最後の将軍徳川慶喜の苦悩 16 参考文献

一、著作
歴史読本 特集 最後の将軍徳川慶喜 昭和54年4月号  新人物往来社
 この雑誌こそ筆者を徳川慶喜に誘った(いざなった)記念すべき一冊だ。興味深い記事満載でしかも巻頭の写真に仰天した。何しろ慶喜が近代的な顔立ちの二枚目だったからだ。松浦玲氏の論文が素晴らしく、比屋根かをる女史の短い文章も慶喜ファンであることが切々と伝わった。また、何よりも後で紹介する河合重子女史はここで初めて執筆したということが、彼女が監修した「微笑む慶喜」の監修者紹介欄で語られているが、私はその文章を明確に覚えていてこの拙書にも引用させてもらっている。何か運命を感じるほどだ。
松浦玲 徳川慶喜 中公新書
 筆者の慶喜論はこの著書の影響大だ。コンパクトにまとまっていて分かりやすい。ただ紙面の関係か、王政復古以降の記述がやや手薄く、残念だ。
石井孝 増訂明治維新の国際的環境 吉川弘文館
 不朽の名著である。慶喜大坂城でパークスを謁見するシーンなどは何度読んでも感激で涙が出てしまうほどだ。
石井孝 明治維新の舞台裏 岩波新書
 国際関係に視野を広げたコンパクトな名著だ。筆者はこれを読み過ぎてボロボロになってしまった。岩波書店に在庫を尋ねたら「なし」、「再版の予定もなし」ということである。
石井孝 幕末悲運のびと 有隣新書
 志敗れた悲運の人々四人、岩瀬忠震孝明天皇徳川慶喜小栗忠順を簡潔に扱っている。石井博士は、慶喜が徳川絶対主義をやろうとしたことに確信があるらしく、鳥羽伏見の戦いもその線で押している。しかし慶喜にそれほどの執念があったのかは推測しかねる。また鳥羽伏見の戦いは日本戦争史上、(幕府側の)最も杜撰な作戦であったので、博士の主張にはこの点では若干の違和感を覚える。
家近良樹 徳川慶喜  吉川弘文館  
 筆者の資料はやや古いものが多かった。この著作は最近の研究の成果を取り入れており、特に慶喜が将軍に就任する直前の行動など、筆者はこの著書で初めて知った。ただ、慶喜が鳥羽伏見で負けたのは尊皇精神のせいだなどと白ける記述も多い。
野口武彦 慶喜のカリスマ 講談社
 これも比較的新しい、ユニークな著書である。
野口武彦 鳥羽伏見の戦い 中公新書
 この戦をまるで観戦しているような臨場感に溢れた著書である。幕府側の無策がひたすら浮き彫りにされて消化不良を起こしてしまうほどだ。
河合重子 謎解き徳川慶喜 草思社
 事実関係を丹念に調べてあり、何よりも慶喜に対する愛情一杯の著書である。
女史が歴史読本に掲載した西周からフランス語を習うくだりは拙書の第六話で引用させていただいた。
井上勝生  開国と幕末変革 講談社 日本の歴史18
 最新の幕末歴史研究の水準を示している。
町田明広 グローバル幕末史 草思社
 幕末の武器購入事情などを記述しており参考になった。また薩摩藩士の意識の高さを痛感した。
佐藤泰史 あの世からの徳川慶喜の反論 東洋出版
 この著者、公安調査庁に勤務していた経歴からか徹底的に事実関係の整理に終始している。薩摩藩江戸屋敷焼き討ちの知らせが大坂城に届いたのは、通説の慶応3年12月28日ではなくて、30日だということを科学的に論証しているが、筆者もこれに与するものである。
井上勳 王政復古 中公新書
 12月9日のクーデターに到るまでの過程を日々克明に刻んでいる。ただ結語で王政復古の宣言は近代日本の出生証だとしているが、第八話でも述べたとおり、筆者はこれには与していない。
芝原拓自 世界史の中の明治維新 岩波新書
佐々木克 戊辰戦争 中公新書
毛利敏彦 大久保利通 中公新書
大久保利謙 岩倉具視 中公新書
馬場宏二 神長倉真民論 開成出版
 在野の学者にスポットを当てたものだ。対仏借款についての言及があり、興味深い。
比屋根かをる 将軍東京へ帰る 新人物往来社
 フィクションで、身近に仕えた老女須賀の名を借りて、引退後の生活を中心に描いている。しかし、慶喜の心情を、正に痒い所に手が届くほど描いている。事実関係の確認も正確で、女史が慶喜ファンであることが切々と伝わってくる。
二、論文
高橋秀直 公議政体派と薩摩討幕派 王政復古クーデター再考 京都大学
 第六話で紹介したが、この論文に接したときは感激以外なかった。石井博士の「明治維新の国際的環境」以来の幕末維新史の新たなページを飾る傑作論文そのものではなかろうか。筆者が多年疑問に思っていたことがほぼ氷解した。また幕末世論をリードした「公議世論」と「天皇原理」という考え方も分かり易い。
 クーデター政権内部で、必ずしも討幕派の主張の通りではなく公議政体派が巻き返しをしていたことも興味深い。また岩倉が容堂を叱責したという逸話はのちの虚構だというのも面白い。
柴田三千雄・柴田朝子 幕末におけるフランスの対日政策 「フランス輸出入会社の設立計画をめぐって」
 対仏借款の構造を知りたくて、国会図書館に登録してまで入手した論文だが、結局大したことは分からなかった。この件は、フランス側のソシエテ・ジェネラールが議事録を開示して呉れればかなり解明される筈だが、全くその意思はないらしい。
三、資料等(第一次資料、第二次資料)
渋沢栄一編 徳川慶喜公回想談 昔夢会筆記 平凡社東洋文庫
 明治になって、慶喜が当時の一流歴史学者の質問に答えるという形式で何度か催された会である。賢い慶喜は核心の部分になると、とぼけたり沈黙したりして語らない。いかに優秀な歴史家達も、正に歴史の生き証人・前征夷大将軍には聞き出せないことが多かったのではないか。
松戸市教育委員会編 「徳川昭武滞欧日記」 山川出版社
 第五話でも紹介したが、将軍慶喜から弟昭武への二通の手紙が披露されている。
日本史籍協会叢書 「川勝家文書」 東京大学出版社
高橋敏 小栗日記を読む 岩波書店
 この書籍を購入した最大の収穫は第四話でも指摘したが、慶応3年7月18日に、ロンドンから向山一履が小栗に宛てて電報を打ったことが記載されていたことだ。
 また。幕府は最幕末になると、江戸と京都で、いわば二つの政権を維持しており、その意思疎通が困難であったことがこの日記から浮き彫りにされる。やはり慶喜は京都で宮廷工作に明け暮れるのではなく、一日も早く関東に帰り、この地で行財政改革を徹底して行ない、鉄壁の体制を築いた方が良かったのではなかろうか?などと考えてしまう。
四、その他
戸張裕子 河合重子(監修) 微笑む慶喜  草思社
 主に隠居後の慶喜の写真集とその解説である。一枚だけ微笑んでいる写真がある。こういう慶喜に接すると筆者も無性に嬉しくなる

最後の将軍徳川慶喜の苦悩 14 鳥羽伏見の戦いと徳川慶喜の敗退

一、薩摩系浪士による江戸市中及び関東一円の騒乱行為そして薩摩藩江戸屋敷焼き討ち事件
 (あまりにも卑劣な行為なので)筆が進まないが、鳥羽伏見の戦いのまさに導火線となった一連の事件であり、避けて通る訳にもいかない。少し述べてみよう。
 西郷等は京都で予想される来たるべき幕府との戦争に備えて、関東一円の騒乱行為を早くから画策していた。手回しの良い西郷は早くも慶応3年10月には500人規模の浪士を関東に潜入させ、騒乱行為の準備を始めていた。この実戦隊長は、有名な益満休之助と伊牟田尚平であった。その目的は騒乱行為を行なって社会不安を増幅させること、更に大きな目的は幕府を挑発し、幕府側から戦争をやらせることであった。
 慶応3年11月中旬から浪士隊は挑発行動を開始した。数十人規模の武装した浪士が毎夜のように江戸の富豪や豪商に片っ端から押し入り、数万両規模で強奪するのだった。何の罪のない江戸町民が多数惨殺されたのは言うまでも無い。彼ら無頼集団には以下三つの特徴があった。その一 「御用金を申しつける」と口上する その二 薩摩訛りの者がいる その三 逃げ込み先が決まって三田の薩摩藩江戸屋敷である、ということだった。
