最後の将軍徳川慶喜の苦悩11高まる討幕運動と謀臣原市之進の死

始めに
読み易くするために今回は西暦対照表を付してみたい
元治元年 1864年
慶応元年 1865年
慶応2年  1866年
慶応3年  1867年
一、討幕運動の高まり
1、薩摩藩を中心とした討幕派の動向
 徳川慶喜による兵庫開港の宣言を契機として討幕運動が急速に高まっていった。四藩会議の分断は薩摩側の完敗であったが、西郷らはこの敗北により思わぬ収穫を手にすることになった。それは島津久光が幕府への反感を深めたことであった。保守的な久光は従来から公議政体論者であり、必ずしも倒幕に肯定的ではなかった。しかし、兵庫開港による貿易の利益を幕府に独占されることへの危機感、そして何よりも度重なる慶喜への政治的敗北が彼の反幕感情を強めたのであった。これによって西郷らは、日本最強の薩摩兵児を以前にも増してその傘下に組み込むことが可能となったのである。 
 慶応3年6月16日、久光は、長州の山県有朋と品川弥次郎を引見し、続く7月、村田新八を山口に派遣し、これからは長州藩と協力してやっていきたいとの考えを伝えた。これを受けて長州藩主の毛利敬親は、品川らを上洛させて薩摩側の真意を探らせることになったのである。そして8月14日には有名な西郷の挙兵計画が長州側に告げられた。
 同年8月19日、大久保一蔵は山口で長州候父子に会い、薩長二藩出兵協定を結んでいる。しかし、薩摩藩の国元では自重論も根強く、必ずしも藩論が「討幕」で統一している訳ではなかった。これは長州にしても同様で、禁門の変の苦い経験から藩内拠守の自重論も根強かった。
2、長州藩の軍事力培養
 長州が密貿易を通じて近代兵器を大量に購入し、その軍事力をひたすら培養してきたことは以前述べた。この近代兵器を売りつけたのはスコットランド出身の英国商人トーマス・グラバーであった。しかし長州は朝敵となっていて表舞台に立つことが出来ない。そこで長州は自藩の船舶を薩摩船籍とし、薩摩がグラバーから武器を買い付けこれを下関に運搬し長州が代金を支払うという方法をとったのである。この運搬を生業とした男こそ誰あろう坂本龍馬その人であった。グラバーは死の商人だから、龍馬はさしずめ死の商人の手先といってよいのではないか。日本中が彼をもてはやす昨今、龍馬を批判するのはやや気が引けるが、事実は動かし難い。また、例の「船中八策」を彼の独創的発想として世間は持てはやしているが、当時の知識人なら皆イギリスの議会制度や内閣制度を知っていたのであり、彼一人がこれを編み出した訳でも何でもない。
 グラバーについて言えば、節操などまるでない金のためなら何でもする恐るべき商人であった。彼は長州に100万ドル位ならいつでも用立てすると豪語している。しかし当時のグラバー商会は赤字であり、そんな金を用立てることが出来るとは考えにくい。時あたかも馬関攘夷戦争の巨額の賠償金を幕府が支払わされ、財政難にあえぐ幕府は後述する慶応元年9月の四国連合艦隊大阪湾侵入事件がきっかけで、翌慶応2年5月の江戸協約において関税自主権を放棄し、一律5パーセントの関税率を呑まざるを得なくなったのであった。大英帝国がこの多額の賠償金を取得した時期と英国商人のグラバーが100万ドルを融資すると持ちかけた時期が全く同じなのも偶然の悪戯であろうか。
 筆者は以前、関税自主権を放棄した幕府の外交は全く自主性のない無策そのものであったと漠然と認識していたし、あまたの歴史書もそのように記述している。しかし真相は、無責任な攘夷戦争をやった長州の後始末をさせられた幕府がその代償として関税自主権を失ったというのが実態である。一体長州は幕府を困らせることにおいては天才的であった。この指導者が誰あろう高杉晋作である。その手始めが、品川に新築したばかりの英国公使館焼き討ち事件であった。無邪気な若者の攘夷運動と言えばそれまでだが、その後、孝明天皇の石清水社行幸を強行し、次いで大和行幸尊攘派の公家と画策し、これが文久3年8月18日の政変で否定されるや、蛤御門の変を引き起こし、更にその極めつきが馬関攘夷戦争そしてそれに続く第1次及び第2次の長州戦争であった。幕府は最後まで長州に翻弄され続けたのである。
