最後の将軍徳川慶喜の苦悩13 王政復古のクーデターとその後の政局

 慶応3年12月の僅かひと月の間に日々刻々と生起した重大事件をまず時系列で整理してみたい。前号と若干重複することを許されたい。
11月25日、西郷・大久保等が御所制圧、辞官・納地の要求を骨子とする薩摩のクーデター計画案を策定。
12月1日、西郷・大久保及び岩倉ら討幕派の公家がクーデター計画を決定。決行の日を12月5日と想定した。
12月2日、西郷・大久保より後藤にクーデターの計画が伝えられる。後藤が決行の延期を求めたので大久保らは八日決行で了承した。
12月5日、後藤は更に決行延期を要請した。出来れば10日にしてほしいということであった。
 またこの日後藤は、政変の計画があることを松平春嶽に告げた。
12月6日、春嶽は家臣の中根雪江を二条城に遣わして、薩摩藩に政変の計画があることを慶喜に伝えた。このとき中根は、摂政・関白、幕府などの廃止や新人事は当日九日に発表の予定、などについては伝えたが、肝心の辞官・納地については何ら触れていない。 そもそもこの件は、後藤が春嶽に伝えていなかったのである。
12月7日、乗輿の準備が間に合わないことを理由に中山忠能が延期を主張したため、決行は九日と決まった。また後藤は尾越両藩への早い通告を主張したが、大久保が反対し、8日のできるだけ遅い時刻の通告を主張した(実際もこうなった)。
同日、旧幕府の手により、念願の兵庫開港式が盛大かつ堂々と執り行われた。英・仏・米・蘭・普・伊の六か国公使が招かれた。 
12月8日正午、朝廷会議が開かれ、深夜に至り、長州藩主親子の官位を旧に復し、上京を許可するとの決定を行なった。慶喜は事前に賛成の意思を表明していたが、この会議に慶喜・容保・定敬は欠席した。
同日夕刻、岩倉が五藩(尾張・越前・薩摩・土佐・芸州)の重臣を集めて、明日の卯の刻(午前六時頃 )各藩の藩主に、軍装にて藩兵を引き連れ参内するよう朝命を伝えた。
同日、山内容堂ようやく入洛。
12月9日午前十時頃、クーデター決行。薩摩藩を中心とする武装兵が御所の九門を固める中、学問所にていわゆる王政復古の大号令渙発された。また、摂政・関白、征夷大将軍議奏武家伝奏京都守護職・同所司代などの旧職が一方的に廃止された。更に二条摂政、中川宮などの佐幕派の公家26人の参朝を停止した。
   次いで、以下のとおり、総裁・議定・参与の三職を臨時に置く、と発表した。
総裁 有栖川宮熾仁親王
議定 10名 仁和寺嘉章親王山階宮晃親王中山忠能正親町三条実愛
                   中御 門経之、徳川慶勝松平春嶽浅野長勲山内容堂島津忠義
参与  20名 五藩から三人づつ指導的藩士
同日夕方、小御所会議開かれる。議題は徳川家の処分つまり辞官・納地問題そのものであった。
12月10日、クーデター政権の議定に就任した松平慶勝・松平春嶽の両名が、辞官・納地の朝意を二条城の慶喜に伝えた。
12月11日、上京を許された長州藩兵が宮門の警護に就いた。
一方、二条城の徳川勢力は激昂して薩摩藩邸襲撃を呼号した。慶喜は彼らに禁足を命じた。夜中、二条城に呼ばれた榎本武揚は「グズグズさえ致し申さず候ヘバ、勝利は十分之者に見受けられる」と述べている。
12月12日、慶喜、二条城を退去し大阪城に拠る。
同日、容堂が諸侯会盟の「議事公平の体」、「三職評議の規則」を早く建てよ、と建議。
同日、阿波・筑前・肥後・盛岡・肥前など有力十藩は、宮門警備の中止(つまりは御所の占拠の中止・解兵)と公議の早期確立を要請した。