 江戸町民はこの無頼集団を「薩摩御用盗」と呼んで恐れた。日本橋などの繁華街も夜になると灯が消えたように人の往来が途絶えてしまった。
 百万都市江戸の治安が悪化したのではたまらない。幕府は庄内藩に命じて江戸市中取り締まりを行なわせたが、薩摩藩を刺激したくない幕府は取り締まりを慎重に行なうよう厳命したので抜本的解決にはならなかった。
 挑発に乗らない幕府に業を煮やした浪士達は騒乱行為を関東一円に拡大した。
11月29日、薩邸から出発した浪士達は、野州出流山で薩摩藩旗を翻し、数百人規模で勤王討幕の決起をして、辺り一帯を荒らし回り金穀を強奪した。
12月11日、関八州取締出役渋谷和四郎等が中心となって浪士達を鎮圧、多数捕縛したが敗残兵は薩邸へ逃げ込んだ。
 次いで12月15日、甲府城乗っ取りを目指して薩邸を出発した浪士の一団は八王子で急襲され四散。同日、別働隊が相州山中藩の陣屋を襲撃して放火したが、小田原藩兵に鎮圧され、薩摩江戸屋敷に遁走した。
 野州等での騒乱行為が鎮圧されると浪士達は再び江戸での騒乱行為を激化させた。
12月22日、庄内藩の屯所に鉄砲を撃ち込み、更には翌12月23日、江戸城二の丸に放火するに及んだ。また同日、渋谷和四郎他の関八州取締出役の役宅が浪士等に襲撃され、家族が殺害された。これは野州出流山挙兵を鎮圧したことへの卑劣な報復であった。
 これら一連の挑発行為にたまりかねた幕府側は、遂に薩摩藩江戸屋敷を包囲し、罪人の引き渡しを要求し、これが拒否され決裂するや、薩摩屋敷を攻撃した。激しい銃撃戦になり、薩摩藩士及び薩摩系浪士達は命からがら品川沖から薩摩藩の軍艦に収容されて大坂に向かった。薩摩側の死者は49人であったという。
 以上が有名な薩摩藩邸焼き討ち事件の大凡(おおよそ)である。
この知らせが慶応3年12月30日(28日という説もあるが30日が正しいのではないか)に大坂城にもたらされると、城内は興奮の坩堝と化した。幕臣ほぼ全員が薩摩討つべし!と叫び、大坂城は打倒薩摩一色と化し、さすがの慶喜も手がつけられない状況となったのである。
 西郷が目論んだ挑発が見事に成功した瞬間であった。これほどズバリ上手くいった後方作戦は日本史上存在しない。しかしまた、これほど卑劣な攪乱行為も日本史上稀と言うべきである。目的の為には手段を選ばない西郷吉之助の陰湿な一面が垣間見える。
二、仮説 慶喜の選択肢
 松浦玲氏が徳川慶喜をコンパクトに評伝した中公新書の「徳川慶喜」によれば、クーデター政権に対する慶喜の対応は三つあった、としている。
その一 クーデター政権を武力により叩き潰すこと
その二 クーデター政権に割り込むこと
その三 一切の挑発の乗らず、クーデター政権の自壊を待つこと
 これらが選択肢だとしている。筆書も長年そう思っていた。
そして松浦氏は、一を選択したならクーデター政権(天皇政権)そのものを敵とすべきである、という。「薩摩などに担がれた不明の天皇を懲らしめ奉る 」という大義名分を押し立てるべきだった、というのだ。要するに承久の故事に学ぶ、ということである。そして二を選択したなら、慶喜は殺されてもいいから丸腰で上京すべきだった、としている。最後に松浦氏は、三の選択がベストであった、としている。筆者も長年松浦氏の説を支持していた。しかしこのようないささか教室説例的な回答では解決不可能だということが最近分かってきた。
 そこで、慶喜が議定就任の請書を出した慶応3年12月28日現在の段階でこれらの選択肢を検討してみたい。
 まず一の選択肢である。筆者はこれが一番だと長年思っていた。この最大の障害は慶喜自身の思想的克服のみ!と考えてきた。つまりセンチメンテルな尊皇思想を捨て、自らが日本近代化の全責任を負う覚悟を示す戦いをすれば良かったということであろうか。その究極の選択は、幼帝を廃し輪王寺宮を新天皇に擁立することも視野に入れた京都進軍である。 思想的には最高にスッキリする。これだと朝敵になろうと錦旗が出ようと全然お構いなしだ。フランス式軍装に身を固めた慶喜自らが幕府歩兵を率いて断然京都に進撃して御所を制圧し、反対派を一掃して新人事を断行するまでのことである。
敗れた薩摩の大久保や西郷は内乱罪で極刑は免れない。討幕の偽書という史上空前の偽造公文書を作らせた岩倉も、(公家なので死罪は免れるが)鬼界ケ島に終生遠島である。想像しただけでも痛快だ。
 しかしこの選択肢は事実上不可能だ。当時、クーデター政権は容堂や春嶽の公議政体派が勢いを盛り返し、薩摩討幕派は孤立状態であった。公議政体派は慶喜を議定に就任させるべく周旋の努力を重ね、ようやく12月24日、慶喜の議定就任が三職会議にて決定し、納地問題も曖昧になった。要するに公議政体派が尽力して慶喜の京都政界復帰を決めた12月28日段階で、クーデター政権そのものを叩くことになれば春嶽や容堂の努力を無視することとなり、その後の大事な政治上の味方を失うことになる。これでは将来の見通しが立たなくなる。だから慶喜は議定就任を受けた時点で、天皇政権そのものを敵とすることは不可能となったのである。ここに薩摩を叩く選択肢が極めて狭かったことが窺われよう。慶喜は戦争をやるにしてもクーデター政権そのものを叩くのではなく、あくまでも「君側の奸薩摩を除く」という限定戦争をやる以外になかったのである。
 では第二の選択肢、京都政権への割り込みは可能だったのであろうか?
難しいことに春嶽ら公議政体派は様々な条件を慶喜に突きつけている。まず軽装で上洛すること、次に毛利大膳親子の官位復帰と同時に議定就任すべきことなどである。後者はまだ我慢出来るとして、軽装での参内など実際出来たであろうか?
 何故なら、慶応3年10月段階では上方徳川勢の殲滅を視野に入れて討幕運動をしていた薩摩の軍兵数千が完全武装して京都に充満しているのである。いわば慶喜を殺そうとしていた連中である。そこに丸腰で来い!というのはいささか非現実的である。春嶽等は一体何を考えていたのであろうか?議定就任のため上洛するにしても薩摩等武装藩兵の解兵が条件であり、それに薩摩が応じなければ(応じるはずがない)、軽装での上京など現実問題として不可能そのものであったというべきであろう。
 最後に第三の選択肢である。しかしこれも非現実的である。公議政体派から上京命令が出ているまさにその時、これを無視して大坂に居座り続ければ、固唾を飲んで見守る諸藩世論は、慶喜に失望するであろう。政局は日々変化する。これも出来ない相談である。
 ならばどうすれば良かったのか?「歴史にタラは無い!」のだが、一度位はシミュレーションすることも許されたい。
 まず確認したいことは、、春嶽等の努力で慶喜の議定就任が決まり、慶喜が請書を出した慶応3年12月28日の時点を想定したい。
 慶喜はどう対応すべきであったか。
あくまで軽装にて上洛するのなら、御所を固める薩摩藩兵等の解兵を要求すべきであった。そして薩摩等がこれを拒否した場合(拒否するに決まっている)、次の二つの方法が考えられる。
その一 まず薩摩相手に限定戦争を仕掛ける方法、
 しかしこの場合、今まで有利であった大坂割拠が却って思想戦においてはハンデとなる。なぜなら大坂から京都に進撃するので朝敵となり易いからである。では朝敵とならずに京都に進撃するにはどうするか?京都は七つ口と言われるように進入路が七つある。だから何も鳥羽街道伏見街道の二本だけを愚直に進むのではなく、宇治街道・山崎街道・丹波街道など複数の進入路から京都に進撃すれば良いのである。