  しかし長州は、先述したように薩摩と行動を起こすことには抵抗感があった。それは蛤御門の変で敵対したことで、対薩摩不信感が長州ではなかなか拭えなかったからである。
3、土佐藩の動向
 こうした倒幕派の動きに危機感を持った土佐の後藤象二郎は、従来からの公議政体論(雄藩連合)をさらに一歩進め、大政奉還によって幕府に譲歩を引き出し、内乱を防止すべく積極的に周旋を開始したのであった。つまり彼は西郷に働きかけ、慶応3年6月22日、薩土盟約を締結させる一方、土佐藩主の山内容堂を説得して、将軍に大政奉還を具申するよう働きかけたのであった。
 西郷がなぜ長州と土佐の二股を掛けたのか?答は明らかである。彼の頭には「討幕」の一字しかない。土佐と同盟したのは、幕府に大政奉還など出来る訳がなく、ならば討幕だ!といういわば討幕の名目を土佐から取り付ける意図があったからではなかろうか。 ところが、である。後述するように慶喜は意表を突いて大政奉還に打って出て、西郷らを慌てさせたのは衆知の事実であるが、これは後述する。
 危機回避に奔走した後藤は、10月3日、老中板倉に容堂の建白書を手渡し、更には10日永井に容堂献策の実行を勧めている。この土佐藩の建白書の提出には慶喜も一枚かんでいたとみるべきである。なぜなら、9月20日および10月2日の二回に亘り、永井から後藤に対し、建白書を提出するよう催促がなされていることが分かっているからである。こんな大事なことを永井一人で出来る訳がなく、その奥には慶喜の意向があったと見るべきである。
 
4、パークス、サトウらの動向
 慶応3年4月、まさに慶喜が四国公使に兵庫開港を宣言した直後、サトウは大坂で西郷と面談し、「兵庫が開港されれば革命の機会は永久に失われてしまう」と述べている。 同年7月、再び大坂でサトウと接触した西郷は、幕府による兵庫開港を非難し、貿易の利益が幕府とフランスに独占される恐れがあると盛んに入説している。さらに西郷は「全国民の議会」を開くべきだ、などと述べている。 
 同年8月6日、パークスは土佐に入り、後藤と面会している。この時、パークスは大政奉還への土佐藩の考えなどを聴取していたのかもしれない。 
 さらに同年8月17日、サトウは長州へ赴き、木戸に、「志があるのに起たないのは、『ばあさんの理屈』といって西洋では嫌われる!」と述べ、暗に木戸らの決起を慫慂している。
 以上見ただけでも、英国がいかに薩長に肩入れしていたかが歴然とするのではなかろうか。これらの行動は内政干渉に等しいものであり、「従来言われてきたほど英国は薩長寄りではなかった」などと論ずる者の顔を筆者は是非見てみたい。しかも、パークスやサトウは彼らの独断ではなく、ほぼ本国の政策を踏襲していたのであった。明治維新の際、英国が他国よりも遙かに素早い対応をしたのもこの当時から抜け目なく情報収集していた成果であった。これに反し、ロッシュはほぼ幕府支持一点張りであり、しかもフランス本国では対日政策が転換され、彼が根無し草的存在になってしまったことはすでに述べた。
5、公家社会の動向
 (1)慶応2年8月26日、将軍不在のいわば権力の空白期間を利用して、大原重徳、中御門経之ら反幕派の公家22人は、列参を行った。
 この列参とは分かり易く言えば公家達の団体交渉のようなもので、大挙して参内し、孝明天皇に中川宮の退陣、朝政の刷新などを要求したのであった。徹底した佐幕派孝明天皇は激しく怒ってこれを退けたが、自前の権力を持たない天皇はどうすることも出来なかった。しかし慶喜が徳川家を相続することが決まり、同年10月16日、所司代守護職・老中を始め幕兵数百名を引き連れ、(洋装にて)堂々と参内するに及び、慶喜勢力が朝廷を掌握することとなり、列参に関係した公家達は同月27日処分謹慎となった。この列参を陰で操った人物こそ稀代の陰謀家岩倉具視その人であった。
