最後の将軍徳川慶喜の苦悩 4 将軍慶喜の政権構想③そして幕政改革

  一、初めに
 序論①②から分かるように、慶喜が将軍に就任したときの幕府は正に開府以来最低の状態に落ち込んでいたといえよう。これは直接的には、第2次長州征伐の敗北による幕府自身の権威の失墜とそれに伴う求心力の著しい低下によるものである。また慶喜自身が大言壮語したいわゆる「大討ち込み」が無様な中止となったこともその追い打ちとなった。
 対外的に見ると、長州は初めから明快に敵国そのものであり、薩摩も既に反幕行動を取っていた(薩摩は、蛤御門の変で反幕色を明確にしたが、それ以前からも既に反幕的であり、その陰険さは並みではない。この点はいずれ改めて詳述したい)。いわゆる四候のうち、伊予宇和島伊達宗城は以前から薩摩に近い。これは自藩の産品を薩摩を通じて長崎で輸出していたこともその理由の一つである。土佐の山内容堂は義侠心があり、慶喜に同情的ではあったが、藩論が流動的であったし、何しろ容堂は泥酔癖があり(自ら「鯨海酔候」と称していた)、頼りにならないところがあった。最後に福井越前の松平春嶽であるが、彼は元々親藩大名で、いわば慶喜の親戚筋・身内に当たる家柄である。しかし純良で理想主義者の春嶽は度重なる慶喜の裏切り行為にいささか嫌気がさしていた。更にいえば越前藩にしても自藩の生糸を薩摩の資金で買い付け、これを薩摩に売却している。薩摩藩は集荷した品物を奄美の港で外国商人へ売却しているから、越前藩の行為はあくまで合法だが、薩摩の密貿易をいわば黙認していたのである。親藩大名にしてこの有様なのだから、多くの藩が日和見になるのは当然であった。要するに幕藩体制はあらゆる面から崩壊しつつあったのである。
 更に何よりも、前述のように慶喜自身が江戸の連中(大奥、幕臣の大半を占める守旧派)には極めて不人気であった。
 以上から分かるように、慶喜政権は、要するに、今風にいえば最低の支持率から出発したといえよう。こうした、いわばどん底状態の幕府を、慶喜はいかにして立ち直らせようとしたのであろうか?
 