 しかしこの作戦を採ったとしても、京都に到着した後、御所を直接包囲するのかあるいは薩摩屋敷を包囲襲撃するのかはたまた二条城に一旦入るのか?その戦略をしっかりと決めておかないといけない。慶喜は京都進撃の難しさを直感していたのであろうか。しきりに禁闕に向けて発砲するな!と諭している。
その二 これが究極の必勝法である。
 大坂城に割拠して、薩摩を中心とする御所を占拠した兵力の解兵を断固要求するまではその一と同じであるが、上洛を急がないのだ。まず、京都への兵糧を遮断・妨害し、京都政権の干上がりを狙う。解兵に薩摩が応じない場合は以下の手段を取る。
 それは、東洋一と謳われる精強海軍を動員し、榎本武揚麾下の開陽丸他幕府戦艦打撃軍が薩摩の本国鹿児島に遠征、艦砲射撃を繰り返すのである。開陽丸の主砲の射程は3900メートルであり、鹿児島城の本丸も危ない。場合によっては陸戦隊を上陸させても良い。更に返す刀で馬関に立ち寄り、下関にも激烈な艦砲射撃を敢行する。これには薩摩も長州も手も足も出ない。地団駄踏んで悔しがってもどうにもなるまい。一方慶喜大坂城を一歩も出ない。大坂城は薩摩も長州も全く攻撃できない。仮に怒りに任せて攻めてきたら、幕府歩兵の精強伝習隊が出撃してこれを撃退する。その時こそ慶喜は薩摩排除の限定戦争をすべく自ら全軍を指揮して上京すれば良い。
 この進軍には、クーデター政権側は、錦旗も出せないし朝敵にもし難い。慶喜ワンサイドゲームとなろう。
 まあ、歴史に「タラ」はないから架空の戦略でしかないが。
三、クーデター以降の京阪の緊迫した交渉と綱引  
 シミュレーションはこれくらいにして現実世界に戻りたい。例によって時系列で事実関係を整理しながら若干のコメントを付していきたい。先号と重複する部分は簡単にした。
慶応3年12月12日、慶喜、二条城を退去し、下坂。翌13日大坂城に入城。
12月14日、老中板倉は、徳川家安否分かれるところとして、ただちに兵隊・軍艦とも在り合わせのものはすべて海路で大坂へ送るようにとの「ご沙汰である」、と江戸の老中に要求した。
12月16日、慶喜、六カ国公使を引見。成功裡に終わる。
同日、永井上京し、春嶽・後藤と会談。納地問題について公論で決定することに合意。岩倉も同意する。
 先号で述べたとおり、岩倉は12月13日、大久保の決意を打診し、慶喜が納地を拒否した場合、あくまで武力討伐を行なうのかそれとも尾越の周旋に任せるのを問いただし、大久保は意外にも後者を選んでいる。この遣り取りを前提にすれば、岩倉は春嶽等の意見に同意するほかなかったのであろう。
12月18日、永井、下坂。
12月17日、慶喜、「挙正退奸の表」を朝廷へ奏上。以下のとおり
「宇内の形勢を熟察し、政権一に出でて、万国並立の御国威を輝かさんがため、広く天下の公議を尽くし不朽の御基本を立てたしとの微衷より、祖宗継承の政権を返し奉り、諸大名の上京を待ちて同心・協力、天下の公議・世論を探り、大公至平の御規則を立てんことを思うの外、他念なきところ。にわかに一両藩武装して宮殿に立ち入り、未曾有の大変革仰せられし。先帝よりご委託あらせし諸官をゆえなく排斥し、一方、譴責を受けた公卿を抜擢、陪臣の輩玉座近くを徘徊するなど実にもって驚愕の至りなり。公明正大、速やかに天下列藩の衆議を尽させられ、正を挙げ奸を退け、万世不朽の国是を定めたく奏聞仕る」
 更に諸藩に対しては、「思召のほど感激たてまつり候面々は、人数召し連れ早々上坂し候よう致さるべく候」と、征夷大将軍さながらの動員令を発している。
 この挙正退奸の上表と永井の上京との関係をどう判断するかであるが、それぞれ慶喜の本音だと考えたい。クーデター直後の慶喜は若干の動揺があったものの、大坂城に割拠してすぐ立ち直りを見せたのである。それが六カ国公使の引見の成功であり、矢継ぎ早に行った永井の派遣と「挙正退奸」の過激な上表である。
 慶喜は基本的に平和路線で行きたかったと筆者は推測している。これが永井の派遣である。彼に京都の状況を探らせ、併せて妥協点を見出したかったのではないか。
 それなら何故このような過激な上表を出したのか、疑問は尽きない。しかし慶喜は一方でクーデター政権に対して大きな憤りを持っていた。この、腸が煮えくりかえるような憤りが、(大坂城に割拠して落ち着いてくると)慶喜の脳裡に噴出してきたのではなかろうか。しかし常に理知的な慶喜がただ怒りをぶつけるだけの無意味な行動を取るとは考えにくい。この上表を提出することにより、「私は怒っているのだ!」ということをクーデター政権に知らせたかったのではあるまいか。またそれと同時にクーデター政権に大きな圧力を加えて、妥協を迫ったのではないか。要するに慶喜一流の高等戦術であったと筆者は推測する。
 だからこの上表は過激派に迫られて止むを得ず作成したのではない。またこの上表について慶喜不関与説もあるが、筆者は妥当でないと考える。更に言えば、この上表は後の討薩表と酷似しており、筆者は、慶喜の偽らざる真情だったと推測している。また文面の格調が大政奉還の上表とも似ており、やはり永井が起草して慶喜が校正したと推測する。平山も関与していたかもしれない。
 一方岩倉は、既に永井と妥協策が出来つつあったので、この過激な上表を公表しない方が得策と判断し、春嶽・容堂に預けて事実上握りつぶしたのである。
12月24日、(先号で詳説したとおり)三職会議にて慶喜の辞官納地問題についての結論が決まる。
12月26日、春嶽・慶勝下坂、慶喜と面談。慶喜、公議政体派の尽力に謝意を表明。
12月28日、慶喜、議定就任の請書を提出。春嶽・慶勝両人は晦日(30日)に帰洛、慶喜の請書を朝廷へ提出、近々の上洛も合意された。この上洛は翌慶応4年1月3日(慶明雑録)あるいは1月4日(村攝記)と予定されていたようである。
四、慶喜の苦悩と幕臣等の無理解
 以上のように、大坂の慶喜と京都のクーデター政権との際どい遣り取りの中で、クーデター政権内部で勢力を回復した春嶽・容堂等の公議政体派の尽力により、慶喜の政界復帰が決まりかけ、翌年に予定された議定就任への目途も立ち、慶喜は少し安堵したのではなかろうか。
 思えば、12月9日のクーデター以降いや遡って10月14日の大政奉還以来、慶喜は全く休む間もなく、毎日が決断の連続だったのではないか。しかも原市之進亡き後、相談できる側近も無いまま、常に唯一人で決断をしてきた。慶喜の双肩にかかる負担と責任は想像を絶するものであったと推測される。 しかし 慶喜は今日までのあらゆる無理解や偏見に我慢して自ら断行してきたことが正しかったことを確信し、平穏な正月を迎えられるとやや安心していたのではなかろうか。              
 しかしながら、大坂城に集結した幕臣達は、今日に至るまでの慶喜と公議政体派との緊迫した微妙な遣り取りの苦心や、京都進撃の難しさを全く理解せず(理解しようともせず)、ただ口々に討薩を叫ぶのみであった。
 確かに12月9日以来の薩摩のやり方には幕臣ならずとも不満を持つ者が大半であった。更に遡れば会桑二藩や在京幕臣達にとっては大政奉還以来、薩摩への不満がくすぶっていたのである。それはまた煎じ詰めれば、大政奉還を理解できない守旧派にとっては、慶喜への不満そのものでもあった。 これに加えて、江戸から来た幕臣達は元々慶喜と意思の疎通が出来ていない。大坂城は爆発寸前の火薬庫に等しく、慶喜は限りなく孤独であった。
五、薩摩藩江戸屋敷焼き討ちの知らせが12月30日、大坂に届き、大阪城は沸騰する!
