったというのは客観的に見て妥当でないと考える。それは、フランス本国が征長戦のさなか、16門(16文ではない)の最新式大砲を幕府に供与したこと、また軍事顧問団を幕府に送り込み、更にはフランス人ヴェルニーによる横須賀軍港建設を承認したこと等により明らかである。何よりも徳川慶喜に送られたナポレオン3世の軍装が幕仏間の親密さを物語っているのではなかろうか。第2帝政が積極的な東アジア進出の過程において、幕府支持に傾いたと見るのが妥当ではなかろうか。
 第2帝政の幕府支持の理由は他にもある。19世紀後半、フランスでは主たる産業の養蚕業が蚕の微粒子病で壊滅的打撃を受けていた。奇跡的に日本産蚕のみがフランスに持ち込んでも病気にならず、フランス産業界は日本の蚕を喉から手が出るほど欲しがっていたのである。将軍家茂の時、友好の証として最良質の蚕種15000枚をフランス皇帝に贈与するという申し出をしたほどであった。この意味からも、第2帝政の最後の拡張期のフランスは幕府支持を一段と強化したのである。ちなみにフランス軍事顧問団団長のシャノワーヌ陸軍大佐は後に陸軍大臣になり、同じくナンバー2のブリュネイ大尉は函館戦役にまで幕府に付き合い、帰国後参謀総長にまで昇り詰めた。要するにフランス陸軍最高の軍人達が日本の軍事顧問をしていたのである。この一字をもってしても、第2帝政が幕府を支持していた証拠ではなかろうか。
 面白いことに、このフランスの幕府不支持説と同様に、「英国は従来言われていた程薩長寄りではなく、自由貿易確保が至上命令で、この目的に沿った行動をしただけだ」という説がある。しかし例えば、パークスが、幕薩間の緊張が高まる中、薩摩を訪問するということ自体が、薩摩に利する行動であることは明らかであり、パークスの個人的意図がどうであれ、幕府に不利なことは明々白々であった。何よりも新任外務大臣ムスティエがロッシュに対し、「パークスに倣って、西南雄藩にも接近するように」と両天秤政策を勧めていることからして、英国が西南雄藩に利する行動を取ったことは明らかであろう
 更に言えば、英国が主張する自由貿易の理論は、確かに万国共通の真理のようだが、やはり最強国の身勝手な理論武装と言えなくもない。財政難に喘ぎ、西南雄藩と今、雌雄を決しようとしている幕府が、生糸を独占的にフランスに輸出してその場を凌ごうとする保護貿易的誘惑に負けそうになったとしても、筆者は到底それを非難できない。
 いつの時代も大国の論理はたしかにグローバルで妥当なように見えるが、それは自国最優先の目的から生み出された都合の良い論理であることも確かである。
 極論すれば以下のとおりと言えまいか。
産業革命を経て世界最大の工業生産力と世界最強の価格競争力を誇る英国は、「自由貿易」を唱えるだけで自国の利益を確保出来たのである。そして、その自己主張を貫徹する為に世界最強の海軍力を常に維持し、世界に雄飛したのである。
 しかし当時の日本経済は、そもそも産業革命以前の前近代的生産手段しか持たず、この大英帝国自由貿易論理を持ち込まれること自体が無理難題なのであった。大国はいつもエゴイストなのである。
 ちなみに大英帝国の国是は、世界で第2位・第3位の海軍国が連合してもこれを打ち破る海軍力を保持することであった。この国是は、20世紀になってドイツ海軍が大軍拡をしたことにより、対独35%の優位に甘んじなければならなくなるまで続いた。いかに大英帝国が海軍を重視したかが分かる。 
 余談だが、英独両大国はほぼこの戦力バランスで第1次世界大戦に突入したが、やはり長年の海軍国であった英国の優位は揺るがず、ドイツ海軍はキール軍港に閉じ込められた状態で終戦を迎え、鬱屈した水兵達が暴動を起こし、革命勃発の発端になった。
 話を元に戻そう。
ではなぜフランス本国は対日政策を転換したのであろうか。答えは明白である。最初に記述したように、相次ぐ外交の失敗から第2帝政は対外政策を縮小せざるを得なくなったのである。 普墺戦争以降の欧州情勢、何よりも近づきつつあるプロイセンとの戦雲が、第2帝政の極東政策を萎縮させてしまったのである。
 
三、対仏借款の行方     では肝心の借款はこの先どうなったのであろうか?
