最後の将軍徳川慶喜の苦悩 12 大政奉還と前後の政局

初めに
 慶応3年10月14日から翌慶応4年1月3日までのわずか3ヶ月足らずの期間に日本の歴史の帰趨を決定する事件が3回生起している。
 まず大政奉還次いで王政復古のクーデター、最後に鳥羽伏見の戦いである。この三大事件を経て日本は幕藩体制から脱皮し、近代国家として再出発することになったのである。
 この三大事件に対する歴史家の評価は様々である。その原因は、神聖・不可侵で統治権の総攬者として天皇が君臨した明治から昭和の終戦までの日本をどう評価するかによってこの三大事件に対する歴史家の評価もまた異なるからである。
 「明治維新の国際的環境」の著者石井博士は、神権天皇制の日本は、明治以降10年毎に戦争を行ない、膨張政策をとり続けたが、それは太平洋戦争の敗戦によって破綻した、という批判的評価を下している。そして神権天皇制のアンチテーゼとしての日本近代化のモデルとして、大君制による徳川絶対主義を持ち出し、慶喜はこの実現のために行動した、と断じている。この命題に引きずられているのか、博士はこの三大事件全てに関わる慶喜の行動を、彼が大君制を創設しようとして行なったという前提で論じており、かなりの無理を感じざるを得ない。松浦玲氏は、神権天皇制には否定的だが、仮に慶喜の大君制が成立したとしてもそれが明治政府より素晴らしいものになったという保証はないから慶喜に肩を持つ必要は無いとクールに論じてはいるが、神権天皇制にならなかったであろう慶喜政権の方がその一点だけでもマシではなかったか、と残念がっている。松浦氏はこの三大事件について非常に客観的に論じていて大いに参考になる。
 反面、明治維新から始まる日本政府の政策を肯定的に評価する歴史家は、薩長が敢行した王政復古のクーデターについての考察が実に甘い。それはこのクーデター政権(政府と呼べる代物ではない)が後の明治政府の母体であるという前提に立った場合、「クーデター政権を否定すると明治政府の拠って立つ根拠がなくなってしまう、明治政府の正当性を主張するためにはクーデター政権(すなわち王政復古)を否定し難い」と考えるからではなかろうか。 
 筆者は、自己の方程式に歴史の事実を当て嵌める手法や後世の結果から過去の事実を評価する手法はいずれも妥当でないと考える。歴史の偉大な当事者達は将来を見据えつつも、刻一刻と変化する状況の中で自己の進むべき道を決断しているのであり、後世の結果から遡って偉大な先達の行動を批評することは、まさに後講釈(アトコウシャク)との誹りを免れまい。
 最近入手した高橋秀直教授の論文は出色で、今までの幕末維新の著作を時代遅れとする程衝撃的だ。彼は幕末の政治行動の根拠を天皇原理と公議原理に基づくとしている。これは彼がそのような原理主義を振りかざすのではなく、当時の思想がそうだったというのである。なるほど、幕末に上昇した尊皇思想に基づき、日本は天皇中心の国家たるべきだという思想が一方にある。これは具体的な政権構想ではなく、とにかく天皇のもとで政治を行なおうという観念論であった。一方、公議政体論を核とした公議政体原理は、具体的には議政院(分かりやすくいえば国会ともいうべき議会)を中心として政治を行おうというもので、素朴ながら統治機構の構築を論じたものであった。此の二つの思想は矛盾するものではなく、天皇のもと、公議政体論を実行し議政院を設立しようというのが当時の世論であり正論であった。 
 幕末の日本は西欧のような市民階級が育っていた訳ではないので、いわゆる「人民政府」のようなものは構想される筈が無く、公議政体論が唯一の正論であった。故に、高橋教授は当時の政治家の行動の根拠は天皇原理と公義原理であった、と言うのである。まさに正鵠を射た歴史解釈と言い得るのではないか。
 筆者は此の論文には大いに感銘を受け、王政復古に関する長年の疑問が氷解するのを感じた。高橋教授はその後急逝されたようで、誠に惜しい人を亡くしたものだ。ご健在ならば、維新史を塗り替える業績が期待されたであろう。
 いずれにしても、筆者は虚心坦懐にこの三ヶ月間の徳川慶喜の苦悩に満ちた行動を、「慶喜の身の回り掛かり」にでもなったつもりで追いかけてみたい。
一、薩摩討幕派と土佐公議政体派の対抗
