雑学は身を助ける その1

平成23年の晩秋、品の良い声の老婦人から電話を頂きました。以前私が仕事をした別の老婦人からの紹介です。

 

 

 

 

 

 

 

内容は、夫の遺言を作成して貰いたいというものです。親族間は大変仲が良く、揉めたりする心配は皆無なのですが、ご主人が癌であまり余命がなく、自ら遺言を残したいというものでした。
  早速お宅を訪ねました。恰幅の良い老紳士が私を待っていました。思ったより元気そうで,とても体調が悪いようには見えません。ひとまず安心しました。何しろ遺言をせかされる程辛い仕事はありません。元来せっかちな私が更にせっかちにならざるを得ません。
 まず名刺の交換をしました。すると三浦から先の大戦に出征した人のとりまとめ(軍恩)をしていることが分かりました。その名簿を拝見すると、私の近所の人たちが大勢載っておりました。「あっこの人私知ってます」などと言いますと、彼が従軍時の話をしてくれました。まず満州です。ここで腸チフスに罹り、太い注射を何本も打たれて痛かったという話から始まりました。そして、終戦をボルネオで迎えたそうです。
 元々の軍人ではなく、徴集兵ですよ。それが満州からボルネオまで転戦したんです。いかに過酷な大戦であったかがこの一字で分かりますね。
 復員船がなかなか来なくて一日千秋の思いで待っていたそうです。やっと復員船(空母)が来て、ようやく日本に帰ったという苦心談をしてくれました。
 そこで思わず私は、「ご主人、その空母の名前当てましょうか」 と言いました。「えっ」と絶句しています。私は静かに「葛城でしょう」、と言いました。このときのご主人の驚きようと喜びようは今でも覚えております。「戦後60年生きてきたが復員船の名前を当てたのは先生一人だ」と言って、私の手を取って喜んでくれました。そして「神様が導いてくれた」とまで仰るんですね。すると奥様が「主人にこの話をさせると夜中になるので先生、もうしない方がいいですよ」と隣で言いました。夫人も若いときに戦地に夫を送り出して、家業を切り盛りし、家族を守って、随分辛い思いをしたに相違ありません。私も込み上げてくるものがありました。その後の手続きが順調に行ったことは言うまでもありません。
 尚、遺言者たるご主人はその後、平成24年秋、静かに往生されました。心からご冥福を祈りました。
 余談ですが、葛城は、大戦後半、雲龍、天城、葛城、笠置、生駒、阿蘇と六隻建造した同型空母の3番艦でした。ほぼ完成した状態で終戦を迎え、復員船として活躍したのですね。なるほど空母は飛行機を格納するように設計されていますから空間が広いので復員船には最適ですね。古い写真に葛城が復員船として出港している写真があります。偶々それを私は覚えていたのですね。雑学が依頼者の信頼を得ることもあるのですね。