 このように公家社会は佐幕派倒幕派に分かれていたが、やはり幕府の兵庫開港宣言を境として倒幕派の勢いが盛んになっていった。侍従鷲尾隆衆などは慶喜が参内したら刺し殺すなどと公言するようになり、かつてないほどの緊迫感が京都の空気を覆う中、同年9月21日、それまで気儘に若狭藩屋敷で生活していた慶喜は用心のため二条城に入城することになった。10月になると(後述するが)討幕派の公家は薩摩と結託して討幕の密勅を偽造し、これを薩摩・長州藩主に送る、という非常手段まで弄する事態になった。この討幕勢力の伸張はやはり後ろ盾の薩摩の力が朝廷に及んできたことを意味するのである。朝廷側の窓口は言わずと知れた岩倉具視である。彼の禁足が外れたのもまさに慶応3年9月であった。この岩倉と頻繁に協力して宮廷工作を行った薩摩側の代表者が大久保一蔵その人であった。王政復古を生涯の目標とした岩倉と討幕が至上命題の大久保はここに目標が一致したのである。
 (2)ここで孝明天皇について少し述べてみよう。    
幕末の政局が混迷した大きな原因は、孝明天皇安政条約の勅許を拒否したことによるものである。この条約は水戸斉昭すら調印止むなしと認めていたものであり、幕府は勅許取得によって国論を統一しようとしたのである。鎖国を断行した幕府は開国もその独断で行うのが論理的な筋道というべきであろうが、そもそも幕藩体制そのものが構造上対外的な挙国一致の体制ではなく、外国に団結して対抗するためにはやはり勅許が必要だったのかもしれない。まして権力が衰えた幕府においては尚更であった。しかし孝明天皇は、一度も異人に蹂躙されていない皇国日本が他国に屈服することは皇祖皇宗に対して申し訳がないという一途な思いを貫き、神威により外患を吹き払うことを伊勢神宮に祈願している。古代以来の農耕国家の伝統ある祭主としての本来の姿だ、といえばそれまでだが、この孝明天皇の勅許拒否が幕末政局の混迷の第一歩となった。
 すなわち、諸藩が幕政につけ込む隙を与え、かつ尊皇攘夷運動が激化するきっかけとなったのである。そして、幕末政局の中心は永久に江戸から離れ、維新による決着まで京都がその中心となった。佐幕派の筆頭の孝明天皇にとって幕府権力が衰えることは全く不本意で皮肉な成り行きと言うほかはない。孝明天皇の二大信念は攘夷(鎖国復帰)と政治の幕府委任(佐幕)だったからである。
 しかし遡ること慶応元年9月16日、パークスほか四国代表が座乗する九隻の英仏米蘭の四国連合艦隊(内訳は英4隻・仏3隻・蘭1隻・米国は偶々日本に軍艦を逗錨していなかったため英国から1隻借用して自国の軍艦とした)が、安政条約勅許・輸入税率軽減等を要求して大挙して大坂湾に侵入するという大事件が起きた(これを名付けて、「四国連合艦隊大坂湾侵入事件」)。そもそも文官である外交官達が軍艦に乗って現れること自体が尋常ではなく、これはまさしく恫喝外交そのものだったといえまいか。
 彼らが大坂湾に侵入したのは、第二次長州征伐のため将軍家茂が大坂城まで出陣しており、彼の幕閣もそれに従い大坂に来ていたからである。パークスらは、この際外交上の諸懸案を幕閣に突きつけ、それらを一気に解決する意気込みであった。又、仮に交渉が不調に終われば、「朝廷と直談判をする」という伝家の宝刀を幕府に突きつけ、その泣き所を攻めるつもりであった。大久保一蔵らを中心とする薩摩藩士は条約勅許を阻止すべく反幕派の公家達に盛んに入説していた。大久保らはあわよくばここで幕府の外交権を奪う魂胆であった。
 しかしこの時の慶喜の行動は目を見張るものがあった。危機迫るとみた慶喜は10月4日、決死の覚悟で天皇に条約勅許を迫り、同月5日、天皇は苦渋の決断で条約を勅許し、危機は一旦去ったのである。まさに慶喜の一昼夜に亘る奮闘の結果であった。