 慶応3年5月23日、慶喜による兵庫開港が決まると西郷・大久保らを中心とする在京薩摩藩士は、その翌日から武力討幕の準備に取りかかった。
 西郷ら薩摩藩士は「元祖討幕派」ともいうべき長州との連携を深めつつ、一方では6月22日の時点で早くも土佐の後藤象二郎大政奉還建白を行なうことを目的とする薩土盟約を結んだ。彼らは、慶喜は絶対に大政奉還が出来ない!と踏んでいたので、慶喜がそれを拒否することを口実にして土佐を武力討幕に引き込みたかったのである。
 他方、山内容堂と入れ替わるように6月13日入京した後藤は、薩摩の二条城襲撃説などが飛び交う中、内乱の発生を憂い、公義政体論を引っ提げて薩摩を抱き込み、日本を平和裡に改革しようとしたのである。彼は慶喜大政奉還する可能性に賭けていた。
薩摩にしても、公議政体論以外の政権構想を持っていた訳ではないから、後藤がこの正論を持ち出せば正面から否定することは出来なかったのである。
 こうして後藤の大政奉還建白運動と西郷らの武力討幕運動は並行・対抗して進行することとなるのであった。
6月27日、後藤は芸州の辻将曹と会い、芸藩を薩土盟約に引き入れることに成功した。
7月2日、京の料亭で後藤の送別会が行われ、薩摩からは大久保・小松が出席した。
後藤は「容堂に進言し、藩論を大政奉還論に統一した上、十日ほどしたら二大隊を引き連れ上京する」と約した。
7月3日、後藤、幕府永井尚志に大政奉還を入説。
7月4日、後藤、京を発つ。島津久光伊達宗城は容堂への書簡を託した。
8月14日、大久保、芸州の辻に会い、芸藩の武力討幕への参加を求め、賛同を得る。芸藩も、武力討幕か大政奉還かで揺れ悩んでいたのである。 
9月6日、大久保の藩兵増派要請に応じて薩摩藩兵1000余名が大坂に到着。
9月7日及び9日 予定より大幅に遅れて帰京した後藤は、西郷・大久保らに、大政奉還の建白書を提出するから挙兵を待ってほしいと申し入れ、拒否される。
 後藤はイカルス号事件に忙殺され、またあくまで公義政体論を議論で主張すべきだと言う容堂の出兵拒否によって藩兵を引き連れて来ることが出来なかった。この間、春嶽・宗城・久光が京を去ったこともあり、大政奉還運動の先行きの不安材料となった。
 西郷は、兵を連れてこなかった後藤に対し、土佐との盟約は返上すると怒ったものの土佐を完全に敵に回す覚悟は無かった。そこで「土佐が大政奉還の建白をすると幕府が討幕派の武装蜂起を警戒するので、蜂起の前日に建白するように!」などと後藤に釘を刺すほどであった。
9月16日、大久保は長州に赴き、山口にて木戸・広沢らと出兵盟約を結ぶ。
9月20日、長州・芸州間でも出兵の盟約が出来、薩・長・芸三藩の挙兵討幕が実行に移される段階になった(第一次三藩出兵計画)。
 この計画では9月末までに軍艦で大坂湾に集結し、京都でクーデターを行ない、会津藩邸を急襲し、堀川の幕府屯所を焼き討ちし、大坂城を攻撃、更に大坂湾の幕府軍艦を破砕し、奪玉するという内容であった。動員する兵力は、在京薩摩藩兵及び鹿児島から動員される薩摩藩兵が三田尻に寄って長州藩兵を乗せ、海路一気に大坂に上陸するという案である。 決行の時期を9月末としたのは後藤の大政奉還建白によって、薩摩の藩論が討幕反対に傾くのを恐れたからである。この計画は実行寸前まで行ったのであるが、後藤の猛烈な巻き返し(後藤は9月27日、一番弱い芸州を説得して一旦は武装蜂起から引き離した)に加え、薩摩本国でも自重論が根強く、長州の突き上げがあったものの徒(いたずら)に時を重ね、幕府が警戒し始めて、奇襲の時期を失してしまったのである。
 この計画では天皇を芸州に奪う予定であった(長州のいう「奪玉」)ので、もし実行されれば内乱に発展する危険が十分あった。西郷らは内乱の危険を冒してまで討幕したかったのであろうか。しかもクーデター後の政権構想など全くなかったので無責任と言われても仕方が無いのではなかろうか。 
 ちなみに長州の木戸は9月初旬、芝居・狂言・舞台などと盛んに比喩し、「我が方が玉を抱え奉る」と奪玉の重要性を訴えているが、そこには日頃彼らが高唱する尊皇の心情などは微塵も見えてこない。
 9月28日(10月2日)、小松帯刀が後藤に、「土佐の建白に反対せず」、と通告。
 第一次出兵計画では9月末または10月初めに兵船が大坂に到着する見込みとなったので、もはや建白は挙兵の邪魔にならないと判断したのであろうか?