12月13日、岩倉が大久保に、納地を慶喜が拒否すれば一戦交える覚悟かそれとも公議政体派の周旋に任せるかを打診。大久保は意外にも後者を選択する旨回答。
12月16日、慶喜大阪城にて英・仏・米・蘭・伊・普の六カ国公使を引見。自らが日本国代表であることを宣言。クーーデターを指導した薩摩藩や公卿達を、「幼主を挟み、叡慮に托し、私心を行い、万民を悩ます」と非難した。
12月17日、岩倉が、孝明天皇の没後一年祭の費用五万両の供出を慶喜に依頼。慶喜、これを快諾。
12月18日、各国公使宛の王政復古の布告文案(大久保の起草)は春嶽・容堂の副書拒否によって流れてしまい、クーデター政権は国際的に認知されない政権であることが明らかとなった。
12月20日、パークスが「幕領のみ削り、他の候領を差し出さず候こと、外国人には至当と存ぜられず候」と薩摩藩に伝えた。
12月23日・24日、辞官・納地問題の朝議が開催されたが、岩倉は病気と称して欠席、日和見始めていた。
12月24日、朝議が開かれ、辞官・納地問題について以下のとおり決まった。すなわち、慶喜は前内大臣を称し、納地については「天下の公論を以て御確定」する、という沙汰書を出すことに決した。大久保は「天下の公論を持って返上」と奏請したが多数意見に敗れた。
 容堂は、慶喜がこの沙汰書を承諾したら、列藩も貢献(納地のこと)の制度を立てよと建言し、これも承認されている。
12月28日、慶喜は右の沙汰書に対する請書(承諾書)を提出、近々のうちに上洛することが合意された。

序論 公議政体派の理念と薩摩討幕派の権力行動そして慶喜の展望
 後藤を中心とする公議政体派は政治制度の確立(議政院の設置)を近代化の目標とした。まさに正しい見解である。大政奉還はこの機運を更に加速し、議政院開設は当時の日本を風靡した。明るい日本の建設を皆夢見たのである。その招集のため後藤は事あるごとに公正無私を標傍し、これを熱く語った。正義は必ず達成する、の信念であった。しかし肝心の諸侯は京都に集まらなかった。譜代大名は旧幕府に遠慮し、外様大名は紛争に巻き込まれたくなかった。大政奉還以降混沌とする政治情勢の中で迂闊に上洛してとばっちりを受けたくなかったのである。そんなきれい事を言っているより、いっそのこと徳川勢力と薩摩が一戦を交えて黒白(こくびゃく)をつけた方がスッキリするのではないか、諸侯達は固唾を呑んで見守っていたのではなかろうか。ここに公議政体派の限界があった。政治は理屈だけでは動かなかったのである。
 薩摩討幕派はこの点もっと現実的であった。すなわち日本近代化の方法を徳川と薩摩のヘゲモニー争いとして捉え、何がなんでも徳川を政権から追放しその権力を奪い、薩摩主導の政府を作る、この一点が彼らの至上命題であった。だから彼らが公議政体派に賛成したのはよく言われているように薩摩も公議政体の樹立を支持していたから、などというのは誤りで、彼らにしてみれば他に政治制度の選択肢が浮かばなかったので賛成したまでであり、そんなことは本心はどうでもよかったのである。彼らの目的はとにかく慶喜から政治の実権を奪う、その旗印として天皇を押し立てる。それから先はどうにでもなると考えたのであろう。討幕派には政治制度のビジョンが乏しいとよく言われる。しかし彼らは、どんなに優れた政治ビジョンも政権の安定なくしては画餅であることを嫌と言うほど知らされていたのである。だから政治力学的観点から言えば、後藤より薩摩の方が遙かに現実的であった。
 では徳川慶喜はどう考えていたのであろうか?