 歴史とはむごいものである。こうした状況の中で、慶喜の平和路線の希望を打ち破る破壊的に巨大な情報が江戸からもたらされたのである。この椿事により、慶喜の計算は全てご破算になってしまった。以下のとおりである。
12月30日、大目付滝川具挙が歩兵200名を率いて軍艦順動丸にて大坂に到着、薩摩藩江戸屋敷焼き討ちの顛末を報告。更に、大坂城諸所にて薩摩の罪悪を盛んにアジ演説して糾弾。大坂城は打倒薩摩一色となり、慶喜も御しがたい状態になった。
 その時の城内の様子を、春嶽に同行して下坂していた中根雪江が、「丁卯日記」にて以下のように記している。曰く
大目付滝川播磨守殿その外、江戸表より兵隊と共に汽船にて着坂これあり。東地薩藩の悪説、かつ二五日薩邸攻撃の始末など敷演これあり。この表の奸状を合わせて伐薩の議を主張し、下地除姦の説も起こりたるを、内府公御恭順の御誠意をもって無理〃ながら御鎮圧なし置かれたる坂地麾下の人心、一挙に煽動誑惑せられしかば、満城立地に鼎沸の勢いとなり、憤慨激烈の党奮興して、板閣(板倉)其の他を圧迫説倒し、事ついに敗れに帰し、形勢一変、もっぱら伐薩除姦の兵事に及び、内府公といえども如何ともなし給うべからざるに至りしなりとぞ。天、徳川氏に祚いせず。嗚呼。」
 他方、会津藩家老山川浩が記した「京都守護職始末」によれば以下のとおりである
「越えて三十日、この報が大坂に達した。内府はこれを聞いて忿怒に耐えず、『薩摩藩がひそかに凶徒を使嗾し、関東をかき乱し、東西相応じて事を挙げようとしたに違いない。乱逆を企てるの罪は許すことできない』と、即夜、老中およびわが藩、桑名藩重臣と会見し、典刑を正したい旨を奏請することに決議を定め、入京の部署を定めた。」
 この二つの資料を読むと慶喜の態度は完全に矛盾するが、正に慶喜の揺れ動く心境・苦悩をそのまま活写している。要するに平和路線が破綻しつつある現状を嘆きつつも薩摩の卑劣なやり口に怒りを露わにしているのだ。慶喜が生涯で最も苦悩し、かつ決断を迫られたその時が遂に来たのである。
 しかし大坂城内は既に沸騰しており、もはや慶喜を以てしても御しがたい状況であった。事ここに至り、慶喜はようやく薩摩と一戦を交える覚悟を決めたのであろう。これが明けて翌慶応4年元旦の奏聞書となって表されたのである。
六、慶喜、討薩を決断
慶応4年1月1日、いわゆる「討薩の表」出来る。以下のとおり
「臣慶喜、謹て去月九日以来の御事体を恐察奉り候得ば、一々朝廷の真意にこれ無く、全く松平修理太夫島津忠義)奸臣ども陰謀より出で候は、天下の共に知るところ。殊に江戸・長崎・野州・相州処々乱妨及び劫盗候儀も、全く同家家来の唱導により、東西饗応し、皇国を乱り候所業別紙の通りにて、天下共に憎む所に御座候間、前文の奸臣ども御引渡し御座候よう御沙汰下されたく候。万一御採用あい成らず候はば、やむを得ず誅戮を加え申すべく候。」
 この「討薩の表」を巡って、慶喜がどの程度関与していたのか、歴史家の間でも未だに評価が定まらない。明治になってから企画された歴史家との問答である「昔夢会」で、慶喜本人は自らの関与を曖昧にしている。しかし筆者はこのいわゆる討薩表は慶喜自らの意思で作成したものと推測している。
 まず、世間で言うところの「討薩表」は、正確には、朝廷への「奏聞書」が正しいのだ。またその内容も、薩摩を非難こそしているが、直接「討つ」とは言っていない。
この上表の主たる内容は関東等で行なった騒乱行為に薩摩藩士が関与しているので、彼ら罪人を引き渡してもらいたい、拒否されたらやむを得ず討伐する、という内容である。つまり基本的には刑事事件であり、警察行為を行なうことへの許可を奏請しているのである。
 何よりも江戸の幕府は、薩摩藩江戸屋敷を焼き討ちしているのであるから、慶喜には朝廷への説明責任もあった筈である。だから慶喜は薩摩の罪悪を公開・非難し、その孤立化を図り、かつ罪人の引き渡しを要求し、拒否されたなら(拒否される)、薩摩との限定戦争をやろうとしていたのであろう。朝廷に対しては、「薩摩との政権争い」というより、犯罪人引渡を請求する警察行為の方が客観的必然的正義を主張できると考えたのではなかろうか。
 この文体は18日の「挙正退奸の上表」とほぼ似ており、騒乱行為への薩摩の関与が明らかになったことを書き加えて、薩摩の非を鳴らしているのである。
 この討薩表を過激な宣戦布告と評価する説が多いが、見当違いと言うべきである。そもそも朝廷への奏聞書なのだ。過激なことなど言えるわけがない。薩摩を非難してはいるが主たる目的は罪人の引き渡しであり、宣戦布告などでは決してない。ここに慶喜の苦悩がありありと読み取れる。やはり京都進撃そのものがこの時点ではかなり高度の戦術を要求される行為だったのである。
 しかしその一方で、諸藩には以下のように露骨な軍令状を発している。すなわち
大義に依りて君側の悪を誅戮し、自然本国(薩摩領)を征討に及ぶべく候に付き、国々の諸大名速やかに馳せ登り、軍列に相加わるべき者也。尤も軍賞の義は、平定の後、鋒先の勲労に応じ、土地を割き与うべく候事。」
 これではまるで創成期の征夷大将軍の命令書さながらである
慶喜は「対朝廷」と「対その他」とでは態度を変えているのであり、ダブルスタンダードそのものである。要するに薩摩との限定戦争をやるのだと一般には公布しており、朝廷に対してだけは用心深く警察行為であることを強調している。
 ならば慶喜はやる気満々だったのだろうか。筆者はそうは思わない。出来れば京都市街地での戦闘は避けたかったのではなかろうか。何しろ禁門の変では二万八千戸が焼失し、当時禁裏守衛総督だった慶喜はかなり非難されている。他方、これまでの薩摩のやり口に対する憤りもあり、議定就任の先駆けとして大軍を動員しての威力行進をすれば何とかなると考えたのであろうか。 慶喜は随分と悩んだに違いない。
七、鳥羽伏見の戦い
1、前哨戦始まる
1月2日夕方、大阪湾にて榎本艦隊、薩摩の軍艦と交戦。
幕軍主力艦開陽の砲撃に抗議した薩艦に対し、艦隊司令官榎本は「尊藩はもはや弊藩(幕府)の敵と存じ候」と通告した。
1月3日、大坂の幕閣三名が、在坂外国公使に、武器を日本政府(旧幕府)以外に売ってはならない、外国船は開港場以外に寄港してはならない、当方が薩摩船を攻撃する場合もあるので危険だから注意されたい、という内容の警告書を発した。
同日夜、旧幕軍、薩摩藩大坂屋敷を襲撃。
2、公議政体派の動きと討幕派の決意
慶応4年1月1日、最後まで望みを捨てない春嶽等公議政体派は慶喜上洛の条件を煮詰め、「軽装にて上洛・即参内」という案をまとめ、3日の午後、中根雪江を大坂に使者として送った。 中根は先月末も大阪城まで春嶽に同行している。正に開戦回避のために挺身した讃うべき国士である。
1月2日、旧幕軍は慶喜上洛の先供と称して大軍にて淀まで進出した。
1月2日、危機感を強めた大久保は西郷に開戦の決意を示した。
1月3日朝、(先号のとおり)大久保は岩倉を突き上げて、断然開戦するよう迫った。
3、開戦と敗北
慶応4年1月3日午後三時頃、大目付滝川具挙率いる幕府軍は鳥羽村にて道路封鎖する薩摩軍と押し問答をするも埒があかず、強行突破しようとした瞬間薩摩側から発砲され開戦となった。
 旧幕府側は行軍状態であったため銃砲に弾薬を装填しておらず、不意を突かれて大混乱となり、初戦の大敗となった。
1月3日夜半、初戦の大勝で勢いに乗った大久保は、間髪を入れず岩倉・三条を説得し、旧幕府側すなわち慶喜を朝敵とする政治工作を行ない、これが成功する。
 すなわち、仁和寺宮嘉彰親王征討大将軍に任じ、錦旗・節刀を賜わり、次いで諸藩へ慶喜征討を布告したのである。これにより、慶喜は公的にいわゆる「朝敵」となったのであった。
1月5日、仁和寺宮、戦場視察に出発、錦旗はためく。
1月4日・5日・6日、局地的善戦はあったが、旧幕府側は初戦の大敗を挽回することができず、大坂城に退却した。
1月6日、慶喜、大演説をした直後、大坂城を脱出。
(一) 奇妙な戦いだった。「必討薩摩」を掲げて大坂城を大軍で押し出しながら、鳥羽村に至り、「上様上洛の先供だから通せ」と主張する。薩摩は「朝廷の指示がないと通さない」と言い、押し問答となる。薩摩は初めから通すつもりなどある訳がない。
 幕軍は一体何を考えていたのだろうか?そもそも初めからこの進軍には作戦計画らしいものがない。手強い薩摩相手の限定戦争をやるのだ。(綿密でなくてもいいから)戦闘計画を策定し、予想される相手方の反撃予想などの想定戦を行なうのが当たり前であろう。しかし、総督老中格大河内正質・副総督若年寄塚原昌義・司令官若年寄格竹中重固等は全くそんなことをした形跡がない。これでは致命的必敗の行進そのものであった。
 慶喜自身も後年「勝手にせよ」と言い放ったと回想している。最高司令官がこのような消極姿勢では勝てるわけがない。慶喜は、近日予定される議定就任もあり、出来れば戦いを避けたい、という優柔があったのかもしれない。また大軍で威力行進すれば何とかなると考え、知らぬフリを決め込んだのかもしれない。いずれにしても曖昧な態度に終始したのである。言うまでも無く、この戦いの敗戦の主たる原因は慶喜自身の無策と曖昧であろう。