1、薩摩の奇策
 徳川慶喜の名代として弟徳川昭武がパリに到着したのは慶応3年3月7日であった。パリ万博会場を訪れた昭武は驚くべき光景を目の当たりし、絶句する外なかった。
 廊下を隔てた向こう側に何と「薩摩琉球国」を名乗る薩摩藩の出品があるではないか!これでは、日本にあたかも二つの国があるかのようである。幕府の抗議で琉球国の看板は降ろしたものの、「薩摩太守」と名乗ったのである。この表示さえも、日本は当時のドイツのように連合国家であるかのような印象をフランス人に与え、幕府は完全な日本代表ではないかのように受け取られた。又、薩摩は、大君はミカド(天皇)の権限を不当に簒奪したものであり、本来の日本の主権者は天皇のみであるという反幕宣伝を盛んに行ない、パリ・ロンドンの有力新聞にこれを掲載した。日本の政争を遠く欧州フランスにまで持ち込んだのである。しかも宣伝戦という意表を突くやり方であった。この巧妙ではあるがむしろエゲツないとも言うべき奇策を、何故海外遠征してまで行なったのであろうか?  その解答は明白である。薩摩は、ひたすら借款を阻止したかったのである。
 対仏借款成立直前の慶応2年5月28日、幕府側責任者の小栗忠順は、久しぶりに登城した勝海舟を別室に呼び、最極秘の情報としてこの借款の成立が近いことを打ち明けている。そして徳川絶対主義による郡県制を推進し、これに逆らう長州を討ち滅ぼし、薩摩も日ならずして討ち果たす旨述べている。又、それが成就するまでは、いかようにしても金銭の遣り繰りを行なうのだと豪語したのである。
 薩摩がこの極秘契約をいち早く察知したのは、多分勝からの情報ではなかったろうか?勝は以前から西郷等らと親しく、思想的には公議政体論者でつまるところ宥和派である。彼は日頃から小栗等の強硬路線を快く思っていなかった。慶応2年5月末の段階では、まだ幕薩間が一触即発の緊張状態というほどではなかったので、多弁な勝がつい口を滑らせたのではなかろうか?と推測したら勝に失礼であろうか?「勝はこの時点で日本の為に大所高所からものを考えて薩摩にこの情報を流した」と評価すべきであろうか?それを肯定することは「勝を神に近い存在だと評価する」のと同じである。 いずれにしても薩摩が大きな危機感を持ち、借款阻止のため、なりふり構わぬ行動を取ったということである。
 勝も勝だが、何故に小栗はこの情報を勝に伝えたのであろうか?勝は海軍奉行に復職したとはいえ、当時はその盟友大久保忠寛と共に主流派から完全に外れ、江戸幕府は親仏幕権派が主流であった。しかも勝は前述したように西郷等とパイプがある上、極めて多弁である。何よりも勝と小栗は思想・信条が全然異なるのである。 小栗程の人物が何の目的でこの極秘情報を勝に流したのか?筆者は全く理解不能である。
 ちなみに、戊辰戦争の際、幕府側で処刑された高官は、近藤勇小栗忠順のみである。近藤は、新撰組局長として、武闘派の最前線で活躍し、反幕派の浪士を切りまくったし、何よりも彼は武人である。これに引き替え、小栗は全然血なまぐさいことをしておらず、しかも文官である。やはり、後述する薩摩藩江戸屋敷の焼き打ちを指示したこと更には何よりも、この借款で薩摩を滅ぼすことも辞さない決意を示していたことが西郷等の大きな恨みを買ったのではなかろうか?