慶喜は当時の日本の行政権を掌握していた。だから内外に対し責任を負う立場であった。彼の最重要課題は内戦の回避だったと推測する。欧米列強のひしめく東アジアで日本のような小国が内乱になれば列強の干渉を招くことは火を見るより明らかである。慶喜はこうした事態だけは避けたかったに違いない。
 怜悧な慶喜は議政院の開設に理解を示してはいたが、しかしこれがスムーズに開かれることには大きな疑問があったのではなかろうか。それというのも、過ぐる慶応二年、彼が将軍に就任する際諸侯に上洛を求めたが、全く反応がなかった。当時は長州征伐の失敗で、幕府の権威が地に落ちており、諸侯が上洛しなかったことは止むを得ないことであった。慶喜はこのとき、政治は安定した権力の担保なしには実行されないことを嫌と言うほど知らされたのである。だから徳川と薩摩が鋭く対峙する今日、諸侯がのんびりと上京する訳がないと判断していたのではあるまいか。
 では慶喜は諸侯の上洛を心底待ちわびていたのであろうか?筆者はそうでもないような気がする。仮に議政院が開かれなかったとしても、「きれい事を言っても結局議政院など出来ない」となり、慶喜に傷はつかないと推測されるからである。
 更に12月7日、後述するように、神戸は旧幕府の手により、堂々と開港されており、この管理権は旧幕府がしっかり握っている。
 以上、何事もなく推移すれば、時間切れで慶喜の勝ちになるのだ。だから慶喜は議政院の開設に熱心でなかったのかもしれない。その意味で彼は薩摩の権力奪取行動を誰よりも理解し、かつ警戒していたのではなかろうか。要するに慶応3年12月は日本近代化のヘゲモニー争いの最終局面であった。
 ではなぜ慶喜は薩摩のクーデターを許したのか? 薩摩の政権奪取への執念を甘く見たのか。それとも政治工作だけで薩摩を封じ込める自信があったのか。彼は辞官・納地を求められた時、薩摩の本心を見抜き、自分を追い落とそうとしていることに気づいた筈だ。しかし彼は勝利の確率が高いにも拘わらず、薩摩と一戦を交えることなく大坂に退去している。
 慶喜が大阪に退去してから急に強気になったことを、「敵の姿が見えなくなったので急に強気になった」などと揶揄する者がいるが、筆者は全然違うと考えている。要するに京で干戈を交えれば蛤御門の変の二の舞になる。京が戦場になり荒廃すれば、困るのは行政権を持つ慶喜自身である。敵を倒すことのみに集中している西郷や大久保とは訳が違うのだ。だから慶喜は戦わずして薩摩を屈服させる方法を選択し、大阪に退去したのではなかろうか。
 果たしてクーデター後の京都の政局は、慶喜の見込み通り、公議政体派が断然優勢になり、辞官・納地問題も曖昧になった。慶喜が有利になったのは明らかである。
 しかし慶喜にも弱点があった。その元凶は誰あろう、江戸から来た幕臣達である 。彼らは終始慶喜の足を引っ張り続け、最後は暴発して徳川氏没落の原因を作ったのである。江戸の幕臣達と慶喜は元来仲が良くない。慶喜大政奉還して以来その関係はつとに悪化している。彼らは大体が守旧派であるが、小栗などの革新官僚慶喜を快く思っていない。彼らは慶喜の指示も待たずに江戸から軍艦で大阪に続々押しかけ、口々に薩摩の罪悪を糾弾し、「薩摩討つべし!」と呼号していた。この兵力はまさに諸刃の剣で、クーデター政権への大きな圧力になる反面、慶喜を突き上げることにも熱心な困った連中であった。慶応3年12月の大坂城はまさに火薬庫そのものであった。
  さらに彼のスタッフは極めて少数で、慶喜の政策を理解・実行できるのは永井尚志位なもので、人材不足も甚だしかった。原市之進クラスの側近が十人もいれば大分状況は違ったものになったであろう。要するに慶喜政権は脆弱だったのである。これを例によって慶喜の人格不足を理由にする者がいるが、この種の論法は極めて無責任である。要するに十四代将軍を家茂と争った時以来、慶喜の置かれている状況がそうさせたのであり、また携帯電話もない当時は江戸と京都の意思疎通が極めて困難だったことも付け加えておきたい。

一、クーデター決行前夜の薩摩討幕派と後藤等公議政体派の駆け引き
1、12月2日、大久保・西郷と後藤の遣り取り
 薩摩両名からクーデター計画を告げられた後藤は困惑し、かつ悩んだに違いない。
議政院の開設を目標として活動していた後藤にとってクーデターは穏やかならざるものである。しかし、上洛期限の11月30日を過ぎても容堂は上洛すらしていない。更に他の諸侯の上洛も進んでおらず、議政院の開設は完全に暗礁に乗り上げていた。一方薩摩のクーデターの決意は固い。また、彼らの三職構想は議政院に似ていなくもない。後藤の政治行動の二大原理は内乱の回避と議政院の設置である 。彼は悩みながらもクーデター政権に加わることを決意したのであろう。何よりも薩摩の計画は当初の上方徳川勢への軍事攻撃を取り止め、御所制圧等を主としたものであったので後藤も妥協できたのであろう。
 他方、大久保・西郷は何故このクーデター計画を後藤に告げたのであろうか?
