最後の将軍徳川慶喜の苦悩 5 四国公使謁見と兵庫開港問題①

 一、初めに
「兵庫は開く」 
 この明快過ぎる言葉を危ぶんだアーネスト・サトウ(英国公使館員)は、「そのお言葉、横浜や本国の新聞に掲載しても宜しきや?」と伺いを立てたほどである。慶喜の回答は更に明快であった。「苦しからず」と。
 これは、司馬遼太郎の小説「最後の将軍」の一節である。小説はあくまで創作であり、事実ではない。しかしこの一節は、「当たらずと雖ども遠からず」ではあるまいか?
 慶喜は、この兵庫開港という大問題を、明快に「開港」と諸外国に回答したのであった。
 そもそも、兵庫開港問題とは、安政5年の日米修好通商条約によって兵庫の開港が取り決められており、その期限は文久2年12月5日であったが、更に5年の延長が認められて、慶応3年12月7日開港と定められていた。期限の6ヶ月前には布告しなければならないから、幕府にとっては差し迫った大問題であった。
 なぜ5年も延期されたのか?その理由は明快である。そもそも孝明天皇が京都に近い兵庫を開港することには反対であったし、頑迷固陋な公家達も開港に反対であった。尊皇攘夷一色であった文久当時は開港など思いもよらず、幕府は5年の延期を諸外国に求めるのがやっとであった。
 将軍就任を渋っていた慶喜が結局将軍になったのも、この問題の解決が念頭にあったからと言えなくもない。要するに、当時、諸外国との外交を担当していたのは紛れもなく幕府であり、来るべき兵庫開港問題の解決についてはやはり自らが将軍になっていないとやりにくい。日本の代表者は、紛れもなく、征夷大将軍たる自分である、自分を差し置いてこの問題を解決できるものはいない、という強烈な責任感と自負があったのであろう。
二、四国公使謁見までの経緯
1、幕府の謁見招請と英国公使パークスの反応
 慶喜がまだ正式に将軍に任命されていない慶応2年12月2日、幕府は、早くも英・仏・米・蘭の四国代表に、謁見を行うので大坂に来るよう招請した。
 実は慶応2年11月24日、外国奉行は、アーネスト・サトウが「英国策論」(これはあくまで彼の私論であり、英国政府の公式見解ではない)で幕府の権威を否認し、日本は諸侯会盟議政(雄藩連合)にすべきだ、と説いているのを憂慮し、幕府が全国統治の威権を振るい、「中興維新」を断行する為にも外国公使を引見すべきだと上申している。要するに、各国代表接見を速やかに行うことによって、徳川政権の権威を早急に内外に示したかったのである。
 この時期、福沢諭吉も大名同盟の説を退け、「大君のモナルキ」でなければ日本の近代化は進まないと記している。要するに徳川絶対主義による日本統一路線の実行である。
 ところが、事はスンナリとは運ばなかった。パークスが異を唱えたからである。その言わんとすることは要するに、「幕府の招請に単純に応じては幕府権力の増大に手を貸すことになる。それに幕府が本当の日本政府であるなら兵庫開港を確約すべきであり、我々はその保証を取り付けてから招請に応じるべきだ」という論理である。
 同年12月7日、パークスは老中稲葉正邦を訪れ、謁見の際には兵庫開港勅許の通告が望ましい旨述べている。 幕府は兵庫開港についていわゆる勅許を得ていなかったから、これは幕府の弱みを謂わば突いたことになった。 
 そこで幕府は孝明天皇の死去を理由として、慶応3年1月10日、接見の期日をしばらく延期する旨、四国代表に告げたのであった。
2、英国の対日政策について若干のコメント
 当時の英国の対日政策は、貿易の拡大が最優先で、日本の国内政治には介入しないというのが基本であった。しかし彼らが自由貿易を振りかざして門戸開放を迫れば、そもそも幕藩体制の根幹を揺るがすことになる。現にパークスの前任オールコックは幕府が四国に支払う賠償金(馬関で長州が外国船を砲撃した事件の処理)を免除する代わりに下関の開港を幕府に持ちかけている。 またオールコックもパークスも(さらにはその懐刀のアーネスト・サトウも)、西南雄藩と頻繁に接触している。
 最近の歴史書を読むと、英国は従来言われているほど薩長寄りではなく、ただただ貿易を拡大したかっただけだという見解が散見する。しかし幕府にとって、英国のこのなりふり構わぬ自由貿易拡大路線こそが本質的に厄介そのものであった。
 更にいえば、先述のパークスの意見は、一見尤もだが、そもそも条約を批准したのは幕府であり、その代表者が代替わりしたのだから新将軍の謁見に国際法上何の問題はないはずである。「幕府権力の増大云々」は国内問題への介入であり、兵庫開港を持ち出すのは政治的嫌がらせとさえ言える。いつの時代も大国のエゴは不変である。