 
2、栗本錕の渡仏と進まぬ借款
 さて、なかなか進展しない借款に不安を募らせたロッシュは、栗本錕をフランスに派遣して状況を打破することを幕府に提案した。すなわち、パリ・ロンドンの新聞に日本の支配者は大君(将軍)で、ミカドは700年この方政治に関与していないことを広く知らしめることと、更に蝦夷地の諸物産の開発権を抵当に入れて借款交渉をすることであった。この極めて重要な密命を帯びた栗本は慶応3年6月にフランスに渡った。
 慶応3年8月17日、パリに到着した栗本はクウレ等と何度も折衝したが、借款ははかばかしくなかった。そして結局借款は成立しなかった(尚、正式破談は慶応3年12月)。
 その直接的理由は、フランス輸出入会社の設立が挫折したことによるものである。要するに、株式を募集したが応募が極端に少なく、資本金が集まらなかったのである。
 この理由はいくつか考えられる。当時ヨーロッパを襲った不景気により、メインバンクたるソシエテ・ジェネラールの経営が悪化したため融資を渋り始めたとか、メキシコ干渉失敗により投資家が遠隔地投資に不信感を抱いたとかあるいはまた英国の抗議に及び腰になったなどである。勿論薩摩の妨害工作も影響したものと思われる。しかしやはりそれらを含めて第2帝政の政策変更が痛手になったのではなかったろうか?
 なぜなら、この借款は「フラン輸出入会社」の成立が前提となっており、この国策会社とも言える会社の設立にフランス政府が及び腰になったことが最大の理由と言えるのではなかろうか。9月13日、栗本と駐フランス公使格の向山一履が連名で外国奉行に送った書翰やまた9月23日、栗本が外国奉行川勝広道に送った書翰では、精力的に交渉するも借款が進まず難渋していることを報告している。
 
3、いくつかの疑問
 ところでこの借款の構造は極めて分かりにくい。そもそも貸し手はフランスの大銀行ソシエテ・ジェネラールであるが、無条件に融資するのではなく先述したように「フランス輸出入会社」の設立が融資の条件であった。何故こんなことをしたのであろうか?そもそもこの契約そのものが極秘契約である故、契約書が残っていない。だから余計分かりにくい。 以下は筆者の拙い想像であるので、笑読して欲しい。
 まず借款600万ドルの使途であるが、これは完全に軍需資金、というより戦争資金である。これが例えば道路・鉄道、造船所、製鉄所といったインフラ整備の資金であれば、その設備が整いさえすれば、収益を得ることが出来るから、債権者も貸付金を回収出来る。しかし戦争費用は戦争に勝って、敵地を分捕ったり領地を削ったりあるいは賠償金を取得したりしない限り収入は入らないから返済ができない。つまり債権者は貸付金を回収出来ない。もし仮に戦争に負けたら回収不可能になる。ソシエテ・ジェネラールはこの点を危惧したのではなかろうか?だから確実に回収する為にも子会社を設立し、その利益で貸付金を回収することを考えたのではなかろうか?「フランス輸出入会社」と日本の「航海・商業大会社」が主に生糸の取引をして、その利益から貸付金を回収することを企てたのではなかろうか。
 つまり日本側は、この国策会社の収益で借款の返済に充てることを目論んでいたのである。そのための手段として小栗等は生糸の専売制を計画していたが、実はこの専売への移行も農民の反対でかなり難航していたようである。
 栗本が蝦夷地開発権を担保にすることを提案しても、返済の目処が立たないと銀行は貸付をしないものである。これはどんな高価な担保があっても同じである。貸し手のソシエテ・ジェネラールが無条件に幕府に融資するのではなく、輸出入会社の設立を条件としたのはこういう理由ではなかったろうか?そして子会社の設立は第2帝政の対外政策の変更によってその援助を受けられないまま頓挫したのである。
 筆者が更に分からないのは、「幕府債」あるいは「日本国債」なる用語を用いる文献を散見することである。もし幕府が国債を募集しようとしたのであるなら、この契約は借款ではなく、ソシエテ・ジェネラルは、日本国債を取り扱う単なる幹事証券に過ぎなくなるのではなかろう?などとあれこれ拙い憶測している。いずれにしても、この借款の構造は実に分かりにくい。