答えは明白である。当初の計画のように上方徳川勢への軍事攻撃を決行するのなら薩摩藩及び長州藩のみで行なった筈である。しかし、前号で記載したように薩摩主力が上京した時は、日本中に公議政体論が風靡し始めていた時である。しかも大政奉還を決行した慶喜の名声は大いに高まっていた。軍事的に絶対勝利する確信がない中で武装蜂起すれば他藩の支持を全く得られない行動となり、政治的敗北は必至であった。そこで薩摩は戦略を切り替え、公議政体派の抱き込みを図ったのである。すなわち御所制圧のクーデターは決行するが、そこで出来る仮政府に公議政体派の諸侯を誘い、薩摩主導の連合政権を作り、徳川勢力の追い落としを図ろうとしたのである。
   要するに後藤を中心とする公議政体派と薩摩討幕派(幕府は既に存在しないのでこの表現は正確ではないが許されたい)はクーデター政権という仮政権を形成したものの全くの同床異夢であったのである。だからクーデター政権が後に分解するのは必然だったと言える。
2、後藤の奮闘
 後藤が二度に亘ってクーデターの延期を申し入れたのはよく知られた事実である。容堂の到着が遅れている以上、後藤としては何としても容堂が来てから政変をやってもらいたかったのだ。また、後藤は単に日時の延期を求めただけではない。越前・尾張にも早い時期にクーデター決行の計画を知らせるべきだと主張している。これは大久保が反対して通らなかった。しかし後藤は春嶽にこれを知らせ、春嶽は慶喜に知らせている。この一連の行為は一見裏切り行為のように見えるが実はそうではなく、後藤としてはクーデター計画を有力諸藩に知らせることによって政変を混乱無く行ないたかったのである。更に慶喜に知らせることによって、慶喜の鎮圧行動を防止し、内乱を回避することを目論んだのである。事実、後藤から情報を得た慶喜は、動員を控えている。
 更に薩摩が絶対譲れない辞官・納地についても、大久保等は当初、勅命降下で慶喜に有無を言わせず命令する予定であったが、後藤はこれを、越前・尾張の周旋方式にて慶喜に伝えるというソフトな方法を主張し、結局薩摩が折れて事実そのやり方になった。 要するに後藤は薩摩の言いなりなった訳でも何でも無く、自らの主張をかなり通しているのである。薩摩は公議政体派の諸侯をクーデター政権に抱き込む以上、この程度の妥協は我慢するしかなかったのである。
 しかし後藤は薩摩から聞いた辞官・納地問題を春嶽に告げていない。だから慶喜は、薩摩が土地を返せ!と迫ることまでは予想をしていなかったのではないか、と筆者は推測している。後藤は肝心のこの件を何故春嶽に言わなかったのであろうか?この答えも明白である。これを慶喜が知れば鎮圧行動に出る可能性が高い、と踏んだのではあるまいか。筆者も仮に慶喜がそれを知ったら薩摩の真意を見抜き、一戦交える覚悟を固めたのではないかと想像する。
 後藤がオポチュニストと言われるのはこの辺りであろうか。しかし彼には彼なりの信念があったのだろう。こうして薩摩討幕派と公議政体派は妥協しながら、12月9
日のクーデターを迎えるのであった。
 
二、クーデターの決行と小御所会議
 王政復古の大号令の後、史上有名な小御所会議が開かれ、ここで徳川氏の処遇が議題になったのは誰もが知るところである。
 岩倉と大久保が、徳川領を四百万石と見立ててその半分の二百万石を返上せよ、と要求したのである。その理由が陳腐だ。慶喜の罪状を並び立て、政権返上した慶喜が今までの罪を真に悔いて反省しているのなら、領地を返上してその証を立てるべきだというのだ。こんな馬鹿げた理屈はあり得ない。何故慶喜のみ土地を返さなければならないのか。更にそもそも慶喜の罪とは何か?将軍就任以来、日本のために全力を尽くし、しかも平和裡に政権返上すらしている。そんなことを言うのならまず島津七十七万石を率先して返上すべきではないか。藩の存在を前提として国政改革をしようとすれば、このような言い分は議論にもならない単なる言いがかりである。