 しかし仮に慶喜がこのように作戦計画に関与しなかったとしても、幕軍幹部がしっかりしていればこんな無様な負け方はしなかったろう。要するに怒りと興奮と熱狂で行進し始めたはいいが、薩軍と長州軍の猛烈な銃火に晒され、狼狽して立ち直ることが出来なかったのであろう。竹中などは持ち場の放棄といってもいいほど惰弱であった。
 一方、薩摩・長州は幕軍を京都に入れてしまえばお終いなのである。それこそ決死の覚悟で眥を決し、銃火の火蓋を切って待ち構えていたのである。これでは勝てる訳がない。
 ただ幕府側の名誉のために、奮戦した者も多数いたことを付言したい。会津・桑名の藩兵、見廻組・新撰組である。彼らは奮闘したが、惜しむらく皆、刀槍部隊である。薩長の銃火に晒され、多数犠牲者を出した。また、幕兵も歩兵部隊の精強伝習隊は善戦している。後世の歴史書には傭兵達は戦意がなかったなどという無責任な記述が散見するがそんなことはない。ただ彼らは指揮官がいないと戦えない。歩兵奉行並の佐久間近江守信久は馬上督戦指揮中戦死、歩兵頭の窪田備前守鎮章は敵陣に突入して戦死した。両人とも薩摩の狙撃兵に狙い撃ちされたものである。面子を重んじる幕臣が派手な陣羽織を着て陣笠を被り、馬上指揮するのだから「撃つて下さい」と言うに等しい。連隊指揮官のしかも高官二名が戦死したのだから伝習隊は退却する以外無かったのである。
(二)慶喜、敗戦を悟る。
 こうした予想外の敗北に驚いた慶喜は、何を考えていたのであろうか。錦旗が出て朝敵となったとき、彼はありもしなかったクーデター政権がようやくその実態を整えてきたことを直感したであろう。つまり鳥羽伏見の決戦で旧幕軍を打ち破ったという厳然たる事実により、薩摩を中心とする政府らしきものが、硝煙の中からその姿を現してきたのである。慶喜が勝っていればクーデター政権などは何の実態もない幻のようなものに過ぎず、霧散するはずであった。しかし慶喜があっけなく敗れてみると、ありもしないクーデター政権がその存在を現してきたのである。それによって慶喜はクーデター政権すなわち天皇政権に攻撃を仕掛けて敗北した、というイデオロギー的既成事実が出来上がってしまった。
 クーデター政権は鳥羽伏見の戦勝によって、ようやく天皇政府としてその存在を現したのである。戦勝ほど政権の正当性を主張するに強固なものはない。勝てば官軍、つまり新政府軍なのである。おまけに勝者は多大な犠牲を払って戦を勝ち抜いたのである。これに文句を言うのはかなり困難である。だからクーデター政権の中で、公議政体派は急速に発言力を無くし、朝議は薩摩長州を中心とする討幕派一色となり、誰も異議を唱える事が出来なくなったのである。
 要するに日本近代化のヘゲモニー争いは、その最終段階において、鳥羽伏見の勝利により、薩摩・長州を中心とする討幕派の手に帰することとなったのである。
 怜悧な慶喜はこうした政局の変化が手に取るように分かったのであろう。様々な後悔や慚愧が彼の脳裡をかすめた筈だ。斬り死にしたいくらい悔しかったかもしれない。 しかし、である。冷静かつ理知的な慶喜は結局、「残念だが万事休す!」と判断したと筆者は想像する。そうすると、慶喜にはもう戦う理由がない。しかし激昂した幕臣達はなおも慶喜に出馬を求めたのである。
(三)大坂城脱出
 こうした状況の中で、一敗地に塗れた幕軍将兵は続々大坂城に戻ってきた。そして慶喜の出馬を要請した。曰く、「家康公以来の馬印を押し立て、上様が全軍指揮すれば薩長など一捻り」と皆々口々に叫ぶのである。会津藩兵はこの一敗でむしろ悲壮感を帯びていよいよ血気盛んになっていた。
 しかし戦略的に京都奪還はほぼ不可能になり、旧幕軍に出来ることは大坂城に立て籠もり反抗することであった。確かに大坂城は堅固で、慶喜が立て籠もれば「新政府軍」も簡単には落とせない。数ヶ月間も睨み合いになろう。しかも大坂湾では無敵榎本艦隊が制海権を握っている。
 しかし、慶喜は冷静に考えた。「それでどうなる」とである。彼が最も恐れている内戦突入となり、欧米列強の内政干渉の格好の的になるだけではないか。そんなことにでもなれば、日本の近代化のために寸暇を惜しまず挺身してきた努力は水泡に帰してしまう。「ここで踏みとどまって何になるのか。つまらぬ武士の意地など有害無益そのものではないか。」 怜悧な慶喜は、自分が「日本一の卑怯者」と呼ばれようと、はたまた「臆病者」と蔑まれようとあらゆる悪口雑言を浴びせられようと何だろうと、そんなことはどうでも良かったのではないか。 自分さえいなくなれば戦にはならないのである。 例によって、慶喜の決断は早かった。 大坂城大広間に幕臣達を集め生死関頭の大演説をした直後、数名の供を連れて大坂城を脱出し、開陽丸に乗り込んで江戸に帰還したのである。この慶喜の行動によって、鳥羽伏見の戦いは事実上終了したのであった。
 この慶喜の行動を評価する者はほとんどいない。しかし慶喜を批判する者に尋ねてみたい。他に方法があったのか?とである。内戦で更に多くの犠牲者が出れば良かったのか?列強の干渉を招くほど長期間慶喜が頑張れば良かったのか?そんな事はあるまい。結果論だがあの逃亡は正解だったのである。単に格好が悪いだけだ。
八、徳川慶喜の退場
慶応4年1月7日、岩倉が徳川慶喜追討令を公示し、在京諸藩に朝廷への帰属を迫る。各藩続々請書を出し、薩長両藩は政治的にも主導権を確保することとなった。
1月11日午前八時、慶喜座乗の開陽丸、品川沖に投錨。
1月15日、小栗忠順慶喜自ら罷免。
1月17日、慶喜勝海舟を海軍奉行並に任命。
同日、慶喜、春嶽及び容堂に書簡を送り、朝敵処分解消を依頼。但し、この段階では無条件に謝罪しているわけではない。書簡の内容は以下のとおり。
「驚愕之至、素より途中行違より不料先供之者争闘致迄之儀に候処、斯く之通之御沙汰に而は、甚だ以心外之至」とし、追討令に抗議している。
同日、慶喜、静寛院宮に面会を求め、朝廷への取りなしを依頼。
1月25日、英・仏・米・蘭・伊・普の六カ国は局外中立を宣言、これにより、天皇政権を交戦団体として認定。
1月28日、春嶽、慶喜に書簡を送り、謝罪を勧告。
2月2日、西郷、大久保宛への手紙で、「慶喜退隠の嘆願、甚だもって不届千万、ぜひ切腹」と記す。
2月5日、慶喜、春嶽に書簡を送り、初めて「恭順」の意向を表明。
2月9日、有栖川宮熾仁親王東征大総督に就任、西郷らが参謀となる。軍令・軍政・領地処分等の広範囲の権限を付与される。
2月11日、慶喜、家臣に沙汰書を下す。曰く
「伏見の一挙、実に不肖の指令を失せしに因れり。計らずも朝敵の名を蒙るに到りて、今また辞なし。ひとえに天裁を仰ぎて、従来の落度を謝せん。かつ臣ら憤激その謂われなきにあらずといえども、一戦結びて解けざるに到らば、インド・シナの覆轍に落ち入り、皇国瓦解し、万民塗炭に陥入らしむるに忍びず。その罪を重ねてますます天怒に触れんとす。臣らも我がこの意に体認し、あえて暴挙するなかれ、もし聞かずして軽挙なさん者は、我が臣にあらず。すでに伏見の一挙我が命を用いず、甚だしきは不肖を廃して、事を発せんとなすに到る。再び指令に戻りて、我が意を傷うなかれ。」
2月12日、慶喜、上野寛永寺に入り、恭順・謹慎開始。
2月21日、徳川方の謝罪状は全て東征大総督を経由すべき旨の沙汰書が下る。これにより、慶喜の処分は総督府が握ることとなった。
2月26日、静寛院が慶喜の嘆願書を受け取ったのを知った大久保は、国元への手紙で「あほらしさ沙汰の限りに御座候。反状顕然、朝敵たるをもって親征とまで相決せられ候を、退隠くらいをもって謝罪などとますます愚弄たてまつるの甚だしきに御座候」と
書き送り、更に続けて、「慶喜の罪は天地の間に居場所がないほどの大罪である(要するに死ぬべきだということ)」としている。思えば、慶応元年9月の四国連合艦隊大坂湾侵入事件以来、常に徳川慶喜に翻弄され続けてきた大久保にとって、仕返しをする絶好の機会であったのではなかろうか。
3月5日、江戸城総攻撃の日時が3月15日と発表される。
3月13日、東征軍参謀の木梨精一郎が、横浜滞在のパークスを訪問した。江戸城攻撃で予想される負傷者の治療に英国病院の利用を依頼するのが表向きの理由だが、真の目的は2日後に予定される江戸城攻撃の了解を求めることであった。
 しかし冒頭からパークスは怒り出した。曰く
「恭順・謹慎している慶喜を死罪にするのは人道に反する。慶喜が亡命を望めばこれを受け入れるのは国際公法上当然の行為である。」とである。 仰天した木梨は急ぎ大総督府に戻り、これを西郷に報告した。
3月14日、勝、西郷会談し、翌日の江戸城攻撃中止し、慶喜の処分については、隠居のうえ水戸で謹慎することに決定。
4月11日、江戸城明け渡し。そして慶喜、江戸を退去し、謹慎地の水戸へ向かう。
 
(一) 以上の時系列からも分かるように、慶喜は東帰後すぐに恭順したわけではない。むしろ「甚だ心外の至り」と抗議さえしている。これについては、情勢の見通しが甘いと批判する意見が多い。しかしそもそも、この戦は慶喜が望んで始めたものではない。むしろ無理矢理引っ張り込まれた、というべきである。慶喜にしてみれば、抗議の一つもしたくなるであろう。
 しかし、諸藩が続々新政府軍に帰順し、東征軍が5万の兵力で東上することが決まり、京都の春嶽から、「恭順の他はない」との書簡を受け取った段階で、慶喜は恭順・無抵抗を決心したのであろう。その理由は、2月11日の家臣への沙汰書が全てを語っている。要するに、江戸百万市民が塗炭に苦しむことを避け、且つ、インド・シナの轍を踏む事態になることだけは絶対に阻止したかったのである。