 総じてこの問題については正面から詳しく取り上げた文献があまりない。幕末政局の帰趨を決した決定的事件であるにも拘わらず、歴史家はこの点に極めて疎く且つ鈍い。何故か?  歴史家が経済・財政に疎いのか?契約書が存在しないので取り上げにくいのか?外国に金を借りたことが恥辱なので知らぬフリを決め込んでいるのかいずれにしても不満の限りである。 
 
4、借款不成立と慶喜の判断
 慶応3年7月18日、駐フランス公使格向山一履は、ロンドンより勘定奉行小栗忠順宛に電報を発信した。「クウレより金あらす直オリエンタルバンクにて為替を組むべし」とである。
 徳川昭武一行が、クウレに旅費の支出を頼んでもすげなく断られてしまい、ロンドンで旅行資金に窮し、切羽詰まり、当時の最新ハイテク通信の「電報」にて至急旅費を送るよう小栗に要求しているのである。クウレは慶応3年正月3日、日本を去る際、徳川昭武一行の欧州滞在費支弁を小栗に請け負っており、このクウレの豹変には小栗も驚かざるを得なかった。また向山は、このあとすぐ7月27日、外国奉行一同に宛てた書翰では、「再々及掛合候へ共、600万弗御約定全く瓦解の姿と相成、・・・」と報告している。要するに借款が頓挫していることを報告しているのである。
 9月13日に栗本が外国奉行に送った書翰は電信ではないであろうから、日本に届くには50日程かかる。しかし徳川慶喜は、信頼する弟が欧州で金策に事欠き、苦労していることを、向山が打った7月18日発の電報で知っていたはずである。要するに将軍慶喜は、前年に成立した借款が1年経っても遅々として進まない状況を正確に把握していたものと推測する。借款が正式に破談になったのは12月になってからであるが、怜悧な慶喜は、政治家としての直感から借款の先行きに見切りを付け始めていたのかもしれない。この借款の不調はその後の慶喜の政策選択の余地を大いに狭めることとなる。 つまり軍事力を短期で培養することが財政面から難しくなったのである。彼の政治的本音は、数年掛けて2~3万の幕府歩兵を整えて、戦わずして薩長を屈服させる戦略であったのではなかろうか?しかしこの時期既に、反幕派は討幕運動を本格化し始めており、どちらが覇権を握るか、時間との闘いになったのである。こうした状況の中で借款の不調という事態に至り、薩長との武力対決を財政面からも先延ばしにしなければならないというまことに不利な事態に直面しなければならなくなったのであった。
 要するに借款の不調は、将軍慶喜が、慶応3年10月14日決行した「大政奉還」の決定的判断材料の一つになったと筆者は推測する。
 余計なことだが、こうした判断力は、極めて優秀だが官僚である小栗よりも政治家である慶喜の方が優れていたのではなかろうか?
 向山一履は当時余り評価されていなかったようだが、幕末政局を左右する超弩級の情報を日本に送り続けていたのであった。
 尚、借款が正式に破談になった12月、小栗はロッシュに「大失望」と言って落胆することしきりであったが、勝はこれを後にロッシュから聞いて「たった600万ドルで青くなった」と冷笑している。当時の勝が火の車の幕府財政に全く疎かったのか、それとも明治になってからの勝の話なので、彼がいよいよその口を軽くしたのか?筆者には分からない。ただこの言葉には不愉快な印象のみが残る。
 
5、武器等の発送
しかし借款が不成立でも、フランスから武器・軍需品等合計72万ドル分が発送された。これは借款契約と同時になされたもので、この分は履行されたのである。しかし、これらが横浜に到着したのは、慶応3年10月であった。幕府は支払いの原資が足りず、30万ドル相当分を受け取ったようである。この中には最新式の後装シャスポウ銃が含まれていた。この銃が鳥羽伏見の戦いで使用されたかどうかは依然として不明である。 
 遠い異国フランスのパリで幕府倒壊の知らせを受けた栗本は悲憤の涙に暮れた。
更に追い打ちを掛けるように、帰国した栗本は盟友小栗忠順の斬首を知らされたのであった。歴史とはむごいものである。