二、将軍慶喜の幕政改革とその政権構想
 まず慶喜は、慶応2年8月20日、「我が意の如く弊政を改革して差し支えなければ」、との条件付きで徳川宗家を相続している。つまり、老中達に、「改革をやるぞ」と予告し、同意と協力を求めたのである。
 しかし、それだけでは、慶喜アレルギーの江戸の連中を味方にすることができないと考えたのであろうか、相続後間もない9月2日、施政方針八ヶ条なるものを自筆でしたため、老中稲葉正邦に示している。その内容は、まず第1条に、「仁をもって政治の目的となす」とあるように、儒教道徳の「仁政」を基本としている。これは要するに、急激な改革を危惧する守旧派に対し、いわば「私は伝統的な将軍だ」と言って安心させ、彼らを宥和させたかったのであろう。第2条以下、人材登用、冗費節約、陸海軍の増強、国際交流、通商貿易、貨幣の純正と続くが、何ら具体的改革の指針は載っておらず、意外と保守的である。
 慶喜が具体的改革を行なったのは、まず、官僚機構の整備である。すなわち、従来の老中制度を廃して、五局制を導入した。これは国内事務、会計、外国事務、陸軍、海軍でそれぞれに総裁を置き、その下に奉行を配した
。いわば内閣制度と官僚制の初期的萌芽である。
 次いで最も大規模にやったのが軍制改革である。幕府は、海軍は初めから近代的組織として整えることに成功した(海軍というものがなかったから)。ついでにいうとオランダに発注した主力艦の開陽丸は、2800トンの堂々たる木造フリゲート巡洋戦艦で,その能力も桁違いに強かった。
 しかし陸軍の近代化は難航した。 慶喜自身、長州征伐の失敗を経験しているので軍制改革は急務であった。その要は、陸軍を歩兵を中心とする徹底した銃隊化にすることであった。旗本達がこれにはかなり抵抗した。刀は武士の魂だというのである。
 総じて江戸の旗本は、守旧派が多く、緊張感がなかった。これに比べ、長州は、四国連合艦隊に下関を砲撃され、砲台を徹底的に破壊、占領されている。銃砲の威力をまざまざと見せつけられたのである。また更に追い打ちを受けるように長州征伐をやられて、生き残る為には勝たねばならない、そのためには、嫌でも銃隊編成にせざるを得なかったのである。また長州は藩を挙げて殖産興業・富国強兵政策を採っていた。いわば一藩絶対主義である。この点、幕府は一歩も二歩も薩摩や長州に立ち後れていたといってよい。その原因は旗本達の危機意識の欠如である。江戸の奥深いところで惰弱な日々を送っていては危機感は育たないのである。従って人材も少ない。慶喜の足を引っ張ったのは正にこうした連中であった。 
 さて陸軍の近代化であるが、慶応2年8月、慶喜が宗家を相続した時点から大規模な軍制改革が始まったが、更に慶応3年2月、慶喜はいよいよ常備軍の整備を開始した(この前提として旗本の軍役は金納となった)。この常備軍が2~3万となれば単独で長州を滅ぼし、薩摩をも沈黙させることができる。要するに、慶喜が将軍に就任する前から親仏幕権派が目指していた徳川による日本統一、郡県制の創設が最終目標であった。
このために、フランスからシャノワン大尉らの軍事顧問団を招聘し、初めは横浜で、その後は江戸で調練を施した。余談だが、この顧問団のひとりブリュネイ大尉はその後、函館まで転戦し、土方歳三らと共に最後まで官軍と戦っている。 
 以上、要するに慶喜が力を入れたのは、行政改革と軍制改革であった。そして彼の改革にはロッシュの示唆によるところが大きかった。事実、慶喜はロッシュに何度も親書を送っており、慶応3年2月の6・7両日、慶喜は多忙の合間を縫って大坂にロッシュを訪ね、内外の問題に対し、彼に諮問している。ここでロッシュは日本近代化の青写真を滔々と披瀝している。
 以上から分かるように、慶喜は随分回り道をしたが、ようやく徳川絶対主義のコースを邁進し始めたのである。彼は常時京都にいて、江戸の改革をやらねばならなかった。この困難さは今日の我々には想像もできない。
 慶喜の改革に対し、政敵達は戦慄した。このまま改革が成功すれば徳川による日本統一が完成してしまうからである。それは当然のことながら、天皇を担いで日本を統一しようとしている長州・薩摩を中心とする敵対勢力は滅びざるを得ないからである。岩倉具視は「果断にして勇決、その志小ならず、軽視すべからざる頸敵なり」と言い、坂本龍馬は「将軍家はよほどの奮発にして平生と異なれること多く、決して油断ならず」。木戸孝允は「今や関東の政令一新し、兵馬の制頗る見るべきものあり、一橋の胆略決して侮るべからず、若し今にして朝政挽回の機を失い、幕府に先を制せらるることあらば、実に家康の再生を見るが如けん」と絶賛している。
 この段階に至ってようやく徳川絶対主義による日本統一コースと、それに正面から敵対する王政復古によって徳川を滅ぼし日本を近代化しようとする天皇絶対主義コース、そして従来の公議政体論による雄藩連合コースの三つの道が、将来の日本の姿として輪郭を表してきたのである。
 以上、どん底状態の幕府を、政敵をしてこのように評価させるまで盛り返した慶喜の政治的手腕は確かに大きかった。
 しかし、彼の改革には様々な困難や問題があった。
まず改革(特に軍制改革)の時間的目標である。本来5年、10年といった設定をして成果が出るような大きな改革である筈だが、敵対勢力がいつ決起するかもしれない状況ではそんな悠長なことは言っておれなかった。急激な改革は怨嗟が伴う。
 また人材不足も深刻であった。前述のように幕臣達は危機意識がないから当然人材も少なかった。それどころか慶喜の足を引っ張った。慶喜のやろうとしていることが幕臣達に理解されていなかったのは、後述する原市之進暗殺事件でも明らかである。
 次いで財政である。慶喜がやろうとしているのは近代的国家の官僚機構と軍隊の整備である。特に新しい陸軍は大変な金がかかったのである。要するに従来の幕府貢租では到底まかない切れるものではなかった。この財源としてフランスからの借款が当てられる予定であった。これは先述したとおり、慶喜が将軍になる前から、小栗らが取り決めたことであった。この借款が幕府改革の頼みの綱であった。
 勝海舟の批評によれば、「怨声沸騰、之が処置をなすこと極めて難し」であったというから、短期的成功がかなり困難な改革であった。
 
三、将軍慶喜の外交
 こうした状況の中で、慶喜は外交に活路を見い出だしたのである。最初の外交デビューとなった大坂城での外国公使謁見から幕末政局の正にターニングポイントとなった兵庫開港が慶喜政権の初めのそして大きなクライマックスとして登場する。
 次回はこのテーマを載せる予定です。