最後の将軍徳川慶喜の苦悩 7 兵庫開港布告と勅許取得①

一、初めに
 「貴国との条約を遵守し、断然兵庫を開港する」と四国公使に堂々と宣言したことにより、慶喜政権に対する諸外国の評価は高まった。しかしこの問題について、彼には最後の関門が待ち構えていた。勅許である。
 まず、兵庫を開港するには国内布告が必要で、その期限は、慶応3年12月7日の兵庫開港予定日を6ヶ月遡る同年6月7日と定められていた 。慶喜は勅許を待たずに諸外国に開港を宣言したことを雄藩に非難されたが、彼はその抗弁として、外国に宣言することと国内布告は別であるとの理論を用いた。要するに国際法と国内法という二元的発想である。当時の慶喜が国際公法に詳しかったとは考えられないが、そういうことが瞬時にして分かってしまうのが慶喜の優れた能力であった。要するに対外的宣言と国内布告は別物で、国内布告についてのみ勅許を取得すれば良いという論理である。
 話が遡るが、慶応元年10月、英・仏・米・蘭の公使達を乗せた四国連合艦隊が大挙して大坂湾に現れ、安政条約日米修好通商条約)の勅許及び兵庫開港を幕府に迫った事件があった。このときは禁裏守衛総督であった慶喜の一昼夜にわたる奮闘で勅許をもぎ取り、事無きを得たのであるが、孝明天皇は、兵庫開港は許さなかった(この時の慶喜の奮闘も是非記載したいのだが、彼が将軍になる前の事件でもあり、残念ながら省略する)。孝明天皇亡きあともその遺志は生きており、条約の布告には勅許が必要であるというのが当時のいわば、世論であった。
 ところで、幕末政局の中で度々出てくる勅許なるものは、なぜ必要になったのであろうか 。この点を少し論じてみたい。
二、徳川政権の始まりと幕藩体制 そして天皇
 そもそも徳川政権は、日本全国の土地・人民がほぼ武家の支配に帰していた戦国時代、その始祖家康が戦勝を重ね、最後に武家の優勝決定戦ともいうべき関ヶ原の戦いの大勝利により、圧倒的な権力を手にしたことで開始した武家政権である。徳川政権は、諸大名へ軍役を課し、参勤交代を命じ、しかも大名達を独断で転封・改易することが出来た。またこの政権は、徳川氏及び譜代大名のみが参加でき、外様大名は政治参加を許されなかった。要するに徳川政権は、正に日本史上最強の独裁的武家政権といえた。
 しかし、家康及びそれに続く徳川政権は、圧倒的な権力を手にしたが、絶対的な権力を手にした訳ではなかった。島津氏、毛利氏、伊達氏など嘗ては徳川氏と対等であった有力な外様大名も健在であったからだ。何が言いたいか?
 要するに徳川氏は、日本最大の領主にして日本政府を代表するが、日本全国の土地・人民を直接支配したわけでは無かったのである。圧倒的ではあるが絶対的では無いということだ。ほぼ同時代のフランスのブルボン朝のように国王が全国を支配したわけでは無いのである。
 この日本全国の土地・人民を全ては支配していない徳川氏が日本政府たり得る為には、さらにその上の権威が必要であった。それが天皇である。要するに徳川氏はその政権を開始するに当たって、天皇から征夷大将軍という官職を受任する必要があった。
 例えが可笑しいかもしれないが、ナポレオンは西欧全土を征服して帝位に就いたとき、ローマ法王が持っていた王冠を法王からかぶせて貰うのではなく、いきなり法王から受け取って自分で加冠している。西欧で並ぶ者が無い絶対的権力を得たナポレオンは法王の権威を借りること無く、自らの権威と権力により完結した皇帝として加冠を行おうと考えたのであろうか?