 この条約勅許によって、天皇の「攘夷」の信念は変更せざるを得なかったが、天皇の佐幕すなわち幕府支持は一貫していた。天皇徳川慶喜に全幅の信頼を置き、権謀術数が得意の慶喜天皇に対しては、(この条約勅許事件や長州征伐取り止め事件などで何度か天皇の怒りを被ることはあっても)その赤心を貫いていた。そして「幕府がいかに衰えようとこの帝がおわす限り討幕などあり得ない!」というのが佐幕派の強みであった。しかし慶喜が将軍に就任してわずか20日後の慶応3年12月25日、孝明天皇が急逝された。まことに言い難いことだが当時から毒殺説が囁やかれていた。天然痘に罹った天皇は回復も順調で、27日には全快祝いをする予定であった。この不自然な急死が当時から暗殺説の原因となったのである。筆者があれこれ推測するのは当然差し控えたいが、一つだけ言えることは、孝明天皇が健在である限り、討幕の偽勅を出したり、王政復古のクーデターを挙行するなどあり得ない話である。ましてや鳥羽伏見の戦いで錦旗を出して、慶喜を賊軍にしてしまうなど夢のまた夢であろう。
 こうしてみると討幕派にとって孝明天皇がいかに大きな障壁であったかが一目瞭然である。一番疑われているのが誰あろう岩倉である。石井博士はこの岩倉主犯説を主張している。又、反幕派の正親町三条実愛はその日記に「中外遺恨」と記している。これは列参の処分に対する遺恨の意味であろうか?
 しかしいくら論じても分からないものはわからない。石井博士の言を借りれば、孝明天皇は反維新に殉じたのかもしれない。
二、原市之進の死
 こうした状況の中で、慶喜の側近ナンバーワンの謀臣原市之進が慶応3年8月14日暗殺された。この日の朝、髪を結わせていた彼は、二名の来客が面会したいということで、隣室に通すと、その刺客二名はいきなり襖を踏み破って切りつけ、原の首級を上げたのである。自首した下手人は鈴木豊次郎と依田雄太郎、なんと江戸から来た旗本であった。暗殺の理由は、「慶喜に取り憑いた狐が兵庫開港をそそのかした」というもので、慶喜の政策を全く解さない守旧派の旗本であった。以前にも述べたが、江戸の旗本は危機意識が希薄で、守旧派が多い。元治元年6月に暗殺された前任の平岡円四郎も江戸から来た旗本の手にかかったのである。この事件の首謀者は山岡鉄太郎、松岡万、関口隆吉であり、いずれも有力な旗本達であった。山岡らは原暗殺の後、「そんなに立派な男だったとは知らなかった」と反省しているが、もう死んだ者は生き返らない。この軽々しい反省自体が腹立たしいことだ。後に山岡は成長し、西郷・勝の会談の地ならしに単身駿府に乗り込んで江戸無血開城に一役買っている。その後は、明治天皇の侍従になり、天皇に信頼されることしきりであった。臨終に際しては座禅を組んで逍遙として死に就いたといわれ、彼の人格を讃える声を多く聞く。しかし、である。筆者は彼が後年どんなに人格者になろうと、いかに立派な人だろうとそんなことはどうでもよい。到底、原暗殺の負の遺産を償い切れるものではないからである。
 原が暗殺された時の慶喜の落胆は尋常ではなかった。常に理知的で、感情を表に出さない慶喜が人前も憚らず泣いた。それほど痛手だったのである。
 薩摩藩への慶喜側の窓口は唯一この原であった。つまり対薩摩交渉は原が一手に引き受けていたのである。その際の薩摩側の窓口は家老小松帯刀であった。また、宮廷工作も彼の仕事であった。この際の薩摩側のライバルはまさに大久保一蔵であった。さらに、対仏600万ドルの借款も小栗ではなく原の発案だという説(神長倉真民氏)もあるほど、優秀かつ行動的な男で、まさに慶喜の手足そのものであった。慶喜大政奉還に踏み切ったのは原を亡くして先行きの行動に不安を感じたからだという説すらある。
 ところで、謀臣とは私設秘書のような者で、元来家来が少ない慶喜にとって原は最も頼りになる存在であった。松平春嶽などは慶喜に同情し、「お気の毒だ」と述べている。この原は水戸出身で手のつけられない攘夷論者であったが、慶喜に仕えるに及び、忽ち慶喜に心酔し、彼の手足となって獅子奮迅の活躍をし、「栄進日に三遷す」と言われるほど慶喜の元でその能力を振るったのであった。これが凡暗の守旧派に恨まれ、しかも理解されないまま暗殺されたといえる。