10月6日、ようやく三田尻に薩摩の軍艦が到着、しかも、10月9日、薩摩・長州の国元が上方への派兵を中止したとの情報が在京薩摩藩士らに入る。
 これらの番狂わせにより、挙兵の時期(奇襲・奪玉)を失してしまい、第一次三藩出兵計画は変更を迫られることとなった(長州の言ういわゆる「失機改図」)。
 西郷・大久保らは戦略の練り直しを迫られ、藩論統一の要として薩摩藩島津忠義の率兵上洛を求める方向に転換した。その切り札として浮上したのが次項で述べるいわゆる討幕の密勅であった。
二、大政奉還に対する薩摩の対応と討幕の密勅
 10月14日、慶喜は運命の大政奉還に踏み切った。しかしこのとき薩摩は怯まなかった。それは10月6日、大久保が岩倉具視と初めて会う機会を持ったからである。ここで岩倉は王政復古後の仮政府の構想を打ち明け、更に討幕の密勅を薩摩及び長州に手交することを決めたのである。それまで公家の討幕派は正親町三条実愛中山忠能・中御門経之であった。薩摩は彼らと連絡を取り合ってはいたが、クーデター後の明快な仮政府構想を持たない、いわば無責任計画であった。しかしここに岩倉が登場し、大久保と手を結ぶに及び、より具体的なクーデター計画を練り上げることとなったのである。尚、武装蜂起計画の内容はほとんど第一次と同じである。しかし決定的な違いは大政奉還を横目に見て、彼らは討幕の密勅という天皇の偽命令を用いることによって、薩摩本国の藩論を討幕一本にまとめる方針に転換したのである。長州は元々討幕一本槍だから、薩摩と手を組むことは容易かった。要するに、この密勅は薩摩の藩論を討幕で統一するについて極めて大きな役割を果たしたといえるのである。
 今その偽勅全文を掲載してみよう。
  詔す。源慶喜、累世の威を藉り、閤族の強を恃み、みだりに忠良を賊害し、しばしば王命を棄絶し、ついに先帝の詔を矯めて懼れず、万民を溝壑に陥れて顧みず、罪悪の至る所、神州まさに傾覆すべからん。朕、今、民の父母なり。この賊にして討たずんば、何を以ってか、上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讎に報いんや。これ、朕の憂憤の在る所、諒闇にして顧みざるは、万やむをえざる也。汝、よろしく朕の心を体し、賊臣慶喜を殄戮し、以って速やかに回天の偉勲を奏し、しこうして生霊を山嶽の安きに措くべし。此れ朕の願、敢えてあるいは懈ることなかれ。
 ここには読む者を納得させる討幕の具体的理由や合理的根拠が全くない。それどころか天皇の命令で徳川慶喜を殺せ!と命じているのである。恐れ入ると言うほかは無い。
 しかし、天皇の命令であってもそれは万民を納得させるものでなければならない筈であろう。この密勅を何度読んでも、慶喜を討たねばならない大義名分は見いだせないどころかエゲツなさばかりが目立つ。
 以前、大久保は第二次長州征伐に反対し、合理性の無い勅許は勅許にあらず、従う必要なし!と公言し、朝廷これ限り!と言い放っている。その同じ大久保が今度は全く合理性のない偽勅を岩倉と共謀して出させている。まことに不可解な男と言うほかない。
 更に言えば、幕府に多少の失政があったとしても、フランス革命のようにアンシャンレジームに国民が悩まされていた訳でも、国民が餓死していた訳でもなくまた、慶喜が罪無き人民を大弾圧していた訳でも無い。
 要するに、幕府派と薩摩派は日本近代化のヘゲモニーを争っていただけなのである。内乱の危険を冒し、しかも偽勅を作ってまでも武装蜂起しなければならない大義があったとは言い難いのではなかろうか。
 しかし 、五、で述べるように薩摩は結局天皇の権威を利用する道を選んだのである。
 つまり、高橋教授のいう、幕末日本の政治原理は公義政体原理と天皇原理の二本だったのであるが、薩摩が無理を重ねて天皇原理を選択したことによって、後藤の公義原理は一歩後退せざるを得なくなった。