  さて、西郷・大久保は、「慶喜の首を取らずして維新は完成しない」と豪語していた。これについては彼らの本心ではなく、多分に東征軍の士気を維持・鼓舞するための大言であった、とする説が散見する。誰も西郷にその本心を聞いたわけではないから、筆者は分からない。しかし、恭順・謹慎する慶喜に対し、西郷・大久保は弱者をいたぶるように執拗且つ陰険であった。正に彼らの性格の一端が垣間見られるようだ。
 しかし、慶喜の最後の冴えがパークの怒りであった。すなわち以下のとおり
内心慶喜を寛典に処したかった西郷が、パークスの「慶喜処刑大反対」を事前に想像していて、彼の口からそれを言わせようとしたのか、はたまたパークスの言は西郷にとっては想定外の意外な言葉であったが、西郷がパークスのこの言葉を奇貨として取り込み、慶喜寛典の理由付けにしたのか、これも分からない。しかし、当時の西郷が前者のような思考をする国際感覚を持っていたとは筆者には想像できない。
 筆者は、慶喜寛永寺で謹慎しながらも、パークスが処刑に大反対するであろうことを確信していたと推測する。パークスの懐刀サトウは3月9日、密かに勝と会っているので、勝はサトウを通じて慶喜処分についてパークスの考えを打診していたのかもしれない。慶喜寛永寺で謹慎し憔悴し切っていながらも、冷静な彼はひょっとすると勝に何らかの指示をしていたのではないか、などと興味が尽きない。
 いずれにしても、パークスはほぼ一年前の慶応3年3月、大坂城で大君慶喜に拝謁した時の大いなる感動を忘れていなかったのである。
(二) さて、徳川慶喜江戸退去の日がいよいよやってきた。
4月11日朝3時、上野寛永寺大慈院の門扉が開き、慶喜一行が現れた。駕籠はなく、得意の騎馬も許されない。わずかな供を連れて徒歩で謹慎地水戸に向かうのであった。 積日の憂苦に顔色憔悴し、月代も髭も剃らず、黒木綿の羽織を着て小倉の白い袴を穿き、麻裏の草履を履いていた。「拝観の人々、悲淚胸をつき、嗚咽して、敢えて仰ぎ見る者なかりき」と記されている。
 その一挙一動が天下の耳目をそばだたせた英傑が歴史の表舞台から静かに去って行くその瞬間であった。徳川慶喜こそ大局観に秀でた完璧な敗者そのものであった。
九、総括 微力ながら鳥羽伏見の戦いの近代日本への影響を考えてみたい        
  鳥羽伏見の戦いはその後の日本の政治に決定的な影響を与えた。この戦で勝利した薩摩・長州を中心とする討幕派はその後の日本近代化の主導権を握ることとなった。
 それは「玉を担いだ大芝居」などと木戸が比喩したクーデター政権(王政復古政権)によっては到底なし得ない、巨大な政治権力となって出現したのである。
 鳥羽伏見の戦いまでの王政復古政権は公議政体派の巻き返しによって、薩摩を中心とする討幕派の意図はほぼ挫かれ、当初の目的は失敗しつつあった。しかし起死回生の戦で完勝した討幕派はここに新たな政治権力を構築し始めたのである。ここで生まれた新政府すなわち維新政府は、戦勝によって正当性を認証された、(クーデター政権とは全く異質な)薩摩・長州の軍事力を背景とする天皇絶対主義を目指す軍事政権であった。これにより、今まで有力であった公議政体論は鳴りを潜めざるを得ず、その精神の復活は自由民権運動が盛んになる明治七年まで待たざるを得なかったのである。後藤等がこの運動に再び邁進したのは必然であった。
 要するに明治政府の原点すなわち出生証明は、鳥羽伏見の戦で勝利し、硝煙の中から姿を現した維新政府であり、王政復古のクーデター政権まで遡るのは明らかに間違いと言うべきである。維新政府は天皇と軍隊を不可分の関係とした軍事政権としてスタートしたのである。
 やがて日本は、日清・日露戦争に勝利して大国の仲間入りを果たした。大日本帝国陸海軍は精強を謳われ、世界に雄飛した。しかし、日本の軍隊は大元帥天皇陛下を奉ずるいわゆる「天皇の軍隊」であり続け、昭和に入るとしばしば「統帥権の独立」を主張して独走することとなったのである。仮に、統帥権の独立のルーツが維新政府だと言ったら、因果関係なし!との誹りを受けるであろうか。
 翻って天皇は瑞穂の国日本の祭祀を司る至高の祭主として天地開闢以来我が国に君臨し続けてきた。しかし天皇は、摂関政治から武家政治を経た幕末まで、千年の長きに亘って統治権を行使しないのが伝統であった。しかし、新政府は天皇統治権の主体とし、世俗権力をも行使する存在としたのである。本来、世俗権力を行使する者はその責任を負わねばならない。そこで責任を負ってはならない天皇が世俗権力を行使するために、大日本帝国憲法は「天皇神聖にして侵すべからず」と規定し、ここに神権天皇制が確立し終戦まで続いたのである。
 仮に慶喜が勝利して日本近代化の主体になっていれば、いかに慶喜が大きな権力を手中に収めても彼は決して政治責任から逃れられない存在であったと考える。そして神権天皇制にはならなかったと考える。「慶喜敗北の影響は終戦まで続いた」などと言ったら、「とんでもない論理の飛躍で、荒唐無稽そのものだ!」と批判されるであろうか。
 いずれにしても鳥羽伏見の戦いで勝利した新政府はその後の明治政府のあり方に決定的な影響を与えたのであった。       
十、その後の慶喜
 さて、江戸を退去した慶喜はその後どのようにして過ごしたか。このテーマだけでも一冊の本になるが、本書の主題ではない。簡単に記したい。
 江戸を退去する時、家臣の誰かが、「御心を忍ぶが丘の夏木立、立ち返り来ん春をこそ待て」と詠むと、慶喜はその場で「とにかくに国のためとて忍ぶ身は行くも帰るも時をこそ待て」と返している。この歌はなかなか意味が深い。まだ政界復帰を考えていたのであろうか。しかし静岡隠居時代の慶喜は「散らば散れ、積らば積もれ、人訪わぬ庭の木の葉は風に任せん」と詠み、諦観の境地そのものである。
 東京に戻った慶喜華族社会に急速に溶け込んだようである。大勢の親族に囲まれた写真が沢山残っている。写真に写る慶喜はやや寂しそうな表情があるものの総じて穏やかで無風だ。平穏な生活を享受していたのではなかろうか。
 彼は西南戦争での西郷の自決やその直後の大久保の横死も知っている。更に、大日本帝国の成立や日清・日露戦争の勝利も確認し、明治という時代の終焉にも立ち会い、大正2年、77歳で静かに息を引き取っている。正に偉大そのものの生涯であった。

最後の将軍徳川慶喜の苦悩13 王政復古のクーデターとその後の政局

 慶応3年12月の僅かひと月の間に日々刻々と生起した重大事件をまず時系列で整理してみたい。前号と若干重複することを許されたい。
11月25日、西郷・大久保等が御所制圧、辞官・納地の要求を骨子とする薩摩のクーデター計画案を策定。
12月1日、西郷・大久保及び岩倉ら討幕派の公家がクーデター計画を決定。決行の日を12月5日と想定した。
12月2日、西郷・大久保より後藤にクーデターの計画が伝えられる。後藤が決行の延期を求めたので大久保らは八日決行で了承した。
12月5日、後藤は更に決行延期を要請した。出来れば10日にしてほしいということであった。
 またこの日後藤は、政変の計画があることを松平春嶽に告げた。
12月6日、春嶽は家臣の中根雪江を二条城に遣わして、薩摩藩に政変の計画があることを慶喜に伝えた。このとき中根は、摂政・関白、幕府などの廃止や新人事は当日九日に発表の予定、などについては伝えたが、肝心の辞官・納地については何ら触れていない。 そもそもこの件は、後藤が春嶽に伝えていなかったのである。
12月7日、乗輿の準備が間に合わないことを理由に中山忠能が延期を主張したため、決行は九日と決まった。また後藤は尾越両藩への早い通告を主張したが、大久保が反対し、8日のできるだけ遅い時刻の通告を主張した(実際もこうなった)。
同日、旧幕府の手により、念願の兵庫開港式が盛大かつ堂々と執り行われた。英・仏・米・蘭・普・伊の六か国公使が招かれた。 
12月8日正午、朝廷会議が開かれ、深夜に至り、長州藩主親子の官位を旧に復し、上京を許可するとの決定を行なった。慶喜は事前に賛成の意思を表明していたが、この会議に慶喜・容保・定敬は欠席した。
同日夕刻、岩倉が五藩(尾張・越前・薩摩・土佐・芸州)の重臣を集めて、明日の卯の刻(午前六時頃 )各藩の藩主に、軍装にて藩兵を引き連れ参内するよう朝命を伝えた。
同日、山内容堂ようやく入洛。
12月9日午前十時頃、クーデター決行。薩摩藩を中心とする武装兵が御所の九門を固める中、学問所にていわゆる王政復古の大号令渙発された。また、摂政・関白、征夷大将軍議奏武家伝奏京都守護職・同所司代などの旧職が一方的に廃止された。更に二条摂政、中川宮などの佐幕派の公家26人の参朝を停止した。
   次いで、以下のとおり、総裁・議定・参与の三職を臨時に置く、と発表した。
総裁 有栖川宮熾仁親王
議定 10名 仁和寺嘉章親王山階宮晃親王中山忠能正親町三条実愛
                   中御 門経之、徳川慶勝松平春嶽浅野長勲山内容堂島津忠義
参与  20名 五藩から三人づつ指導的藩士
同日夕方、小御所会議開かれる。議題は徳川家の処分つまり辞官・納地問題そのものであった。