 守旧派は本来的に慶喜のやっていることを最後まで理解出来ずにいた。江戸と京都で離れていることもあり、そもそも守旧派慶喜嫌いが多い。江戸の旗本達は慶喜を「二心殿」とか「豚一殿」などと呼んで、憎悪の対象とした。前者は二心ある殿、後者は豚肉好きの慶喜を皮肉ったものである。更には地べたに「一橋」と書いて、放尿する者もいたようだ。
 そもそも論だが、この「謀臣」は慶喜には絶対必要な存在であった。なぜなら、小栗忠順はきわめて優秀だが、彼は勘定奉行という歴とした幕府の官僚である。永井尚志にしても同じことで、表役人の彼らは水面下の工作など出来ないし又そんなことをする気もない。これらの行動を一手に引き受けていたのが原であった。慶喜にはもう一人梅沢孫太郎という謀臣がいたが、彼はどちらかというと平和的な仕事を引き受けていたようである。そのためか無事に明治まで生き延び、何ら語らず死んでいる。見事な生涯と言えよう。
 いずれにしても慶喜とって原の死はその行動力をきわめて削がれることとなり、これから討幕派と乾坤一擲の大勝負をしようというまさにその時、原の死は大きな痛手となったのである。
 話がやや逸れるが、慶喜を批判する者がよく「慶喜は冷たいので、彼を慕う者がいない」とか、「彼の手足になって粉骨砕身する者がいない」などと言う。これは彼の政治家としてのキャリアの経緯を無視した軽薄な説と言わざるを得ない。
 そもそも慶喜外様大名に後押しされて朝廷の意向で将軍後見人として政治出発している。勅命を奉じた大納言大原重徳が、島津久光率いる屈強な薩摩藩兵700名に守られて江戸に押しかけ、慶喜将軍後見職就任を迫ったのである。幕府はこの圧力に屈して止むなく慶喜将軍後見職に就任させた。面白くない幕府は、「叡慮により」と但し書きをした上で慶喜将軍後見職就任を認めたのである。一橋家は江戸城中に住み、徳川家の家族である。この当主の慶喜が外様藩の圧力で後見職に就任させられたのであるから、慶喜は幕府部内で居心地の良い訳がない。しかも久光は帰藩の途中、横浜で有名な生麦事件を起こしている。幕府にとってはまさに泣きっ面に蜂であった。この政治デビューからして彼は不幸な出発をしたのである。それも慶喜の意思とは全く関係ないところで進展したのであるから気の毒と言うほかはない。つまるところ彼は、その政治出発からして幕府の連中からは疎まれる存在であったのである。
 その後上京した慶喜は、京都で政治家として活躍を始めるのであるが、そもそも彼は将軍の家族に過ぎないから自前の組織を持っていない。これは同時代の島津久光松平春嶽山内容堂らに比べて大きなハンデとなったのである。この状況は元治元年3月、禁裏守衛総督となってからも変わることはなく、何をするにも結局、彼は組織としての会津・桑名の藩兵を頼るほかなかったのである。そして(嘗て家茂と14代将軍の座を争った)将軍より優秀な将軍の家族として、江戸の守旧派に憎まれ続けた。慶喜会津・桑名は「一会桑」と呼ばれ、京都で一大勢力をなし、江戸幕府から半ば独立したような観を江戸の守旧派に与えた。これは決して慶喜の望んだことではなかったが止むを得ないことであった。
 このようなキャリアの中で、謀臣は数少ない慶喜の側近であった。彼らは皆慶喜の手足となって働き、頑張ったのである。
 古い話だが、筆者が若い頃、綱淵謙錠という作家がいた。彼は慶喜に恨みでもあるかのように慶喜批判をした。そして慶喜の評伝や座談会の席で、「神祖家康が『君臣水魚の交わり』という逸話がこれでもか!と言うほどあるのに、慶喜にはその手の話が全くない。要するに慶喜は冷たくかつ人間的に魅力のない人だ!」と断じている。綱淵氏は果たして慶喜の政治家として置かれた条件を承知の上で自説を述べていたのであろうか?