 しかし公議原理はこのまま消えてしまったのでは無い。大政奉還後のクーデター計画の変更を薩摩は迫られ、御所を占拠することは実行したが、その他の計画は一旦止めざるを得なくなったからである。後藤らの公義政体論者はこの理論を拠り所にクーデター政権に加わることになるのは後述する。
 
三、慶応3年10月14日、徳川慶喜大政奉還の上表を朝廷に提出す
1、 こうした状況の中、慶喜は決然と大政奉還を決行するのであるが、そこに至る過程を少し整理してみたい。
9月20日、永井から後藤に、建白書を提出するように催促がなされた。
10月3日、土佐藩側から、大政奉還を求める建白書が幕府に提出された。
10月11日、大政奉還の上表完成。
10月12日、上表文を諮問案の形にして二条城にて幕府諸有司に回覧し、慶喜自ら 説明し、意見を求めた。
 10月13日、在京40藩の重臣を二条城に集め、前日と同じ説明をした。
 尚、後藤、小松ら六名は別室に呼ばれ、それぞれ意見を求められた。本来彼らは陪臣であり、将軍への拝謁権がない。しかし慶喜は特別これを許可し、大政奉還の実を上げようとしたのであろう。このときの後藤のおびただしい汗はその後の語り草になった。慶喜の圧倒的な存在感に参ったのではなかろうか。
10月14日、慶喜、朝廷に大政奉還の上表を提出。
以上が大まかな日程であった。    
2、しかし、この大政奉還については諸説があり、松浦玲氏も、(その真意を推測するのが)なかなか難しい、と述べている。家近教授は、慶喜がその政権を全面的に朝廷に返還するつもりであったなどと現実離れした議論を展開し、筆者は白けるばかりである。反面石井博士はこの段階において早くも慶喜が大君制を創設し、その権力を強化するために大政奉還を行なったと断じている。 あれこれ言うよりもここに大政奉還の上表全文を掲載してみたい。読みやすいように訓読にした。
  十月十四日徳川慶喜奏聞 
 臣慶喜、謹んで皇国時運の沿革を考へ候に、昔、王綱紐を解き、相家権を執り、保平の乱、政権武門に移りてより、祖宗に至り、更に寵卷を蒙り、弐百余年子孫相承、臣其の職を奉ずと雖も、政刑當を失ふこと少なからず、今日の形勢に至り候も、畢竟、薄徳の致す所、慚懼に堪へず候。況んや當今、外国の交際日に盛んになるにより、愈々朝権一途に出で申さず候ひては、綱紀立ち難く候間、従来の舊習を改め、政権を朝廷に返し奉り、廣く天下の公議を盡し、聖断を仰ぎ、同心協力、共に皇国を保護仕り候得ば、必ず海外萬國と並び立つ可く候。臣慶喜、国家に盡くす所、是に過ぎずと存じ奉り候。去り乍ら、猶見込みの儀も之れ有り候得ば、申し聞く可き旨、諸侯へ相達し置き候。之に依りて此の段、謹んで奏聞仕り候。以上
 改めて読み直してまず感ずることはこの上表の格調の高さだ。10月11日永井が起草して慶喜が直接手を加えたというが、歴史に残る名文であり、何度読んでも感動すら覚えてしまう。
曰く
 日本の政治が天皇から藤原氏に移り、更に保元・平治の乱を経て武門に移り久しい。中でも徳川氏は250年の長きに亘って天皇の信頼を得て政権を保持してきたが、自身の失政も少なからずあり今日の形勢に至ったのはその薄徳からである。
 国際環境が変化し、政令二途から出るのは好ましくない。よって自分が政権を返上し、日本は天皇の元、挙国一致団結して政治を行なえば再び繁栄して世界に互していくことが出来る。自分はそのために貢献できるなら幸いこれに優ることはない。
 以上がその要旨である。ぜひ先に掲載した討幕の密勅と比較してもらいたい。やはり幕末の徳川幕府の官僚の教養は尋常でなかったのである。
3、この上表からはっきり分かることは「政権を返上する」と述べているだけでそれ以外は何も言っていない。
 慶喜は一体何をしようとしていたのであろうか?答えは明白である。 
 まず世論の喚起である。「返す」ということによって彼への評価は高まるであろう。討幕の名分も無くなってしまう。これが大きな狙いであったことは間違いない。つまり差し迫った内乱の回避だ。慶喜は7月25日大坂で、「干戈を動かさず国内の難局を突破し得るの自信あり」とロッシュに述べている。
