最後の将軍徳川慶喜の苦悩 1

 大政奉還した将軍慶喜は、新たな政治体制を模索していた。フランス留学から帰国した西周らに命じて、ルイ・ナポレオン大統領制をモデルにした立憲君主制を研究させ、自らはその首長に収まることが目標であった。
 大政奉還をしてしまえば、古い幕府はもう存在しない。考えによっては、フリーなスタンスで新体制を築くチャンスでもあった。要するに、大政奉還したあとも、日本の行政を把握しているのは慶喜政権である。「返す」と言ったから、すぐ行政権を投げ出す訳ではなく、返された方も、行政能力がある訳ではないからである。つまり慶喜は、自己を中心とした新たな統治機構を創設するまでこの状況を守りきれば良かったのである。
 後年、慶喜の閣老であった板倉勝静が、「上様は土佐藩に迫られてよんどころなく大政奉還をしたのではなく、たまたま土佐藩の建白があったのを好機にして、平生十分に引き絞っておいた強弓を放ったのだ」と述懐している。しかし、この大政奉還に対する期待と思惑は、慶喜側と反対勢力とでは真逆であったのだ。
 薩摩藩を中心とする反対勢力は、このままでは近代化の主導権は、慶喜側に持って行かれてしまうということが、時間が経てば経つほど分かってきたのであろう。 そこで反対勢力が打った手が、いわゆる王政復古のクーデターであった。
 次回以降、不定期での連載を考えています。それも時系列ではなく、年代が戻ったり飛んだりします。ただ、概ね次のようなテーマで論じたいと考えます。
     将軍慶喜の幕政改革と政権構想
   大政奉還後の政治状況
   王政復古のクーデター前夜の慶喜の行動と心境
   クーデター政権への慶喜の対応と薩摩の挑発
   開戦と敗北
   兵庫開港問題における慶喜の奮闘
   京都撤退の評価
   東帰後の行動と心境
   その他
 以上を考えております。