 だから前日ようやく入京し、議定に就任した山内容堂は怒りまくった。すなわち、「今日の挙は、事頗る陰険に亘り、朝敵未だ現れざるに戎装し、会桑二藩は斥けられ、殺気勃々輦下に満つ。実に不祥の甚だしきものなり」と怒りを露わにし、更に慶喜大政奉還を史上空前の美挙と讃え、即刻この席に慶喜を呼ぶべきだ!と大声で怒鳴ったのである。
 そしてこのあと、小説やドラマだけでなく歴史書さえそのように記している容堂と岩倉との遣り取りがクライマックスの名場面となっている。長くなるが引用してみたい。
 すなわち容堂が酒の勢いもあって、「二三の公卿は何等の意見を懐き此のごとき陰険に渉るの挙をなすや頗る暁解すへからす、恐らくは幼冲の天子を擁して権柄を竊取せんと欲するの意あるに非らさるか」と決めつけると、岩倉が、「此れ御前に於ける会議なり、卿当さに粛愼すへし、聖上は不世出の英材を以て大政維新の鴻業を建て給う、今日の挙は悉く宸断に出つ、幼冲の天子を擁して権柄を竊取せんとの言を作す、何そ其れ亡礼の甚だしきや」と叱責し、容堂が詫びた、という場面である。
 しかし高橋秀直教授の論文によれば、この岩倉の言は、明治になり、岩倉の業績を讃えるために編纂された岩倉公実記を根拠としている。また天皇の権威を損なう容堂の発言を否定したかったのであろう。当時の詳細な記録である丁卯日記にはこの遣り取りについて容堂の発言は記載されているが岩倉の発言は全く記されていない。公平に見て、岩倉の発言はあり得ず、後世の作り話であると考える。
 そもそもこの時の天皇元服していないので一人前として認められていないのが当時の常識であった。だから容堂の発言は不敬でも何でもない。クーデター政権は天皇を取り込みしかも、摂政・関白を一方的に廃止しているので、天皇の意思を代弁する公式機関すらないのである。だから容堂が怒りまくったのは当然であった。そもそも大藩の太守で賢候の誉れ高い容堂を、下級公家の岩倉が叱責することなど出来る筈がないのである。
 ただ、実のところ、クーデター直前に薩摩と公議政体派は話が出来ていたのである。容堂は遅れて上京したので後藤とも十分な打ち合わせが出来なかった。だから議論を振り出しに戻してしまったのである。これに力を得た春嶽が容堂に同調したので会議が混乱したのであった。 事実、容堂はこの後も、岩倉との議論から一歩も引かず、これに手を焼いた討幕派は休憩を申し出たのであった。
 しかしこの日容堂は休憩後の議事再開で一転して沈黙した。西郷が岩倉に、「短刀一本あれば片づく!」と言い、後藤がこれを容堂に伝えたので、容堂は廉前を血で汚すことを懼り、沈黙したのであった。
 目的のためには天皇の前で大藩の太守を刺し殺すことをも平然と実行しようとする西郷は究極の暴力行動家と言うべきか。
 以上から分かるように、クーデター政権は発足当日からやっと初日を乗り越えただけであり、とても薩摩の思い通りではなかったのである。

三、紛糾する辞官・納地問題とその後の政局
 薩摩・長州・芸州が第二次出兵同盟を結んだ慶応3年10月末段階では当然のことながら納地問題など全く意識されることはなかった。なんとなれば、武装蜂起して上方徳川勢を打ち破り、政権を奪取するという計画においては、納地など必要ない。敵を打ち破り、その領地を奪えば済むことである。戦争をやろうとする者が納地など考えること自体が可笑しい。
 しかし武装蜂起を止め、御所制圧のクーデターのみを行う方針に切り替えていく過程で、彼らは「我々が天皇政権だ!」と声高に叫んだところで物理的かつ経済的な裏付けがなければただの亡命政権に等しい、という現実を突きつけられたのである。クーデター政権は、その権力の裏付けとして徳川の領地を奪わなければ政権の安定など望むべくもない。納地の要求は必然だったのである。これが慶応3年11月25日に薩摩が決定したクーデター計画案であった。
