最後の将軍徳川慶喜の苦悩3 将軍慶喜の政権構想②

 また前置きが長くなってしまうが、ここで慶喜の将軍就任までの過程を少し述べたい。
彼はすんなり将軍になった訳ではないからである。
(1)第二次長州征伐が敗北続きの中で将軍家茂が慶応2年7月20日に大坂城で死去した。この未曾有ともいうべき幕府開府以来の危機に対処できるのは慶喜以外にはあり得ないことは誰が見ても明らかであった。しかし慶喜の将軍就任を望まない勢力は幕府部内で充満していた。まず大奥、次いで幕府の大半を占める守旧派、さらには親仏幕権派の官僚達も基本的に反対であった。慶喜は江戸の徳川関係者の間では極めて不人気だったのである。理由はいくつか挙げられる。
 まず大奥。慶喜が将軍になれば、大奥に大鉈を振るい、予算を大幅に削ることは明白であった。慶喜はあの時代に側室を写真で選んだという逸話があるほどハイカラな人で、しかも京都の生活が長い。大奥など全く無用有害な存在であったろう。
 次いで守旧派。彼らは、善良で温和な家茂が大好きで、そもそも、家茂と14代将軍職を巡って争った慶喜はいわば目の敵である。更に家茂が将軍になってからも、慶喜将軍後見職(これは彼が決して希望したのではないが)に就任し、その後は禁裏守衛総督として京都で活動し、守旧派から見れば、全く不可解な行動が多かった。彼らは慶喜を二心殿(彼の当時の呼び名一橋慶喜をもじって言ったもの)とか豚一殿(豚を食う一橋殿)とか呼んで毛嫌いしたのである。まあ、守旧派には、理解不能の人種ではないか。
 最後に親仏幕権派。本来この集団は、慶喜支持であってよい筈である。なぜなら慶喜は頭脳明晰で普遍的な価値を受け入れる柔軟性がある。幕政改革(近代化)にも理解を示し、必然的に開国志向も強い。この派閥にとって,慶喜こそがその頭領として頂くに相応しい人であろう。しかし慶喜は親仏幕権派が江戸で改革をやっている時に京都で政争に明け暮れていた。(望んだわけではないが)慶喜は京都でその地位を固め、江戸幕府から独立したかのような勢力を築いていた。ために江戸の幕府からは、一会桑(一橋・会津・桑名)と言われて、嫌われたのである。慶喜にはそれなりの言い分があるのだが、今のように通信手段が発達していた訳ではない。江戸・京都間では意思の疎通も不十分な時代であった。一直線に徳川絶対主義の道を邁進したい親仏幕権派にとって慶喜のやっていることは幕府の足を引っ張る行為にしか見えなかったのであろう。
(2)このような状況の中で慶喜は、慶応2年7月27日、徳川宗家のみを相続することだけを承認した。つまり将軍職就任を留保したのである。そもそも徳川宗家と将軍職就任を分けるなど慶喜が初めてである。彼は何を考えていたのであろうか?