 更に慶喜は6月以降の京都の不穏な情勢、具体的には水戸浪士の決起の噂などを憂い、騒擾行為の生起を心配していた。これは閣老板倉と所司代松平定敬が連名で江戸の老中に宛てた書簡で「上様は日々夜々御苦慮あらせらる」、「国家の危乱、眼前さし起こり候も計り難く」と心配し、慶喜が打開策を熟考しているとの内容の書簡であった。慶喜は何よりも大政奉還によって世の静謐化を狙っていたのではなかろうか。
 次は、というより本来の目的は公義政体論者への妥協である。要するに慶喜は土佐の建白書を受けて大政奉還したのである。土佐に迫られてよんどころなくやったのではないが、土佐の建白を受けてやったことも事実である。
 事実、永井は10月12日、後藤に土佐の建白を採用する旨通知している。だから土佐の建白書を見れば慶喜の意図が分かるのである。一言で言えば、議政院政治への移行を認めたのである。土佐のいう議政院とは要するに、天皇のもと、上下二院の議会を設け、諸事ここで重要事項を決定する、ということであり、当時の我が国の世論である公義政体論を具現化したものといえる。公議政体派の中心は松平春嶽山内容堂伊達宗城など有力大名で、更に島津久光も元来は公議政体論者であった。慶喜はこの公議政体論者に妥協することによって平和裡に日本の緩やかな改革を目指したのではなかろうか。
 何よりも慶喜自身、往事を語る昔夢会筆記で「容堂の建白出ずるに及び、そのうちに上院・下院の制を設くべしとあるを見てこれはいかにも良き考えなり、上院に公卿・諸大名、下院に諸藩士を選補して、公論によりて事を行わば・・・」と振り返っている。
 石井博士は大政奉還の直前、慶喜西周を召し、英国の制度を諮問していたことを根拠に、慶喜が大君制を目指していたことを強調している。確かに慶喜はその後開かれるであろう議政院において重要なポストを取得し、その後の政局を牽引していくことを意識していたであろう。しかし、公議政体論者に妥協して大政奉還に打って出たのである。従来の幕府より更に権限が強化された大君制が速やかに成立するとは思っていなかったのではあるまいか。慶喜は以前から自分に好意を寄せている有力大名で影響力の強い松平春嶽山内容堂らの路線に乗ってみたのである。久光の協力もひょっとしたら得られるのでは?と踏んだかもしれない。
4,ここで西周の具体案(憲法案)を載せてみよう。
 11月下旬、西は、慶喜側近の平山敬忠にこの憲法案を、「議題草案(制度腹稿)」として提出している。 その要旨は以下のとおりである。
まず、国政を政府の権・大名の権・朝廷の権の三つに分ける。
(イ)政府の権は、すなわち行政権であり、徳川家の当主が「大君」と称され、行政権の元首として、政府を大阪に設け、政府の官僚を置いて全国の政治を行う。官僚のうち「宰相」だけは「議政院」の選挙した三人のうちから大君が一人を任命し、他の官僚は大君が自由に任免できる。各藩領内の政治は、議政院で議決する法律に抵触しない範囲で各藩主に任せる。
(ロ)次に大名の権であるが、これは立法権である。上院は、1万石以上の大名で構成され、下院は各藩一人の藩士を選任する。議政院の権限は、法律及び予算の制定、外交・和戦など重要事項の協議である。
 ただ徳川氏は、その最大領地の所有並びに親藩譜代大名の支持を得て、比例代表のように上院議長に選出され、かつ下院の解散権を持つ。
(ハ)朝廷の権は、元号制定、叙爵権などほぼ儀礼的権威に限定されている。
 以上から分かるように、なるほど大君の権限が突出して強大だ。ここでは天皇は具体的権限がなく、むしろ現代の象徴天皇制に極めて近い。石井博士は神権天皇制への批判と反省からであろうか、この大君制の構想が実現していたら!との思いが人一倍強いのではなかろうか。