 仮に百歩譲って、家近教授の言うように、「大政奉還によって、慶喜は日本政府を返上したのだから政府の公領は必要なくなった。普通の大名に相応しい土地以外は返上せよ。」という言い分も一分(いちぶ)位はあるだろう。
 しかし大久保等の言い分には無理がある。軍事力を動員しクーデターを敢行して、俺が政府だ!土地を出せ!というのは虫が良いと言うより、非道い論理である。だから慶喜はさすがに即答しなかった。天皇を担いで好き勝手なことをやってしかも土地をよこせとはあまりにも酷いのではないかと腸(はらわた)が煮えくり返る思いであったろう。要するに薩摩の主張は、筋の通らない屁理屈であった。
 果たして、薩摩等は、この要求を貫き通すことは出来なかった。そもそも、藩の存在を前提として納地を行なおうとすれば、徳川のみ領地を返上する理由は皆無だからである。ましてや慶喜の罪状を並べ立て、反省しているのなら土地を返せ、などという主張は公議政体派の到底容認できるものではなかった。
 案の定、容堂・春嶽等の猛烈な抗議で納地問題は骨抜きにされた。薩摩は、三職会議をコントロールすることは武装蜂起より難しい、と危機感を募らせた。納地が認められない限りクーデター政権などじり貧になるしかない、何のために大軍を動員してクーデターをやったのか無意味になるのみか今までの強引なやり方は諸藩の非難を浴び、京都政界で孤立する危険さえ高まりつつあった。
 徳川慶喜はこの状況を待っていたと言える。冒頭の時系列のとおり、12月24日の朝議において決定した沙汰書を受けて、慶喜は請書を提出し、ここに慶喜の議定就任つまり京都政界復帰が確実になったからである。このまま議定に就任して、公議政体派を味方につければ薩摩を政治的に孤立させ、平和裡に日本改革が出来ると踏んだのであろう。慶喜はこの時点で安堵したのではなかろうか。自分がやってきたことは正しかった、戦争を回避できる、という展望をようやく持つことが出来たのではなかろうか。
 しかし、である。歴史にタラはないが、仮に慶喜が京都政界に復権した場合、政治は安定したであろうか。なぜなら、一時は政治的に薩摩を孤立させても、薩摩の強大な軍事力は完全無傷で残っている。更に復権した長州が晴れてクーデター政権に加わり、続々と精兵を入京させれば、公議政体派と討幕派との 軍事バランスは拮抗したものにならざるを得ない。とても政局の安定など望めなかったのではなかろうか?
 何が言いたいか?  要するに、慶喜は、いつかは討幕派と一戦を交えなければ京都の政局は決着しなかったのではなかろうか。その機会は、12月9日のクーデター直後であったかもしれないし、あるいは鳥羽伏見の戦い慶喜が眥(まなじり)を決し、幕府歩兵を陣頭指揮して勝利するべきだったのかもしれない。しかし慶喜はいずれも動かなかったのである。その真意はなかなか計り難い。
 ところで筆者は、仮に慶喜が薩摩と決戦するならその時期は、クーデター直後がベストであったと長年思っていた。その最大の理由は京都市中で争っても朝敵にならないからである。これは鳥羽伏見の戦いで大坂から京都に攻め上り、あえなく敗北したことにより、天皇政権を攻撃しようとした、という思想的敗北を犯したことを考えてのことである。確かに京都を離れたことが戦略的失敗だったと指摘する説もかなりある。筆者も以前はそれに与していた。しかしこれは鳥羽伏見で完敗したという結果が出てしまったからであり、筆者の最も戒める後講釈(あとこうしゃく)そのものではなかろうか。
 クーデター直後の慶応3年12月10日・11日の段階では、市中決戦は避けるべきだと判断するのが妥当だったのかもしれない。確かに榎本武揚が二条城に呼ばれた時、旗本・会津藩兵等は戦意満々であった。しかし彼らは激昂し、興奮し切っており、冷静さを全く欠いていた。戦(いくさ)に勝つ為には、決死かつ冷静な覚悟が必要である。興奮は内なる敵だ。加えて慶喜は薩摩兵児の圧倒的強さを蛤御門の変の時、目の当たりに見ている。このとき会津藩兵は長州に押されて潰走している。一抹の不安が慶喜の脳裡をよぎったのかもしれない。また何よりも京都で戦(いくさ)をしたくなかったのが最大の理由であろうか。 
