最後の将軍徳川慶喜の苦悩 6 四国公使謁見と兵庫開港問題②

 一、将軍慶喜による四国公使謁見 そのスケジュール
 天下の耳目をそばだたせる将軍慶喜による四国公使謁見は、いずれも内謁見(非公式の会見)と公式謁見に分け、大坂城において挙行された。
 前号で述べたとおり、パークスはすでに3月14日、大坂に到着して活発な活動を開始しており、追ってロッシュも大坂に着いた。あとは将軍慶喜の登場を待つばかりであった。 謁見のスケジュールを確認してみると、以下のとおりである。
 慶応3年3月25日 英国公使パークスとの内謁見
      同26日 オランダ公使との内謁見
      同27日 フランス公使との内謁見
      同28日 英・仏・蘭の3カ国公使との公式謁見
      同29日 遅れて到着したアメリカ公使との内謁見
      4月1日 アメリカ公使との公式謁見
 以上、想像しただけでもかなりの過密スケジュールである。この日程を難なくこなしてしまう将軍慶喜の能力の高さには誰もが脱帽せざるを得ないのではなかろうか。しかも彼は、ただの飾り者ではなく、自ら最高のホスト役を堂々と演じているのである。加えて当時の外交担当のスタッフも素晴らしく優秀であったと推測される。
 以下、最も注目されるパークスとの謁見を中心にして、少し述べたい。
二、3月25日に行われた内謁見の様子
 初めに断っておくが、この場面は、明治維新史の研究を飛躍的に進歩させた石井孝博士の名著「増訂明治維新の国際的環境」が活写している。冷静沈着な博士が、この場面だけは、謁見に臨まんとする若き将軍慶喜の意気込みと熱意が正に乗り移ったかのような、血湧き肉躍る筆致で記述しているのである。
 筆者は、このくだり、何度読んでも感激の念を禁じ得ない。同じ日本人として、将軍慶喜の心情を思うと、感動と賞賛以外ないからである。 以下、博士のこの名著の一部を数多引用させて頂くが、多分博士も許してくれるのではなかろうか。 引用は585頁から595頁までである。全文の紹介が出来ないのが残念である。尚、筆者の愚かなコメントは( )で行う。
 3月25日の内謁見では、相互の意見の交換が行われた。会談を開くに当たって慶喜はまず、英国女王の健康を尋ねたところ、これに対してパークスは『日本における権威の最高の根源として』天皇の健康を尋ね、次いで将軍に及んだ。(嫌みなパークスらしい返答だが、如才ない慶喜は知らぬふりをして進行する)
 中略 さらに将軍は、遣英留学生や海軍伝習教官の派遣について英国の好意に感謝した。 中略 また慶喜は、蒸気力海軍の建設と関連して、日本の炭層を採掘する必要や、鉄道・電信等のような企業への西洋科学の応用にも触れた。西洋知識の吸収や近代的企業の振興についての慶喜の大きな関心は、さきのロッシュへの諮問と相まって、彼の国政改革への熱意が並々でないことを示す。
 このような会談は1時間半も続いた。それから慶喜の所望によって、パークスを護衛する騎兵の演習が行われた。晩餐は完全に洋式であった。宴たけなわにして慶喜は立ち上がり、英国女王の健康を祝して乾杯を申し出たが、パークスは今度は、『天皇の健康ではなく、大君の健康と共に日本の繁栄を祝して』これに答えたのであった。(慶喜の魅力に参ったパークスは冒頭の発言を大いに恥じたのであろう) 晩餐後、別室でコーヒーが出され、友好的な会話が1時間も続いたという。このようにして内謁見は、なごやかな雰囲気のうちに終わった。(博士が別の著作「幕末悲運の人びと」でも述べているとおり、正に、「ハイカラ将軍の面目躍如たるものがあった」というべき快挙であった)
三、 3月28日に挙行されたパークスとの公式謁見
 小直衣(烏帽子直垂の狩衣姿)に身を包んだ将軍慶喜は内謁見とは打って変わり、厳かな態度でパークスに対応した。
 すなわち、面前に進み出たパークスに対し、立ち上がった将軍慶喜は「我が国の大法を遵奉し、祖宗以来の全権を掌握せしにつき、条約を一々履み行うことを断然決定した」と厳粛に宣言したのであった。 信任状を持たず、しかもマジェスティ(陛下)の称号を敢えて止め、ハイネス(殿下)と呼んだパークスは、眼前で圧倒的な存在感を示す男が厳かに自らが主権者だと宣言したことをどう受け止めたのであろうか? 
 ところで、筆者が分からないのは、慶喜がいつ兵庫開港を宣言したかである。石井孝博士の「明治維新の舞台裏」や松浦玲氏の「徳川慶喜」によれば、公式謁見の際、兵庫開港を宣言した、とある。しかし、先述の名著「増訂明治維新の国際的環境」では、何度読み返しても、公式謁見で兵庫開港を宣言した、とは記されていない。「条約を一々履み行う」と言えば、これは兵庫開港を当然含むので問題はないのだが、やや釈然としない。慶喜は果たして、謁見の場で兵庫開港に言及したのであろうか?それとも、既に幕閣がパークスに内示を与えているので、敢えて兵庫云々には言及しなかったのであろうか?
 
