最後の将軍徳川慶喜の苦悩2 将軍慶喜の政権構想①

1 初めに
 ペリーショック以来、日本の進むべき道は限られていた。それは好むと好まざるとに関わらず、近代化という後戻りできない行程である。では近代化とは何か?それは言うまでもなく産業革命を経て圧倒的な国力を有するに至った欧米列強と同様な国家を建設することであった。具体的には、殖産興業・富国強兵である。特にペリーショックによって鎖国の重い扉を開扉させられた日本にとって、富国強兵こそが最優先の課題であった。当時のアジアは、インドがイギリスの支配下に置かれ、清国も欧米列強によって半植民地化され、インドシナはフランス、インドネシアはオランダの植民地となり、かろうじて、日本とタイ国のみが独立を維持しているという有様であった。
 富国強兵を断行する為には旧来の幕藩体制では立ち行かないということは、(封建制にしか価値観を見い出せない頑迷固陋の守旧派や極端な攘夷思想で眼が曇っていない限り)当時の識者なら知っていた筈である。特に実際に行政を担当し、外交に直面している幕府の首脳にとっては切実な問題であった。賢明な徳川慶喜が、こうした状況を把握していなかったとは到底考えにくい。
 
2 将軍慶喜の政権構想
慶喜は慶応2年12月5日、15代将軍に就任した。このとき彼はどのような政権構想を持っていたのであろうか。 
 その前に、彼が京都で政争に明け暮れていた頃、江戸ではどのようなことが進行していたのかを改めて確認してみたい。
 久世・安藤幕閣退陣後の幕府は全く主体性を欠き、西国雄藩が着々と実力を蓄えていくのをただただ傍観するのみか、尊攘派の行動に振り回されるだらしなさであった。
こうした危機的ともいえる状況の中で、幕府にも新しい勢力が台頭してきた。いわゆる親仏幕権派という勢力である。この言わんとするところは「現下の幕府は諸大名の言いなりである。このままでは諸大名に使役されてしまうであろう。この際断固として幕権を奮い起こし日本を幕府の手で統一するべきである」という考えである。
 小栗忠順、栗本鯤、山口直毅、向山一履、平山敬忠らがその中心人物であった。彼らは等しく優秀で実務能力に長けていた。また幕府独裁を主張する点で守旧派の支持も得られ易かった。最末期の幕府をリードしたのはこの集団であった。ここで彼らの実践した政策を少し確認してみよう。
 文久2年12月、幕府は軍制改正を布告し、歩・騎・砲の三兵を創ることを決定した。これは不十分ながら、従来の兵制から近代的兵制への転換を図るものであった。
幕権派の台頭はこの頃からだと推測される。
 また文久3年6月、この出来たての歩・騎兵約1500名を引き連れて老中格小笠原長行らが行なおうとした尊攘派打倒・京都制圧計画も、結局は失敗したが、幕権派の動きが噴出したものであった。
 次いで、慶応元年1月、フランスとの間で横須賀製鉄所(造船所)の建設契約が成立した。これには前年3月、駐日公使として着任したレオン・ロッシュの協力によるところが大であった。ロッシュはイギリスの勢力に対抗すべく、幕府への働きかけを積極化した。ロッシュ着任以来、幕権派はフランスの援助を頼りに幕府の権力を強化して徳川絶対主義に邁進することになるのである。いわゆる親仏幕権派の形成である。
 ところで、軍制改革にも製鉄所建設にも多大な資金が必要であったが、当時の幕府は極端な財政難に喘いでいた。そこで頼みとするのは借款であった。これは、最終的には慶応2年8月に600万ドルの借款契約として成立した。正に慶喜が徳川宗家を相続した直後であった。小栗が9月に上京したのはこの報告と今後の政策の摺り合わせの為だったと推測される。
 このほか、流通機構の把握、日仏巨商による貿易商社の設立から中央銀行の創設までも検討していたという。また幕府は生糸を優先的にフランスに輸出させる計画を練っていた。これは19世紀にフランスの養蚕業が病気で壊滅的な打撃を受け、日本蚕種のみその移植が成功を納めたことによる。幕府側からすると勿論、フランスによる軍事的援助に対する代償である。
 以上の政策を実質的に指導したのは実に小栗忠順であった。彼は、当時の武士にしては珍しく経済政策に詳しく、流通の仕組みなどを正確に把握していた。
 要するに彼ら親仏幕権派が目指すものは、徳川絶対主義による廃藩置県、郡県制の創設であった。これは勝海舟が久しぶりに登城した慶応2年5月、小栗自らが勝に語ったことからも明白である。
 ところで横須賀港には小栗忠順とヴェルニーの銅像が建っている。フランス人技師ヴェルニーが、横須賀がツーロン港の地形に似ているということからこの地を選んだことによるが、横須賀は軍港としてその後大いに発展した。小栗はいわば横須賀いや三浦半島発展の恩人ともいえる人である。彼の政策は後の明治政府が行なったことを先取りしたものであり、最末期の幕府を支えた悲劇の英雄というべき人だ。
 
次回は、本題の将軍慶喜の政権構想を載せる予定です。