 事実、石井博士の説には一理も二理もある。なぜなら、公議政体論には行政権の観点が全く欠落している。これは当然と言えば当然のことで、彼らはそもそも「藩」の存在を前提とし、ともかく議政院を設置しようというだけのことなのである。だから行政権の行方について論じることはそもそも藩に対する越権行為かつ内政干渉となる。公議政体論が急速に支持されたのは、藩に対する干渉がなくしかも藩が政治参加できるという藩の側から見れば良いことずくめであったからであろう。慶喜は自己がそもそも最大藩主であり、しかも慶喜支持勢力が多いことを考え、公議政体論には全く欠けている行政権の構築について一歩進んだ憲法案の提示を来たるべき議政院にて行ない、一気に政治の安定化を図ろうとしたと推測することも出来なくはない。
 筆者は、慶喜がこの大君制の実現にどれほどの意欲と自信を持っていたのかは分からない。しかし11月27日、永井は、春嶽の近臣中根雪江に「日本はしまいには郡県制度になるとの意向を上様は持っておられる」と語っている。西は三月から慶喜奥右筆に就任しており、怜悧な慶喜は既にこの段階で大君制の構想を温めていたのかもしれない。 すると、慶喜はやはり大君制を目指すことによって、「最後の将軍にして最初の立憲開明君主たらん」としたのであろうか?
 余談だが、慶喜はこの頃から西にフランス語を習い始めた。これは洋書を読みたいという慶喜自らの希望によるもので、公務極めて多忙な中で、彼の知識欲が極めて旺盛なことを示すものである。森鴎外(西の甥)がその「西周伝」で当時の様子を簡潔に伝えている。曰く
 「径に仏蘭西の二十六文字及び其の発声法を録してこれを上る。此より日ごとに出でて教ふ。未牌より申牌に至る。慶喜、記性人に過ぐ。数日にして能く読み、能く書し、文字より単語に及び、単語よりして連語に及ぶ」
しかし、七月下旬になると、「当時慶喜の朝観、暮におよびて退出するを常とす。一日参内夜を徹す。暁に退き、周を召して仏蘭西語を講ぜしむ。忽ち歎じて曰く、学と政とは竟に兼ね行うべからざるか。弧、今朝一句を誦ぜず、と。遂に仏蘭西語を廃す」
仮に彼は外交官になっても超一級であった推測される。やはり、慶喜という人は司馬遼太郎の言葉を借りれば、百才を持って生まれた男なのかもしれない。
5,話を戻そう。慶喜はすぐ政権を返上するなどとは微塵も考えていなかった。そもそもそんなことが出来るわけが無い。幕藩体制という限られた中であっても幕府は紛れもなく統治権の主体であった。それは幕領での治安維持、徴税、訴訟取扱、インフラの維持、若干の福祉、衰えたとはいえ諸藩への命令権、そして何よりも外交権の把握であった。
 これらの権限は「返す!」と言って済む問題ではない。借金の返済とは訳が違うのだ。朝廷には行政権を行使する組織が無い。慶喜はそんなことは百も承知で、これを投げ出したら無責任そのものではないか。だから慶喜は、大政奉還の上表では朝廷が日本の統治の主体だ、と言ったまでである。その証拠に征夷大将軍の辞表を提出したのは少し後である。この官職は当時の公式的な日本政府たる根拠であったから、政府を投げ出すとは言っていないのである。慶喜大政奉還のすぐ後、内政について数箇条を列挙し、議政院が開設されるまではこれまで通りでよいか念押ししている。 朝廷は10月26日、「外交・内政共に、平常の業務はこれまで通り」という内容の返事をすると同時に、将軍職の辞表を却下している。結局、慶喜は議政院が開設されるまで実質的な日本政府代表であり続けることになったのである。
 こうして大政奉還は大きな波紋を呼び、彼の名声は一気に高まったのである。
 パークスはこれを冷静に評価し、自己の権力を犠牲にして日本を平和に導く行為であると絶賛している。そして他の有力大名にも慶喜に習うべきだと述べている。
 パークスは、慶喜がその権力を犠牲にしてまで内乱を防止し、公議政体論者に妥協して日本を近代化に導こうとしている姿勢に深く感銘したのである。パークスが日本の内乱を望まなかったのは明らかだ。
6、しかしこの決断には、守旧派が猛烈に反対してきた。 まず江戸の幕閣である。
 10月17日に江戸城で大評定があり、出た結論は、大政奉還反対論であった。京都と江戸で離れていることもあり、慶喜は幕閣に根回しをしていなかった。何よりも守旧派は元々慶喜嫌いが多い。 革新官僚の小栗はその日記に「去ル十三日世界形勢を御洞察候処、政令一途に不出候ハバ、万国之御交際ニモ拘リ候に付、政権を御所へ御帰被候旨被仰上候処・・・」と事務的だが、極めて的確に記している。
