最後の将軍徳川慶喜の苦悩 15あとがき

執筆後記
 体制が危機に瀕したとき、その責任者はどのように行動したか?歴史に興味のある者なら皆大きな関心を持つ。徳川慶喜は、開府以来ともいうべき幕府の危機を救える能力・見識・実行力を持った唯一の男であった。彼は本来、十四代将軍が相応しかった。もし彼がその時点で将軍になり、関東の政令を一新して行財政改革を行なっていれば、幕府は立ち直っていたかもしれない。しかし当時の幕府の主流は守旧派であった。彼らは無難な家茂を十四代将軍に立て、改革派の弾圧を行ない、改革の芽を摘み取ってしまった。そして桜田門外の変以降自信を失った幕府は何ら定見の無いまま貴重な時間を費やし、藩政改革を行なって実力を蓄えた薩摩・長州を中心とする西国雄藩の雄飛を許してしまった。
 慶応三年、慶喜が将軍になって幕政改革に着手したときは既に幕府は腐りかけており、慶喜をもってしても如何ともし難かった。その意味で慶喜は最後の将軍というより、むしろ遅れてきた将軍というべきであろう。
  翻って考えると、日本の国難は有史以来三回あったと筆者は認識している。初めは大陸に隋・唐大帝国が出現したことによる対応を迫られたことである。このとき日本は大化の改新を断行し、律令国家に脱皮して、その危機を切り抜けた。次がペリーショック以来の欧米帝国主義列強によるアジア進出への対応を迫られたことであり、最後が、言わずと知れた太平洋戦争の敗戦である。 
 この拙書で扱ったのは二番目の国難である。ペリーが来て幕府が自己変革を迫られたとき、幕府は初めて「内なる天皇制」の問題に気づき、その対応を余儀なくされた。従来どおり幕府が天皇を取り込んでいればまだよかった。しかし天皇は幕府から離れ、しかも幕府を相対化する方向にのみ作用した。開府以来、天皇の至高の権威を温存してきた幕府は今度は天皇の権威に拘束されることになったのである。以来政局の中心は江戸を離れ、明治維新まで京都であり続けた。幕府はこの状況を克服・転換することが出来なかった。何よりも慶喜自身が天皇の権威の中に自己の政治的活躍の場を見出していたのである。これは幕府本来の立場からすれば、自己矛盾そのものであり、また彼が望んだものでも無かったろうが、幕府が慶喜の立ち位置を誤ったことが原因であり、慶喜にしてみれば止むを得ざることであった。要するに慶喜本来の活躍の場が与えられていなかったのである。慶喜は京都で将軍に就任し、京都で辞任した。征夷大将軍が既に京都を離れられない状況だったのである。
 大政奉還はある意味でこうした状況から脱却する好機でもあった。天皇の権威から離れ、慶喜が自ら行政府の長として日本国の代表者になる絶好の機会でもあった。しかし、慶喜は幕府部内の守旧派に足を引っ張られ、しかも薩摩の陰謀に対抗することが出来ず、結局敗退した。
最後の将軍にして最初の立憲君主たらんとする慶喜の壮大な野心は実現すること無く終わった。
 近年明治維新が再評価されている。これも何年かに一度のサイクルでやってくることではあるが、最近の評価のポイントは犠牲者が少なかったということである。どの国も近代化のための生みの苦しみを経験する。フランス革命はざっと二百万人死んでいる。これに引き換え明治維新の犠牲者は三万人以下で、近代化を成し遂げた国では極端に少ない。犠牲者の数が少なかったということで評価するなら、徳川慶喜はもっと見直されてもよいのではないか。幕府は日本を近代化するに当たって「内なる天皇制と幕府」という統治の二重構造に気づいた、と先述したが、結局慶喜は幕府の幕を降ろし、天皇にその大権の全てを譲ることによって近代化に貢献したといえよう。筆者はこの意味で慶喜は完璧な敗者と認識している。敗者だから人気は無い。しかし偉大な敗者といえるのではなかろうか。

 
 思えば同時代の清国は欧米列強が進出してきたとき、内なる異民族支配(満州族による漢民族支配)という解決不能の矛盾に直面した。このために中国は長く欧米列強の浸食するところとなったのである。日本は幸いこのような解決不能な国内矛盾は存在しなかった。近代化を巡る薩摩とのヘゲモニー争いで一敗地に塗れた慶喜は潔く天皇大権を認め、一切の軍事的抵抗をすること無く敗北宣言をして謹慎した。維新の犠牲者の数が少なかったのはこのためである。

 自己顕示欲の強い勝は、「江戸城無血開城は自分と西郷の二人でやった」と言いふらしている。他方、慶喜はこの件に関しても生涯沈黙を守り、一言も発していない。筆者は、このような慶喜の生き方について、並の者には到底出来る仕業では無いといつも感心いや感動さえしている。
 筆者が徳川慶喜に関心を持ったのはその長寿の故であった。古今東西を問わず、長期の王朝が滅びるときその最高責任者は必ず死ぬものである。自決か戦死か捕らえられての斬首である。徳川幕府は二百六十七年の長きに亘って日本に君臨した超安定武家政権であり、翻って頼朝から数えれば七百年続いた武家政権の幕を閉じるのである。普通に考えれば無事で済む訳がない。しかし彼は大正二年まで長生きをし、七十七才の天寿を全うしている。筆者は、慶喜が死ななかった、いや死なずに済んだのは二つの理由以外無いと考えた。
一つは人畜無害の凡人で、生かしておいても何ら問題が無い男、二つ目は非常に賢くて、勝者が彼を殺そうとしてもそれが出来なかったから。この二つのいずれかしかないと仮定した。しかし少し調べれば第一の線はすぐ消えてしまう。そこでよほど賢かったであろう慶喜とはどんな人物だったのか?というのが彼への興味のきっかけであった。また筆者は以前から、幕府側からの日本近代化の動き(具体的には小栗らの親仏幕権派の政策)に興味があった。敗者のやったことは不当に扱われることが多いからである。其の意味でも慶喜の動向に興味を持ってはいたのである。やはり想像通りいや想像を絶する賢い人であった。
 以前、歴史家のアンケートで歴史上の人物の誰になりたいか?の投票があり、乾隆帝が首位であった。確かに乾隆帝空前絶後の皇帝だ。十度の征服事業をしたことから自ら十全老人を名乗り、文化人として現在の故宮博物院の原型を作り、六十年間皇帝として君臨し、九十歳まで長生きしている。完璧な生涯かもしれない。しかし筆者はこのような神に近い人は畏れ多くて近づく気にもなれない。誰も乾隆帝の心境など分かるまい。では大ファンの慶喜公はどうか?やはりこんな気苦労も真っ平御免だ。一分でも耐えられない。しかし、慶喜公の不動産登録係にはなってみたい。今の仕事とほぼ同じだし、日々慶喜公に接して彼の奮闘ぶりを間近に拝見出来るからである。
 泉下の慶喜公は、筆者が自分のファンだと偶然にも知ってくれたら、多分こう言うだろう。「わしなどに興味があるとはそなたも変わった男よのう。しかしよく調べたのう。感心しておるよ」と。
筆者は平蜘蛛のようにひれ伏して恐懼感激し、感涙に咽ぶに違いない。
 以上、この拙書は日本近代化のために孤軍奮闘した徳川慶喜公への大いなる尊敬と愛惜の念を込めて執筆したものである。この拙書を読んでくれた人が一人でも多く、ああ慶喜さんは偉大な人だったんだな、と理解していただければこの拙書の意図は成功であり、筆者は望外の幸せである。