 筆者は、当時のスーパー超大国である大英帝国に対して、東洋の小国のしかも弱体政府である幕府の外交担当者(特に外国奉行ら)は「よくぞここまで奮闘した」とむしろ讃えたい。
3、そして続く外国公使謁見を巡る幕府・薩摩・パークスの攻防
 慶喜による四国公使謁見挙行を巡る攻防は、先述の慶応3年1月10日の接見延期の通告時から本格的に始まったといえよう。
 慶喜は将軍就任直後の慶応3年1月下旬、一人の外国奉行をロッシュの元に遣わし、政治的改革を行う旨を述べ、その方法について広く諮問している。慶喜はまだ将軍に就任していない前年11月にも2名の外国奉行をロッシュの元に遣わしているから、今回の派遣は、政治改革の諮問もさることながら、間近に迫った謁見を滞りなく遂行する為の助言を求めたものと推察される。
 そして、翌2月、ロッシュは自ら大坂に赴き、6・7の両日、将軍慶喜と会談しているのは前号で述べたとおりである。ここでロッシュは、幕府が兵庫開港を宣言しなければパークスは謁見に出席しないであろうと述べている。慶喜が「断然兵庫を開港すべし」と決意したのは、多分この会談の時ではないかと筆者は推測する。
 ロッシュが将軍と単独で会見したことに気を揉んだパークスは、自分も大坂へ行くと言って、老中が制止しても聴く耳を持たなかった。困窮した老中がロッシュに相談すると「アマノジャクのパークスのことだから留めても聞きはしない。自分も大坂へ行くから心配は無用」と回答している。そこで慶喜はパークスの大坂行きを逆手にとって、慶応3年3月8日、四月上旬大坂で謁見を挙行する旨、四国公使に通知したのであった。
 慶喜は謁見の準備に励みながら、3月5日、兵庫開港の勅許を朝廷に奏請した。しかし、薩摩が、兵庫開港を元々望まない公家への猛烈な入説をして妨害工作を行ったこともあり、朝廷は19日、兵庫開港を承認しないという沙汰書を幕府に出している。
 一方、3月14日に大坂に着いたパークスは早速行動を開始した。幕府は同13日、パークスに対し、兵庫は必ず予定された期日に開き、6ヶ月以前に国内に布告する旨回答している。しかし、これに飽き足らないパークスは、日本国内の布告は6ヶ月で足りようが、本国(英国)にはこの期間では不十分なので早急に本国に布告したい旨要求した。これに対し、老中板倉から、異論なしとの内意が表明された。
4、将軍慶喜の決断
 以上からして、兵庫開港問題は早急に解決を必要とする情勢になった。慶喜は謁見の期日を早める為、3月22日再び兵庫開港の勅許を朝廷に奏請した上で、(その返事を待たず)同日、大坂へ出発したのであった。
 彼は、仮に勅許を得られなくても独断で兵庫を開港し、徳川家の存亡を一挙に解決する覚悟を決めていた。
 慶喜が、勅許がなくても断然兵庫を開くことを決めたのは、勿論彼自身の開港への強い希望があったことは論を待たない。しかしそれだけではない。怜悧な慶喜が当時の国内情勢の変化を敏感に感じ取った結果ではあるまいか。
 鎖国か開国かで揺れた安政年間や尊皇攘夷が吹き荒れた文久年間を経て、慶応3年ともなれば既に開国は国是であったろう。決定的な転機は元治元年8月、下関で長州が四国連合艦隊に砲台を破壊された時からではないか。この日を境にして、攘夷など不可能、開国以外ないということを当時の日本人は知らされたのである。だからよほど眼が曇っていない限り、好むと好まざるとに拘わらず兵庫開港は避けられないことは識者なら皆知っていたのである。
 一つの政策が国論を二分するようなものであれば、正に勅許は天の声、切り札で許可そのものであろうが、それが誰の目にも明らかな言わば必然の政策決定であれば、慶喜は政権担当者たる自己の責任で断然兵庫開港を宣言し、勅許は追認(もっと分かりやすく言えば、単なる認証)であるべきだ、と慶喜は考えたものと推測する。
こうしていよいよ慶応3年3月下旬、慶喜政権の白眉となった英・仏・米・蘭の四国公使謁見が始まろうとしていた。
*年代表記の訂正について
 筆者は今まで、月日表示はそのままにして、年代だけ西暦を使用していた。その理由は、当時の年号が頻繁に変わり、時代感覚が分かりにくいからである。しかしこれは不正確で正しくない。今回より、年号表記にすることにした。また以前の雑文もこれを機に年号に改めた。西暦は補助的に使用する。
 ちなみに年号と西暦はほぼ以下のとおりである。
 安政5年(1858年)
 文久2年(1862年)文久3年(1863年)
 元治元年(1864年)
 慶応元年(1865年)慶応2年(1866年)慶応3年(1867年)
 明治元年(1868年)