 11月11日、老中格(陸軍総裁)松平乗謨・同稲葉正巳(海軍総裁)が大政奉還の真意を糺すため上京してきたが、慶喜の説得に納得したのか、その親諭書を携えて江戸に戻った。しかし幕府は、陸軍奉行石川総管が歩・騎・砲兵三兵を引率して軍艦富士山丸で上京してきた。
 更に何よりも、慶喜の両翼たるべき会津藩桑名藩の反発は凄まじく、大政奉還はことごとく薩摩の陰謀と断じ、薩摩藩邸攻撃も辞さぬ勢いを示していた。また親藩譜代大名に限らず外様大名の間でも大政奉還に対する反発が大きかった。 慶喜はこれらに対し、一々説得し、自分の行動が正しかったことを縷々述べて微動だにしなかった。
 しかし、慶喜の真意を理解するものは極端に少数で、側近の永井他数名という状況であった。閣老の板倉も古い幕府に未練があり、謀臣の梅沢孫太郎すらも慶喜の真意を理解できなかった。皮肉なことだが、敵方討幕派の方が、慶喜の真意を理解していたのではなかろうか。
 四、大政奉還後の公議政体派の活動とその挫折
 慶喜大政奉還により、史上初の議政院の開設が日程に上った。しかし参集を命じられた大名達は思うように集まらなかった。朝廷が大名に上京を命じたのは10月21日であったが、出足が思わしくなく再度10月25日に上京を命じた。その期限は11月25日であった。しかし上京してきた諸侯は16藩のみで、会議開催の見込みが立たなかった。大多数の諸侯は、政争に巻き込まれたくなかったのであろう。いずれも日和見を決め込み、上京を渋った 。
 公議政体論は確かに当時の正論そのものであった。しかし正論だけでは政治は動かないのも現実であった。又、帰藩した薩摩の小松が京に戻らなかったことも後藤の焦りを深めた。小松は武力討幕派と一線を画し、半ば公議政体派であった。しかし薩摩の国元で討幕一色になったとき彼は居場所がなくなったのであろう。足の痛みを理由に帰京してこなかったのである。後藤はここに至り、在京の諸藩主だけでも議政院を開設した方が良いと考え、行動を開始した。しかし彼は有力公家への工作に手抜かりがあった。朝廷の下、議政院を開くのだから、公家側の同調者が是非必要であったが、彼はそこには大きなパイプが無かった。これは大久保・岩倉のコンビに比べて大きなハンデとなった。徒に時を移すうちに西郷らのクーデター側が主導権を握ることになるのである。
五、西郷らの第二次クーデター計画の推移とその変更   
 ここに討幕派のクーデターに至るまでの行動を少し追ってみたい。
慶応3年
10月6日 岩倉と大久保初めて会談。王政復古を画策。太政官職制案を協議。
10月17日 薩摩小松・大久保・西郷、長州広沢・福田・品川それぞれ討幕の密勅を携えて帰藩。
10月27日、長州藩主毛利定広と安芸藩主浅野長勲が新湊で会見。安芸藩、出兵に同意。
11月13日、島津忠義、軍艦にて鹿児島を出発。藩兵3000名を満載。
11月16日、帰京した大久保は早速岩倉と会談。
11月18日、島津忠義と毛利定広の両藩主が三田尻で第二次出兵同盟を結び、芸州がこれに加わる。
11月25日、長州1200名出発。
11月23日、島津忠義兵3000名を率いて上京。
11月28日、芸州藩主浅野長勲藩兵300名を引き連れて入京。
11月29日、長州藩兵800名が西宮に布陣。
12月1日、西郷・大久保、岩倉らがクーデター計画を決定。
12月2日、西郷・大久保より後藤にクーデターの計画が伝えられる。決行の日を12月8日にしたいと告げた。
 以上、西郷・大久保らは伝家の宝刀、討幕の密勅を携えて帰藩し、精力的に久光らを説得し、薩摩藩を完全に討幕一色に統一することに成功した。