 更に脱線するが、筆者は最近、歴史小説とは何か?と大いなる疑問を持つようになった。例えば、筆者は司馬遼太郎が嫌いではない。特に「燃えよ剣」は大好きで、台詞も暗記したほどである。これを26回シリーズでドラマ化した同名のテレビ時代劇も傑作であった。この中で箱館政府陸軍奉行の大鳥圭介が出てくる。彼は幕府陸軍のエリートではあるが、司馬氏の小説では、実戦経験がなく臆病で小心な男として扱い、無敵のヒーロー土方歳三の引き立て役に終始している。その極め付きは、大鳥が苦し紛れに箱館町民から税を取り立てようとして、土方が「止めとけ、悪名を残すだけだ」と言って、徴税を止めさせるくだりである。しかし、史実は逆で、真相は土方が徴税しようとしたのを大鳥が止めたようである。小説だ!といえばそれまでである。しかし、小説とはいえここまで事実をねじ曲げて良いのか?しかも司馬氏のように国民的人気作家が、という疑問を禁じ得ない。大鳥圭介の子孫の人達はこの小説を読んでどう思うか?決して愉快ではなかろう。 
 歴史小説を書いて印税を受け取りそれを生業とする者は歴史に対して謙虚であるべきではなかろうか。す既に亡くなり、何ら反論できない偉大な先達を自分の書き物の材料にする小説家はせめて死者に敬意を払うべきであろう。<況んや評伝においてをや!>である。
 ちなみに大鳥圭介はのち罪を許され、清国全権公使さらに学習院長を務め、天寿を全うしている。実に立派な生涯であった。
 筆者は最近「徳川昭武幕末滞欧日記」という第一次資料を入手した。慶喜の弟徳川昭武がパリ万博に将軍名代としてフランスに渡った時の日記である。慶喜はフランスで昭武に欧州の最新知識を学ばせ、後の日本近代化の人材として役立てようとしたのであろうか。この日記では慶喜の昭武に宛てた書簡が二通披露されている。そこには異国にいる弟を思い遣る兄の暖かい心情が簡潔で格調高い文体から滲み出ていて、筆者は思わず嬉しくなった。又、晩年の慶喜の写真が多く載っている「微笑む慶喜」という最近出版された書物では、やや寂しげだが、大勢の家族・一族に囲まれて、安堵の表情をした慶喜を見ることが出来る。第1次資料確認の重要性を認識することしきりである。 
 
 三、討幕運動が急速に激化した理由
 しかし、何故このような短期間に急速に討幕運動が盛んになったのであろうか?やはり、以前にも述べたように、慶喜が慶応3年5月23日に兵庫開港の勅許を取得し、同年6月7日、「慶応3年12月7日兵庫開港・大阪開市を行う」と国内に布告した時がターニングポイントではなかったか。
 つまり、一旦兵庫開港がなされ、貿易が順調に始まってしまえば、諸外国は英国も含めて日本の内乱を絶対に望まない。貿易の邪魔になるからである。しかも、姑息な密貿易なども影を潜め、その必要もなくなる。幕府は大いに潤い、反面、西国諸藩は、(幕府が糾合した鴻池らの大阪商人に多額の借金があるから)全く頭が上がらなくなる。サトウが言うように、革命の機会は永久に去るのである。要するに財政面で体勢を立て直した幕府は、幕藩体制を廃止して郡県制を敷き、徳川の手による全国統一に乗り出すであろうことが目に見えてくる。
 以前にも述べたが、3年もすれば兵庫開港による幕府の関税収入は軽く100万両を超えることになる。当時世界最高水準の開陽丸の建造費用は約50万ドルであり、為替レートで換算すると375000両となる。極端な話、幕府は、十分な武器弾薬を満載した開陽丸級の戦艦を毎年2隻づつ就役させることが可能となる。これでは幕府と反幕勢力の軍事的優劣は勝負にならなくなる。こうした結論は長年幕府と敵対関係にあった長州には我慢が出来ないことであり、討幕が至上命題の西郷らにも到底容認することが出来なかったのである。要するに慶応3年6月7日の段階に至り、日本近代化のヘゲモニー争いがいよいよ軍事衝突の危機に至る状況まで高まったのであった。
 しかし何故薩摩・長州はこれほどまでに討幕に拘わったのであろうか?彼らが近代を目指し、徳川側が因循姑息であったなどというのは後世の虚構に過ぎないことは明らかである。そもそも薩摩・長州の手による近代化が優れ、徳川に手による近代化が劣っているなどとは当時の識者も全然考えていなかったはずだ。では彼らが武力を使って血を流してまでも討幕に固執したのは何故であろうか?先述したように、このままではじり貧となることが明らかなので打って出た、と言えばそれまでだが、やはり彼らの討幕心情の根底には関ヶ原以来の恨みがその底流にあったのではなかろうか?
