我が心のジャイアント馬場

忘れもしません。昭和43年1月3日、私が高校1年生の時です。親父が新聞を見ながら「おっ、ルー・テーズが来ているぞ、ちょっと見てみようか」と言ったのです。「ルー・テーズ」、オールドファンなら誰一人知らぬものはいないプロレスの王者です。常に「地上最強の男 鉄人ルー・テーズ」と称されました。力道山と死闘を演じ、ファンの胸に長く記憶されたレスラーでした。ただもう大分お年のはずです。そのテーズが日本に来ているのでした。日本プロレスを脱退した人達が作った国際プロレスという組織をTBSがバックアップして水曜の7時から毎週放映を始めることになり、その旗揚げ試合でテーズを呼んだのですね。対する相手はグレート草津、全く名前も聞いたことがありません。
 この試合は今でも鮮明に覚えています。草津は時折タックルを繰り出すものの、ほぼヘッドロックでテーズに捕まっているだけで、ワザらしいワザがほとんどありません。
テーズ必殺のバックドロップ一閃、草津はあえなくマットに沈みました。そして何と2本目も起き上がれず、試合放棄で2-0でテーズがストレート勝ちしました。私は以前と変わらないテーズの圧倒的な強さに驚き、力道山死後見ていなかったプロレスを再び見始めました。 国際プロレスは、スターにしようとしていた草津が旗揚げ試合で負けてしまったので、やや困ったのではないでしょうか。後年テーズは、「相手に1本取らせてやるかどうかは相手の力量による」と語っています。まあ草津も相手が強すぎたのですね。
 ところが、です。同じ日の1月3日、すぐ近くの蔵前国技館で世紀の大一番が行われていました。今もプロレス史にその名を残すジャイアント馬場クラッシャー・リソワスキーの時間無制限1本勝負です。この試合、遺恨試合だったのですね。固唾を飲んで見守る大入り満員のお客さんの期待を満足させ過ぎるほどの熱戦でした。血だらけの馬場がクラッシャーを32文ドロップキックでKOして決着したのです。このときのリソワスキーが控え室で徳光アナの差し出すマイクに噛みつくシーンは度々放送されて、見た人も多いのではないでしょうか。
 このリソワスキーというレスラー、あまり上背はないのですが、髪型をGIカットにして、素晴らしい体つきをしているのですね。しかもワザを出さず、もっぱらパンチとキックだけで馬場を痛めつけます。ふてぶてしい表情で、もう悪役の貫禄そのものです。しかもどこか憎めない顔をしているのですよ。この、「どこか憎めない」という要素は悪役レスラーに必要な要素ですね。憎らしいだけではそれこそ憎悪となって見ている方もつまらないんですよ。まあ彼は理想的なヒールだったんですね。馬場のやらっれっぷりがまた最高でした。
 クライマックスは、リソワスキーがトランクスの中からなにやら凶器を出すんですね。それも後年のブッチャーがやったような、えげつないフォークなどではなく、多分、麻かなんかを固くして巻いたようなものでしょうかね。「メリケンサック」と呼んでいました。これを手に巻いて、ロープに飛ばした馬場が戻ってくるところを思い切りひっぱたくんですよ。もう場内は興奮の坩堝でした。やりたい放題でしたね。しかしクラッシャーが、完全にダウンした馬場をフォールしたときに、肝心のレフリー、沖識名がリング下に落ちていていないんですね。そうこうしているうちに、蘇った馬場が反撃してリソワスキーをやっつけたんですよ。まあプロレス全盛時代の古き良き試合です。
 ところで何が遺恨だったか?それは前年の12月6日に遡るんですよ。リソワスキーが突如、疾風のように来日して、馬場のインターナショナル選手権に挑戦したんですね。この試合も素晴らしい試合でした。もうリソワスキーがやりたい放題なんですよ。馬場のやられっぷりも最高に良かったですね。試合は馬場が勝つんですが、リソワスキーの強さを存分にアピールした試合でした。しかも、判定に不服のリソワスキーは、当時のコミッショナー自民党副総裁川島正次郎氏に抗議して、「俺が勝った」と執拗にアピールするんですね。結局、ベルトはコミッショナー預かりになって6ヶ月以内に再戦することになったのですよ。これが伏線だったのでしょうか。
 老舗の日本プロレスは、この遺恨試合を正に翌年の1月3日にぶつけてきたのですね。前年の遺恨があるので、もうプロレスファンはリソワスキーと馬場の決着戦で大いに盛り上がりました。観客動員数もこちらが上回ったようです。
 我々は当時そんなことは知る由もなく、ただ、馬場やテーズ、クラッシャーなどに熱狂していたのです。このときから、私はジャイアント馬場が亡くなるまで、馬場さんの熱狂的なファンでした。 
 ジャイアント馬場の魅力とは何でしょうか?これは私もよく分からないんですね。ただ、馬場という人は、見ている者に不思議な安心感を与えるんですね。多分、馬場のファンは、皆同じ思いだったのではないでしょうか。また、格闘家はその肉体が衰えると人気も下降するのが普通ですね。しかし馬場さんは体力のピークを過ぎてからも人気が衰えることがありませんでした。ファンは皆、馬場がリングに上がっているだけで、喜びかつ勇気付けられました。まあ、稀有な存在ですね。やはり、人柄でしょうね。
 ここで、我がジャイアント馬場の激闘を彩ったスター達を紹介したいと思います。
①まずはジン・キニスキー 
荒法師といわれ、無類のタフネスを誇った世界チャンピオン。馬場との試合はいつも長時間ファイトになり、観衆を存分に喜ばせた。時々ロープを利用した反則をしてお客さんを沸かせた。
②次は、ブルーノ・サンマルチノ 
アメリカ時代からの馬場の親友にして最大のライバルだった。人間発電所・ニューヨークの帝王などと呼ばれ、凄まじいパワーファイトが武器だった。馬場をロープに飛ばして、戻ってくるところを必殺のベアハッグで締め上げると、もう馬場がメチャクチャ苦しそうな顔をした。
③ ボボ・ブラジル
黒い魔神と呼ばれ、必殺のココバットを駆使して、馬場を大いに苦しめた。忘れもしないが、名古屋で馬場のインターに挑戦し、1対1のあとの三本目、頭突き2発からココバット一閃、馬場をマットに沈めた。インター連続防衛記録がここで止まった。
④ フリッツ・フォン・エリック
ふてぶてしく自信に満ちた表情で登場するとそれだけで絵になった。またエリックはどこか知的な雰囲気を漂わせていた。これがまた良かった。得意は、そのニックネームでもある「鉄の爪」といわれた必殺のアイアンクロー(顔面掴み)一本である。もう、ルール無視の巨大な侵入者そのものであった。見せ場はエリックがアイアンクローを掛けようとし、馬場がそれを防ぐ、この一点に観衆の目が集中した。たしか、日本武道館で行ったプロレス第1号ではなかったか?最高に客を呼べるレスラーだった。
⑤他にも、ザ・デストロイヤーキラー・コワルスキーディック・ザ・ブルーザー、ウィルバー・スナイダー 、ダニー・ホッジ、ドン・レオ・ジョナサンなど皆、素晴らしかった。
 もう、このような試合は望めませんね。私たちが熱狂した昭和のプロレスは過去のものになったのです。しかし、 ジャイアント馬場の勇姿はいつまでもファンの心に記憶されています。