 以下、彼の将軍就任(慶応2年12月5日)までの行動その他を時系列で追ってみたい。
慶応2年7月29日、家茂の喪を伏せたまま、将軍名代として長州に出陣する旨決定。「大討込」 と称して、山口城まで突入すると豪語した。
8月21日、小倉が陥落して出陣中止を決定した。
8月20日、対仏600万ドルの借款成立。
8月27日、大規模な軍制改革を宣言。ロッシュに親書を寄せ、歩・騎・砲三兵の訓練から大小砲の購入についても周旋を要請した。
8月30日、大久保利通ら在京の薩摩藩士及び岩倉具視は将軍不在の政治的空白を利用して朝廷主導で列藩会議を開き王政復古をなすべく画策。22人の公家に列参を実行させ、朝政の刷新を孝明天皇に訴えさせたが、徹底した佐幕派天皇は激しく怒ってこれを退けた。
9月7日、松平春嶽の要請に応じ、諸大名を召集して政治の大方針を決めようという意見を容れた。理想主義者の春嶽は、以前から雄藩連合論者で勝海舟も同じ意見であった。また大名会議を朝廷が開くことで薩摩藩との宥和も図れると考えていた。
 慶喜は征長戦の休止で出鼻をくじかれ、春嶽に助けを求め、彼の意見を容れたのである。しかし、慶喜が幕府主導で大名会議を開こうとしたので、春嶽は怒って、10月1日、帰国してしまった。用が済んだ勝も江戸に返してしまった
 また朝廷は24藩の大名に対し、大名会議に出席するよう召集をしたが、出てきたのはわずかに5名であった。
9月下旬、親仏幕権派の巨頭小栗忠順が上京。慶喜と面談。
10月16日、慶喜は、数百名の兵を引き連れて堂々と除服参内した。何とこのとき彼は洋装であったらしい。
10月27日、慶喜は、8月30日の列参を行なった反幕派の公家を処分して将軍就任の地盤を固めた。
11月 重要な政治問題について諮問する為、熱海で静養中のロッシュの元へ、平山敬忠らを遣わした。
12月5日、将軍宣下を受けた。
(3) 以上の経過から分かるように、慶喜は徳川宗家相続の段階で、早くも徳川絶対主義に舵を切ったものである。これは、レオン・ロッシュとの遣り取りや江戸幕府の改革全てを取り仕切る小栗忠順が上京してくることでも明らかである。
 慶喜と小栗との会談は、対仏借款の成立の報告及び江戸での改革の進捗状況、今後の政策の摺り合わせ等であったと推測される。ここで慶喜は完全に親仏幕権派を味方にして、その支持を取り付けたものと考える。
 問題は、慶喜が意外にも諸侯の上洛に拘っていた点である。8月段階で既にその意思があったことが最近の家近教授の著書に記されている。これと春嶽に周旋を依頼したこと、更に薩摩側の動きもあって、この大名会議への慶喜の考えが分かりにくい。
 筆者は以前は、長州征伐の失敗を湖塗する為の時間稼ぎに春嶽を利用したものとする松浦玲氏の見解のとおりと解していた。
 しかし、慶喜は、別の目論見があったのではなかろうか。 つまり当時ドン底に沈んでいた幕府の権威を高める為、まず長州に一当て当てて(大討込)、自ら輝かしい戦勝を勝ち取り、幕威をある程度回復させ、しかも自身の求心力を高めた上で大名会議を開き、自らの将軍就任と長州問題等の解決を一気に図ろうとしたのではないか? つまり「諸大名に支持された新しい将軍」というこれまでとは違った新将軍の概念である。しかし初めの「大討込」の中止で、計画が狂ってしまい、春嶽の雄藩連合論に乗ったふりをせざるを得なくなったのではないか?春嶽は慶喜の大名召集を逆手に取って「将軍不在なのだから朝命で大名会議を開け」と迫ったのである。薩摩の大久保らはまた、将軍不在のこの時期に、薩摩藩主導にて大名会議を開き幕府の主導権を奪ってしまうよう画策していたのである。
 しかし、である。大名は集まらなかった。幕末の政局は朝廷という超越的権威が登場するので対立軸が分かりづらくなりがちだが、冷静に考えれば、これは徳川と薩摩・長州との政治力学の勝負なのである。徳川の力が圧倒的であればそもそも大名会議など不要である。幕府の力が相対化して衰えた今、諸藩は迂闊に乗ってこないのが冷徹な現実であった。
 慶喜は結局、親仏幕権派の上に立って徳川絶対主義を邁進する決意を固めたのであろう。そのためには一度征夷大将軍という古い幕府の頂点に立つ必要があったのである。そして、孝明天皇の大きな支持もその求心力を高めたのであった
  前置きが長くなってしまった。慶喜のことになるとどうしても熱くなってしまう。次回はようやく本題の政権構想にこぎつけそうだ