 長州藩における正月の儀式は、家老が「殿、徳川討伐の準備が出来ておりまする」と言上し、毛利公が「まだその時期でない」と述べることから始まったという。つまり関ヶ原の恨みが250年続いていたのである。中国地方150万石の所領を誇った長州藩関ヶ原の敗戦で防長37万石に封じられたのであるからその不満は尋常でなかったのかもしれない。名門薩摩藩にしても、その心情は同様で、「徳川何するものぞ!」の気概に溢れていたのではないか。江戸時代の幕藩体制は基本的に1615年武家諸法度が制定された段階で確定・固定し、そのまま幕末へ続くから、藩士の心情もその時点で固定され幕末までそのまま引き継がれていても可笑しくはない。
 しかし、だからといって「流血の討幕に大義名分があるのか?」と正面から問われれば、筆者はその妥当な回答を見出しにくい。
四、討幕運動の本格化
 慶応3年9月に入ると芸州(広島浅野氏)も討幕派に加わり、20日には薩摩・長州・芸州の三藩は出兵の盟約を交わし、いよいよ挙兵討幕が実行に移される段階にまでなっていた。しかしその後、三藩とも複雑な藩内の事情もあって実行は延期されていた。
 あまり目立たない存在だがここで芸州について一言。
第二次長州征伐の際、幕府代表の小笠原長行は幕府との仲介役であった芸州(広島藩)のメンツを丸潰しにするなど数々の失態を犯した。この時の幕府に対する芸州の不信感は相当なものがあった。又、地政学的に長州の隣藩である芸州は長州に同情的であったし、何よりも長州と事を構えたくなかったのではあるまいか。これらが芸州をして討幕派に参加した理由ではあるまいか。
 ついでながら、小笠原という人は、外交にはかなりの業績を上げ、対外交渉に関する慶喜の信任も厚かったが、長州征伐では手酷い失策をしてしまったのである。
 話を元に戻そう。こうした膠着状況を打破したのがいわゆる討幕の密勅である。10月に入り、薩摩大久保一蔵、長州品川弥二郎及び岩倉具視は討幕・王政復古を目指し諸藩を糾合するため、討幕派の公家中山忠能、中御門経之、正親町三条実愛の協力を得て、岩倉の腹心で国学者の玉松操にいわゆる討幕の密勅を作成させたのであった。この文書は、上記三人の署名しかなく、天皇の裁可もなければ摂政の承認もない偽勅そのものであったが、これが10月13日薩摩・同14日長州に交付されるに及び、薩摩と長州の出兵は半ば正当化されることになり、ここに討幕派は勇躍軍事行動を開始することになったのである。ただこの密勅が薩摩・長州に手渡されたまさに10月14日、慶喜大政奉還の上表書を朝廷に提出したので、討幕派は軍事力行使を見合わさざるを得なくなり、討幕計画の練り直しをせざるを得なくなったのであった。
 それにしても、政権転覆(討幕)という目的のために、天皇詔書を偽造するというのだから前代未聞、日本史上空前の文書偽造事件と言わざるを得ない。今日世上を騒がせている某省庁の文書改ざん問題などはこの偽勅と比べたら屁のようなものである。大久保らは王政復古を標傍し、事あるごとに自らを勤皇無二の雄藩などと表現しているが、果たして彼らに真の天皇への尊敬の念があったのであろうか?しかもこの偽書は激烈というかエゲツない。「詔す」から始まり、「賊臣慶喜を殄戮せよ!」と書いてある。いくら何でも「賊臣」はあり得ない。まして「殄戮」とはひどい表現だ。浅学の筆者には聞いたこともない古語だが、広辞苑によれば「殺し尽くせ!」ということだ。孝明天皇が聞いたら失神する程驚いたのではないか?討幕派の陰険かつ無法な討幕感情の露出そのもののようである。