 彼らは当初、京を制圧し、幕兵、会津藩兵らの屯所を襲撃し、大坂城を焼き討ちする計画であった。しかし、京に進出すると、大政奉還を挙行した慶喜の名声が一気に上がり、又、土佐、越前、伊予を中心とする公議政体派の有力大名も議政院政治の開設に向かって運動していた。ここで薩摩はクーデター計画をそのまま実行することは、有力大名の支持を出られないと判断し、クーデター計画の変更を迫られることとなったのである。すなわち、幕府側への襲撃を断念し、御所制圧のみを実行することになったのである。
 しかし、この時期の慶喜の行動には分からないことが多い。なぜなら、大政奉還後の 議政院の開設に何ら積極的な手を打っていないからである。慶喜が積極的に議政院開設に根回しをしていたら状況はもっと違った展開になったと考える。何故それをしなかったのか。大政奉還に反対する幕臣達の説得に追われていたからか、あるいは将軍就任の際、周旋運動をやり、これが不評であったので下手に動いてあらぬ疑いを掛けられるより何もしない方が得策と考えたのか、あるいは既に原市之進この世に無く、彼の手足となって働くものがいなかったのか、そのあたりは筆者には分からない。
 尚、クーデターのタイムリミットは12月7日前後であった。これはまさに兵庫開港の期日である。欧米列強は兵庫開港による貿易開始で賑わう京阪地方が内乱になることには絶対反対であった。この意味で日本国内の政局そのものが欧米列強の思惑と政策に大きく影響されていたのである。
 
六、小括として大政奉還の歴史的意味
 では慶喜大政奉還はその後の歴史にいかなる影響を与えたのであろうか?
まず大政奉還によって、日本初の議政院の開設がいよいよ日程に上った。
これは画期的なことであった。日本人が平和裡に自発的に統治方法を変更する初めての試みであった。この時点で公議政体派の政治的立場が強化された。公論に基づくものだからこれには表だって文句を言うことは誰も不可能なのだ。
 また大政奉還によって自己の権力を犠牲にしてまで日本を平和裡に近代化しようとした徳川慶喜の名声も一気に高まったのである。
 しかし政治とは儘ならぬもので、結局、議政院は開設されないまま、薩摩が王政復古のクーデターを敢行してしまったことは何度も述べた。しかし薩摩も正論を展開する公議政体派の勢力を無視することも敵に回すこともさすがに出来なかった、というより、それが出来る状況ではなかったのである。
 先述したとおり、薩摩のクーデター計画は大幅な変更を余儀なくされ、当初の御所制圧、幕府主要機関への襲撃というスケジュールの内、前者のみを実行することになったのである。
 筆者は何故公議政体派の土佐、越前、尾張がクーデター政権に参加したのか長年分からないままであった。あまたの歴史書の解説を読んでも全然納得できなかった。しかし本号で紹介した高橋教授の論文でその疑問が氷解した。要するに公議政体派の勢力を無視できなかったクーデター政権に参加することによって、自らの政治的主張を貫くと共に、併せて徳川方との妥協を求めようとしたのであろう。
 またこれも当然の疑問だが、筆者は春嶽からクーデター計画を数日前に知らされていた慶喜が何故これを阻止しなかったのか全く理解できなかった。慶喜がこのときから既に機能不全に陥っていたなどと論ずる無責任な書物も散見する。仮に薩摩が当初のクーデター計画をそのまま実行しようとするなら、慶喜も決然と鎮圧に向かった筈である。しかし襲撃計画を止め、御所制圧だけを薩摩が決行することを知ったとき、慶喜は武力鎮圧を控え、とりあえず土佐・越前・尾張などの公議政体派の巻き返しを期待したものと推測する。それによって無用な武力衝突を回避できる、逆にクーデターをやった薩摩は政治的に孤立する、と踏んだのではなかろうか。 
 事実この後の政局は公議政体派が圧倒的に有利になり、クーデター政権を樹立した薩摩は逆に政権内部で孤立すらし始めたのである。この勢力関係が崩れ去ったのは鳥羽伏見の一発の銃声からであった。このあたりは次号以降で述べるとする。
 以上まとめると、薩摩クーデター計画の変更修正及びクーデター政権内での公議政体派の勢力回復拡大、この二つが慶喜大政奉還のその後の政局への影響であったと考える。