12月10日、クーデター政権の議定に就任した松平慶勝・松平春嶽の両名が、辞官・納地の朝意を二条城の慶喜に伝えた。
12月11日、上京を許された長州藩兵が宮門の警護に就いた。
一方、二条城の徳川勢力は激昂して薩摩藩邸襲撃を呼号した。慶喜は彼らに禁足を命じた。夜中、二条城に呼ばれた榎本武揚は「グズグズさえ致し申さず候ヘバ、勝利は十分之者に見受けられる」と述べている。
12月12日、慶喜、二条城を退去し大阪城に拠る。
同日、容堂が諸侯会盟の「議事公平の体」、「三職評議の規則」を早く建てよ、と建議。
同日、阿波・筑前・肥後・盛岡・肥前など有力十藩は、宮門警備の中止(つまりは御所の占拠の中止・解兵)と公議の早期確立を要請した。
12月13日、岩倉が大久保に、納地を慶喜が拒否すれば一戦交える覚悟かそれとも公議政体派の周旋に任せるかを打診。大久保は意外にも後者を選択する旨回答。
12月16日、慶喜大阪城にて英・仏・米・蘭・伊・普の六カ国公使を引見。自らが日本国代表であることを宣言。クーーデターを指導した薩摩藩や公卿達を、「幼主を挟み、叡慮に托し、私心を行い、万民を悩ます」と非難した。
12月17日、岩倉が、孝明天皇の没後一年祭の費用五万両の供出を慶喜に依頼。慶喜、これを快諾。
12月18日、各国公使宛の王政復古の布告文案(大久保の起草)は春嶽・容堂の副書拒否によって流れてしまい、クーデター政権は国際的に認知されない政権であることが明らかとなった。
12月20日、パークスが「幕領のみ削り、他の候領を差し出さず候こと、外国人には至当と存ぜられず候」と薩摩藩に伝えた。
12月23日・24日、辞官・納地問題の朝議が開催されたが、岩倉は病気と称して欠席、日和見始めていた。
12月24日、朝議が開かれ、辞官・納地問題について以下のとおり決まった。すなわち、慶喜は前内大臣を称し、納地については「天下の公論を以て御確定」する、という沙汰書を出すことに決した。大久保は「天下の公論を持って返上」と奏請したが多数意見に敗れた。
 容堂は、慶喜がこの沙汰書を承諾したら、列藩も貢献(納地のこと)の制度を立てよと建言し、これも承認されている。
12月28日、慶喜は右の沙汰書に対する請書(承諾書)を提出、近々のうちに上洛することが合意された。

序論 公議政体派の理念と薩摩討幕派の権力行動そして慶喜の展望
 後藤を中心とする公議政体派は政治制度の確立(議政院の設置)を近代化の目標とした。まさに正しい見解である。大政奉還はこの機運を更に加速し、議政院開設は当時の日本を風靡した。明るい日本の建設を皆夢見たのである。その招集のため後藤は事あるごとに公正無私を標傍し、これを熱く語った。正義は必ず達成する、の信念であった。しかし肝心の諸侯は京都に集まらなかった。譜代大名は旧幕府に遠慮し、外様大名は紛争に巻き込まれたくなかった。大政奉還以降混沌とする政治情勢の中で迂闊に上洛してとばっちりを受けたくなかったのである。そんなきれい事を言っているより、いっそのこと徳川勢力と薩摩が一戦を交えて黒白(こくびゃく)をつけた方がスッキリするのではないか、諸侯達は固唾を呑んで見守っていたのではなかろうか。ここに公議政体派の限界があった。政治は理屈だけでは動かなかったのである。
 薩摩討幕派はこの点もっと現実的であった。すなわち日本近代化の方法を徳川と薩摩のヘゲモニー争いとして捉え、何がなんでも徳川を政権から追放しその権力を奪い、薩摩主導の政府を作る、この一点が彼らの至上命題であった。だから彼らが公議政体派に賛成したのはよく言われているように薩摩も公議政体の樹立を支持していたから、などというのは誤りで、彼らにしてみれば他に政治制度の選択肢が浮かばなかったので賛成したまでであり、そんなことは本心はどうでもよかったのである。彼らの目的はとにかく慶喜から政治の実権を奪う、その旗印として天皇を押し立てる。それから先はどうにでもなると考えたのであろう。討幕派には政治制度のビジョンが乏しいとよく言われる。しかし彼らは、どんなに優れた政治ビジョンも政権の安定なくしては画餅であることを嫌と言うほど知らされていたのである。だから政治力学的観点から言えば、後藤より薩摩の方が遙かに現実的であった。
 では徳川慶喜はどう考えていたのであろうか?
慶喜は当時の日本の行政権を掌握していた。だから内外に対し責任を負う立場であった。彼の最重要課題は内戦の回避だったと推測する。欧米列強のひしめく東アジアで日本のような小国が内乱になれば列強の干渉を招くことは火を見るより明らかである。慶喜はこうした事態だけは避けたかったに違いない。
 怜悧な慶喜は議政院の開設に理解を示してはいたが、しかしこれがスムーズに開かれることには大きな疑問があったのではなかろうか。それというのも、過ぐる慶応二年、彼が将軍に就任する際諸侯に上洛を求めたが、全く反応がなかった。当時は長州征伐の失敗で、幕府の権威が地に落ちており、諸侯が上洛しなかったことは止むを得ないことであった。慶喜はこのとき、政治は安定した権力の担保なしには実行されないことを嫌と言うほど知らされたのである。だから徳川と薩摩が鋭く対峙する今日、諸侯がのんびりと上京する訳がないと判断していたのではあるまいか。
 では慶喜は諸侯の上洛を心底待ちわびていたのであろうか?筆者はそうでもないような気がする。仮に議政院が開かれなかったとしても、「きれい事を言っても結局議政院など出来ない」となり、慶喜に傷はつかないと推測されるからである。
 更に12月7日、後述するように、神戸は旧幕府の手により、堂々と開港されており、この管理権は旧幕府がしっかり握っている。
 以上、何事もなく推移すれば、時間切れで慶喜の勝ちになるのだ。だから慶喜は議政院の開設に熱心でなかったのかもしれない。その意味で彼は薩摩の権力奪取行動を誰よりも理解し、かつ警戒していたのではなかろうか。要するに慶応3年12月は日本近代化のヘゲモニー争いの最終局面であった。
 ではなぜ慶喜は薩摩のクーデターを許したのか? 薩摩の政権奪取への執念を甘く見たのか。それとも政治工作だけで薩摩を封じ込める自信があったのか。彼は辞官・納地を求められた時、薩摩の本心を見抜き、自分を追い落とそうとしていることに気づいた筈だ。しかし彼は勝利の確率が高いにも拘わらず、薩摩と一戦を交えることなく大坂に退去している。
 慶喜が大阪に退去してから急に強気になったことを、「敵の姿が見えなくなったので急に強気になった」などと揶揄する者がいるが、筆者は全然違うと考えている。要するに京で干戈を交えれば蛤御門の変の二の舞になる。京が戦場になり荒廃すれば、困るのは行政権を持つ慶喜自身である。敵を倒すことのみに集中している西郷や大久保とは訳が違うのだ。だから慶喜は戦わずして薩摩を屈服させる方法を選択し、大阪に退去したのではなかろうか。
 果たしてクーデター後の京都の政局は、慶喜の見込み通り、公議政体派が断然優勢になり、辞官・納地問題も曖昧になった。慶喜が有利になったのは明らかである。
 しかし慶喜にも弱点があった。その元凶は誰あろう、江戸から来た幕臣達である 。彼らは終始慶喜の足を引っ張り続け、最後は暴発して徳川氏没落の原因を作ったのである。江戸の幕臣達と慶喜は元来仲が良くない。慶喜大政奉還して以来その関係はつとに悪化している。彼らは大体が守旧派であるが、小栗などの革新官僚慶喜を快く思っていない。彼らは慶喜の指示も待たずに江戸から軍艦で大阪に続々押しかけ、口々に薩摩の罪悪を糾弾し、「薩摩討つべし!」と呼号していた。この兵力はまさに諸刃の剣で、クーデター政権への大きな圧力になる反面、慶喜を突き上げることにも熱心な困った連中であった。慶応3年12月の大坂城はまさに火薬庫そのものであった。
  さらに彼のスタッフは極めて少数で、慶喜の政策を理解・実行できるのは永井尚志位なもので、人材不足も甚だしかった。原市之進クラスの側近が十人もいれば大分状況は違ったものになったであろう。要するに慶喜政権は脆弱だったのである。これを例によって慶喜の人格不足を理由にする者がいるが、この種の論法は極めて無責任である。要するに十四代将軍を家茂と争った時以来、慶喜の置かれている状況がそうさせたのであり、また携帯電話もない当時は江戸と京都の意思疎通が極めて困難だったことも付け加えておきたい。

一、クーデター決行前夜の薩摩討幕派と後藤等公議政体派の駆け引き
1、12月2日、大久保・西郷と後藤の遣り取り
 薩摩両名からクーデター計画を告げられた後藤は困惑し、かつ悩んだに違いない。
議政院の開設を目標として活動していた後藤にとってクーデターは穏やかならざるものである。しかし、上洛期限の11月30日を過ぎても容堂は上洛すらしていない。更に他の諸侯の上洛も進んでおらず、議政院の開設は完全に暗礁に乗り上げていた。一方薩摩のクーデターの決意は固い。また、彼らの三職構想は議政院に似ていなくもない。後藤の政治行動の二大原理は内乱の回避と議政院の設置である 。彼は悩みながらもクーデター政権に加わることを決意したのであろう。何よりも薩摩の計画は当初の上方徳川勢への軍事攻撃を取り止め、御所制圧等を主としたものであったので後藤も妥協できたのであろう。
 他方、大久保・西郷は何故このクーデター計画を後藤に告げたのであろうか?