 一国の体制が変わるとき巨大なエネルギー(およびそれに付随した陰謀)が働くのは古今東西変わらぬ現象だが、このような稀代の偽書を生み出すのは世界史上希ではなかろうか。 目的のためには手段を選ばない人には敵わないというべきか。
 
五、将軍慶喜の対応
 このような急速な討幕勢力の結集は慶喜にとって想定外であったと推測される。この時期幕府は優れた諜報網を保持していて反幕勢力の動向を逐一把握していた。そうすると慶喜は何よりも土佐の動向が気になった。なぜなら、仮に土佐が討幕に動けば、行き掛かり上、越前も討幕に傾き、尾張・肥後も危ない。こんなに多数の藩が討幕側に回れば、仮に軍事衝突となって幕府が勝利したとしても、現政権側の幕府の痛手は大きく、その政策を完遂することが困難になることは明白である。何よりも、下手をすると内戦になりかねない。当時、欧州列強がその帝国主義の触手をアジア全域に伸ばしている状況において、慶喜は内乱だけは何としても回避したかったのではなかろうか?
 慶応2年12月9日の将軍就任以来、慶喜は一貫して従来の親仏幕権派の路線を踏襲拡大し、徳川絶対主義の路線をひた走ってきた。それは具体的には、内閣六局制の導入、陸軍の充実(具体的には、幕府歩兵の整備)、兵庫開港宣言、更に対仏600万ドルの借款等であった。 しかし、これらの政策の成果が出る前に討幕勢力の結集が進みそうな状況になってきたのである。また、対仏600万ドルの借款が不調に終わったことも慶喜にとっては大きな誤算かつ痛手であった。
 こうした状況の中で、慶喜は内乱防止のために大きな判断を迫られる状況に直面したのである。具体的には先述した土佐藩の動向である。当時の土佐藩は藩論が未だ定まらず、右派、左派、中間派に分かれていた。藩主山内容堂慶喜に同情的で公議政体論者であったが、左派は坂本龍馬等と志を同じくして討幕派であった。中間派で一代のオポチュニス後藤象二郎は、内乱勃発を憂い、容堂に働きかけて慶喜大政奉還の上申書を提出するよう説得した。先述したように、薩摩が政局を牛耳ることを快しとしない山内容堂慶喜大政奉還を具申し、薩摩の討幕の大義を摘み取るべく周旋に動いた。
 慶喜はこの容堂の具申を絶好の好機と捉え、まさに幕府の命運を掛けて大政奉還に踏み切ったのであった。 慶喜大政奉還の挙行によって、幕末政局は一気に流動化し、日本近代化のヘゲモニー争いは、新たな局面を迎えるに至ったのであった。
 執筆後記: 
 一昨年8月に10号を執筆してから随分間隔が空いた。大政奉還直前の幕府と薩摩との緊迫した鍔競り合いはなかなか記述しづらいものがある。資料の確認も難渋な作業だ。この間、私的事情もあって着手が遅れてしまった。出版社に原稿提出の期限を迫られる作家等はかなり辛い職業であるとつくづく思う。
 この企画は大政奉還から始まったので、二年掛けてやっと大政奉還に戻ってきたわけである。この後の予定だが、大政奉還およびその後の政局、王政復古のクーデター、そして鳥羽伏見の敗戦と慶喜の没落を取り上げて一応終わる。慶喜の余生についても少しだけ触れてみたい。