 こうした状況の中で、大久保を中心とする薩摩藩士は焦燥感を募らせていた。辞官・納地の進展がはかばかしくない中、14日以降の薩摩はむしろ戦闘による決着を望むようになった。しかし、公議政体派が多数を占める朝議の中で戦いのきっかけが掴めず苦悩することとなるのである。また肝心の岩倉も戦闘を望まなかった。彼は慶喜の議定就任を認め、その上洛を拒否しなかった。岩倉の生涯の目標は王政復古である。それが達成した今、薩摩ほど徳川追い落としには熱心でなかったのかもしれない。ただ「討幕の密勅を出した共犯」という弱みもあり、結局岩倉は薩摩と託生するほかなかったのであろう。

四、最後に兵庫開港について簡単に述べておきたい。
 冒頭の時系列にあるように、12月7日、念願の兵庫(実は神戸)開港が旧幕府側の手により堂々と行なわれた。開港に尽力したのは兵庫奉行兼外国奉行柴田剛中であった。彼は渡仏したことがあり、まさに適役であった。式典では永井尚志の祝辞が披露され、神戸沖では集結した軍艦が二十一発の祝砲を放っている
 慶喜は、神戸開港により、貿易が順調に進展することに大きな期待を持っていた筈である。神戸が賑わえば港を管理する旧幕府側の財政は大いに潤い、しかも諸外国の反対で内乱どころではなくなるからである。彼は徳川による政権維持に強い自信と希望を持ったのではないか?クーデター側がその実行の期限を12月7日に切っていたのはまさにこのためであった。
 余談だが、今日の神戸港の発展のきっかけを作ったのは誰あろう徳川慶喜ではあるまいか。遡る慶応3年3月、彼が幕府の命運を掛けて四カ国公使に兵庫開港を宣言し、続く5月、政治生命を賭して朝廷に乗り込み、勅許を取得したことが兵庫開港の始まりだったからである。慶喜は神戸の恩人ともいうべき人である
 しかし神戸港には何ら慶喜の痕跡は見当たらないようだ。それは維新政府が彼を顕彰するのを嫌ったからではなかろうか。一方、我が三浦半島の横須賀港は幕府勘定奉行小栗忠順の業績を顕彰し、ヴェルニーと小栗の像が建っている。住民の誇りそのものである。

 終論 未熟ながら王政復古のクーデターを総括してみたい
 筆者は、このクーデターそのものは12月24日、慶喜の上洛を朝議で認めた段階で失敗であったと考えている。要するに、公議政体派の巻き返しにより薩摩討幕派は戦略上の妥協と後退を余儀なくされたからである。辞官・納地が曖昧になり、しかも慶喜が上洛して議定に就任したら討幕派はお終いである。何の為に大軍を動員して御所を制圧したのか分からなくなるのみか、討幕派は京都政界で孤立し、追い落とされる可能性すら生じてくる。
 その証拠に、大久保は翌慶応4年1月2日、西郷への手紙で「今日に至って戦争に及ばなかったら、皇国の事はこれっきりで水の泡になる」と開戦の決意を促している。
また翌3日には岩倉に、「朝廷は二つの失策を犯した。一つ目は王政復古に際し慶喜の辞官・納地を断行しなかったこと、二つ目は慶喜の下阪を黙認したこと、そして今三つ目の失策を犯そうとしている」、それは慶喜の参朝・議定就任を認めることであるとし、この「三大事」の全てに失敗すれば、「皇国の事凡て瓦解土崩、大変革も尽く水泡・画餅と相成るべきは顕然明著というべし」。今や挽回する道はただ一つ、「勤王無二の藩、決然干戈を期し、戮力合体非常の尽力」の他にはないと即時開戦を訴えている。「勤王無二の藩」、は大久保得意の台詞である。
 このように大久保自身がクーデター決行以降の事態が全く思わぬ方向に進んでしまったことを告白しているのである。要するにクーデターは失敗そのものであった。この状況を一変させたのが鳥羽伏見の一発の銃声であった。
 王政復古のクーデターを明治政府の出生証明として把握する説があるが、筆者は全然賛成できない。 この辺りは次回で述べてみたい。