四、四国公使謁見の意義等
 この謁見により、外国(特に英国)の慶喜政権に対する評価が格段と高まったことは
紛れもない事実であった。これは慶喜の外交能力の高さもさることながら、何よりも兵庫開港を率直に宣言したことへの評価と安堵によるものである。
 パークスは、慶喜をハイネスと呼び、信任状も持参しなかった。これは幕府側にとっては大いに不満であり、駐英公使格の外国奉行向山一履は、慶応3年11月、イギリス外相スタンリイに対し、条約にマジェスティとあるのに、なぜ敬称を格下げしたのかと抗議している。 
 しかし敬称問題を除けば、この謁見が対英関係を大いに好転させたことは覆うべくもない事実であった。パークスは慶喜が日本の君主であることを法的に否定はしたが、それは慶喜が日本政界において最重要の地位にあることを否定したわけではなく、かえって彼は、慶喜が日本国内関係の調整に大きな役割を演じるであろうことを期待したのである。(しかしこのパークスの読みが甘かったことは後の歴史が証明している。慶喜はこのとき既に徳川絶対主義を邁進していたからである。)
 パークスが、いかに慶喜に好感を持ったかは彼の言動から明らかである。以下、「増訂明治維新の国際的環境」を再度引用する。
「彼が、ロッシュに宛てた私信に、『大君の城の素晴らしさも、彼の個人的資質について彼がかき立てた素晴らしさを凌ぎはしなかった』から始まって、『この接待は異国的特色を持っているにもかかわらず、全ての点で完全であった』『感情の調和がこの愉快な会見の最も貴重な部分をなしていた』などと最上級の形容詞で慶喜の接待ぶりを賞賛しているのでも分かる。しかしこれは、決してお世辞ではなかった。彼は、外相スタンリイに宛てた通信でも、『大君の外国人に対する友好的意向についてのみでなく、高級の能力と人を引きつける行動・外観についても素敵な印象を得た』ことを語っているからである。」
 日本国内で幾多の政争の修羅場に身を置き、更に、「蛤御門の変」では砲煙弾雨の中を決然と戦った慶喜はその人間的魅力によって、練達且つ気難しい大英帝国の外交官パークスをも信服させてしまってのであろう。
 この謁見の時にパークスが慶喜個人に対して抱いた親愛の感情は、その後、鳥羽伏見の戦いで一敗地に塗れ、江戸に逃げ帰った慶喜に生命の危機が迫ったときに大いに発揮されることになるのは少し後のことである。
五、反幕勢力の見込み違い
 薩摩を始めとする反幕勢力は,慶喜は勅許を得ずに兵庫開港を宣言することはできない、と踏んでいた。そしてこの機を捉えて、幕府の外交権を奪おうと画策していた。しかし、それらは水泡に帰してしまった。慶喜は、勅許なしに堂々と「兵庫は開く」と宣言したからである。ただ、このあと、5月、いよいよ勅許獲得に向けて慶喜の奮闘が始まるのである。
 また兵庫開港による経済的効果は決定的であった。なぜなら、3年もすれば、幕府の関税収入は軽く100万両を超えると見込まれた。また大坂の開市は西国雄藩に絶対的に不利であった。なぜなら大坂は金融の中心であり、幕領である。西国雄藩は多額の借金で大坂の金融資本に首根っこを押さえられていたからである。親仏幕権派の巨頭小栗忠順は、三井、鴻池等の商業資本を動員して兵庫商社の設立を企て、着々と財政面からも徳川絶対主義の基盤を構築するべく計画していた。反幕派は追い詰められてきたのであった。
 
六、執筆後記  そして2枚の写真について
1、 今回は非常に書き辛く、筆が進まなかった。理由は明快である。石井博士の著作が謁見の場面をあまりにも素晴らしく活写しており、筆者如きがコメントする余地はないからである。慶喜の謁見は最近の歴史家にも評価されているようだ(講談社日本の歴史18 開国と幕末変革336頁)。ここで参考文献を挙げておこう。
 石井孝 「増訂 明治維新の国際的環境」「明治維新の舞台裏」「幕末悲運の人びと」
 平凡社東洋文庫「昔夢会筆記」
 松浦玲 「徳川慶喜 将軍家の明治維新」 
  
2、筆者の手元に2枚の写真がある。
 1枚は小直衣を着て、床几に凛と着座する慶喜の姿である。筆者がこの写真を初めて見たのは、新人物往来社が昭和54年、月刊誌「歴史読本」で慶喜の特集を組み、その表紙を飾った時である。以前から慶喜に興味を持っていた筆者は、この写真を見たときから彼の魅力に取りつかれた、といっても過言ではない。ここで読者に見て頂けないのは残念だが、インターネットで調べればすぐ出てくるほど有名な写真だ。イギリスのサットン大佐が3月25日に撮影したものである。私は謁見に臨む若き将軍の勇姿と思っていたが、どうやら謁見の後に撮影したらしい。いずれにしても、凛として辺りを払う威厳と気品、端整な顔立ち、完璧と言うしかない。難を言えばもう少しあごを引いた方が良かった、などと思っている。この写真、欧州で多数印刷されている。
 もう1枚は、羽織袴姿でやはり椅子に座ったものである。3月29日、サットン大佐が撮影している。この写真はやや表情がくつろいだ感じである。公式謁見後の翌日、イギリス近衛第9連隊を査閲する直前のものらしい。大仕事を終えてほっとしたのか、辺りを払うオーラを感じさせるのは相変わらずだが、表情が穏やかだ。
 慶喜は自らの写真を外交に積極的に利用した。ヴィクトリア女王やナポレオン3世とも写真の交換をしてお互いの親交を深めようとした。当時としては日本人離れした発想である。自身の容姿によほど自信があったのであろうか。  興味は尽きない。
 尚、この2枚の写真については松戸市の戸定歴史記念館のホームページを参考にさせて頂きました。多年の疑問が解決しました。ありがとうございます。