 話が逸れてしまったが、さすがの家康もそんな大胆なことは考えもしなかった。仮に彼が外様大名を全て屈服させ、全国の土地・人民を支配することになれば、彼は天皇から征夷大将軍を任じられる必要もなく、自ら徳川王朝を創設したであろうが、そんなことはそもそもあり得ない。
 要するに江戸に幕府を開き、300諸候を率いるという制度を選択した徳川政権には、その最後の手続きとして、天皇から征夷大将軍に任ぜられることが必須であった。天皇の至高の権威は、徳川氏によって温存されたのである。
 これが、近世武家政治の到達点として確定した幕藩体制であり、250年間もの平和(パクス・トクガワーナ)をもたらすこととなった。
 ところで、この幕藩体制を維持・安定させる為には絶対に必要なもう一つの国策があった。それは鎖国である。なぜなら、諸藩が勝手に諸外国と通商交易をしたのでは、幕府は統一政権としての立場が危うくなるからである。また当時の西欧列強のアジア・アフリカ進出を鑑みれば、日本の独立さえ危踏みかねない状況であった。政治的にも経済的にも、鎖国こそ幕藩体制の要であった(当然のことながら鎖国の決定は幕府の独断で行っている)。
三、ペリー来航による幕藩体制の動揺と勅許の登場
 こうした堅固である筈の幕藩体制を打ち砕く大鉄槌がペリー来航であった。何しろ、想定外の桁外れの軍事力を誇示されては如何ともし難い。ペリーへの対応に自信を持てない幕府は開府以来初めて諸大名に意見を求めた。しかし求めたそのあとどうするのか、という考えも無かったのである。将軍家慶の死と重なったことも幕府には不運であった。
 さらに安政に入り、アメリカといわゆる日米修好通商条約を締結するかどうかも自信が無かった。この条約の締結は日本社会の有り様さえ大きく変えてしまう可能性を抱えていたし、世論も沸騰していたからである。またこの時も不幸なことに決断力のある将軍が不在だった。困った幕府はついに勅許取得という手段に打って出た。要するに天皇の権威を借りて、この難局を乗り切ろうとしたのである。しかし、である。勅許は出なかった。何と250年間も幕府の影響下にあった朝廷が、幕府の意向を無視したのである。幕府にとっては最悪の結果であった。
 これが、例えば同じアジアの同時期のインド、ビルマ、中国、タイ、ベトナムなどは、その政権がいかに弱小であろうと自らの責任と判断で欧米列強に対応する他は無かったのである。なぜなら、その政権自らが国の権威と権力を独占していたであろうからであり、外にすがる権威など無かったからである(尤も、タイ国を除いて全てのアジア諸国が欧米列強の植民地あるいは半植民地と化して、長い間苦しんだことは周知のとおりであるが)。 
 しかし、当時の日本は幕藩体制という、いわば世界でも特異の政治体制を取っており、幕府を上回る天皇の権威を利用して一挙に国論を統一しようとしたのであろう。また実際に外国に対抗するには挙国一致でなければならず、幕府が政治権力を独占してきた幕藩体制の中では、諸大名の政治参加が制度として存在する筈も無い。当時の幕閣も開府以来の難局を打開するには、「禁じ手」と言うべき勅許取得しかないと考えたのであろうか。
 しかし、先述のとおり、勅許は降りなかった。条約反対派が朝廷に入説して、勅許を出さないよう盛んに工作したことや、孝明天皇が稀代の外人嫌いであったことも影響した。いずれにしても、この事件は、朝廷が幕府の統制から離れたことを意味する。以来、政局は江戸を離れ、京都に集まってしまった。朝廷の存在は、その好むと好まざるとに拘わらず、一貫して幕府権力の相対化(弱体化)に作用した。
 困窮した幕府は、井伊直弼がついに勅許無きまま安政条約を締結し、世論の大批判を浴びてしまった。そして、桜田門外の変を経て、久世・安藤政権が崩壊した後、幕府が何ら主体性を欠き、西南雄藩の飛躍を許してしまったのもこの時期であった。
 要するに国政の重要事項について、勅許を得なければならないという慣習は、幕府自らがその先例を作ってしまったのである。
 そして、今最後の将軍徳川慶喜がその慣習に立ち向かわなければならないという皮肉な状況の真っ只中にいたのである。