答えは明白である。当初の計画のように上方徳川勢への軍事攻撃を決行するのなら薩摩藩及び長州藩のみで行なった筈である。しかし、前号で記載したように薩摩主力が上京した時は、日本中に公議政体論が風靡し始めていた時である。しかも大政奉還を決行した慶喜の名声は大いに高まっていた。軍事的に絶対勝利する確信がない中で武装蜂起すれば他藩の支持を全く得られない行動となり、政治的敗北は必至であった。そこで薩摩は戦略を切り替え、公議政体派の抱き込みを図ったのである。すなわち御所制圧のクーデターは決行するが、そこで出来る仮政府に公議政体派の諸侯を誘い、薩摩主導の連合政権を作り、徳川勢力の追い落としを図ろうとしたのである。
   要するに後藤を中心とする公議政体派と薩摩討幕派(幕府は既に存在しないのでこの表現は正確ではないが許されたい)はクーデター政権という仮政権を形成したものの全くの同床異夢であったのである。だからクーデター政権が後に分解するのは必然だったと言える。
2、後藤の奮闘
 後藤が二度に亘ってクーデターの延期を申し入れたのはよく知られた事実である。容堂の到着が遅れている以上、後藤としては何としても容堂が来てから政変をやってもらいたかったのだ。また、後藤は単に日時の延期を求めただけではない。越前・尾張にも早い時期にクーデター決行の計画を知らせるべきだと主張している。これは大久保が反対して通らなかった。しかし後藤は春嶽にこれを知らせ、春嶽は慶喜に知らせている。この一連の行為は一見裏切り行為のように見えるが実はそうではなく、後藤としてはクーデター計画を有力諸藩に知らせることによって政変を混乱無く行ないたかったのである。更に慶喜に知らせることによって、慶喜の鎮圧行動を防止し、内乱を回避することを目論んだのである。事実、後藤から情報を得た慶喜は、動員を控えている。
 更に薩摩が絶対譲れない辞官・納地についても、大久保等は当初、勅命降下で慶喜に有無を言わせず命令する予定であったが、後藤はこれを、越前・尾張の周旋方式にて慶喜に伝えるというソフトな方法を主張し、結局薩摩が折れて事実そのやり方になった。 要するに後藤は薩摩の言いなりなった訳でも何でも無く、自らの主張をかなり通しているのである。薩摩は公議政体派の諸侯をクーデター政権に抱き込む以上、この程度の妥協は我慢するしかなかったのである。
 しかし後藤は薩摩から聞いた辞官・納地問題を春嶽に告げていない。だから慶喜は、薩摩が土地を返せ!と迫ることまでは予想をしていなかったのではないか、と筆者は推測している。後藤は肝心のこの件を何故春嶽に言わなかったのであろうか?この答えも明白である。これを慶喜が知れば鎮圧行動に出る可能性が高い、と踏んだのではあるまいか。筆者も仮に慶喜がそれを知ったら薩摩の真意を見抜き、一戦交える覚悟を固めたのではないかと想像する。
 後藤がオポチュニストと言われるのはこの辺りであろうか。しかし彼には彼なりの信念があったのだろう。こうして薩摩討幕派と公議政体派は妥協しながら、12月9
日のクーデターを迎えるのであった。
 
二、クーデターの決行と小御所会議
 王政復古の大号令の後、史上有名な小御所会議が開かれ、ここで徳川氏の処遇が議題になったのは誰もが知るところである。
 岩倉と大久保が、徳川領を四百万石と見立ててその半分の二百万石を返上せよ、と要求したのである。その理由が陳腐だ。慶喜の罪状を並び立て、政権返上した慶喜が今までの罪を真に悔いて反省しているのなら、領地を返上してその証を立てるべきだというのだ。こんな馬鹿げた理屈はあり得ない。何故慶喜のみ土地を返さなければならないのか。更にそもそも慶喜の罪とは何か?将軍就任以来、日本のために全力を尽くし、しかも平和裡に政権返上すらしている。そんなことを言うのならまず島津七十七万石を率先して返上すべきではないか。藩の存在を前提として国政改革をしようとすれば、このような言い分は議論にもならない単なる言いがかりである。
 だから前日ようやく入京し、議定に就任した山内容堂は怒りまくった。すなわち、「今日の挙は、事頗る陰険に亘り、朝敵未だ現れざるに戎装し、会桑二藩は斥けられ、殺気勃々輦下に満つ。実に不祥の甚だしきものなり」と怒りを露わにし、更に慶喜大政奉還を史上空前の美挙と讃え、即刻この席に慶喜を呼ぶべきだ!と大声で怒鳴ったのである。
 そしてこのあと、小説やドラマだけでなく歴史書さえそのように記している容堂と岩倉との遣り取りがクライマックスの名場面となっている。長くなるが引用してみたい。
 すなわち容堂が酒の勢いもあって、「二三の公卿は何等の意見を懐き此のごとき陰険に渉るの挙をなすや頗る暁解すへからす、恐らくは幼冲の天子を擁して権柄を竊取せんと欲するの意あるに非らさるか」と決めつけると、岩倉が、「此れ御前に於ける会議なり、卿当さに粛愼すへし、聖上は不世出の英材を以て大政維新の鴻業を建て給う、今日の挙は悉く宸断に出つ、幼冲の天子を擁して権柄を竊取せんとの言を作す、何そ其れ亡礼の甚だしきや」と叱責し、容堂が詫びた、という場面である。
 しかし高橋秀直教授の論文によれば、この岩倉の言は、明治になり、岩倉の業績を讃えるために編纂された岩倉公実記を根拠としている。また天皇の権威を損なう容堂の発言を否定したかったのであろう。当時の詳細な記録である丁卯日記にはこの遣り取りについて容堂の発言は記載されているが岩倉の発言は全く記されていない。公平に見て、岩倉の発言はあり得ず、後世の作り話であると考える。
 そもそもこの時の天皇元服していないので一人前として認められていないのが当時の常識であった。だから容堂の発言は不敬でも何でもない。クーデター政権は天皇を取り込みしかも、摂政・関白を一方的に廃止しているので、天皇の意思を代弁する公式機関すらないのである。だから容堂が怒りまくったのは当然であった。そもそも大藩の太守で賢候の誉れ高い容堂を、下級公家の岩倉が叱責することなど出来る筈がないのである。
 ただ、実のところ、クーデター直前に薩摩と公議政体派は話が出来ていたのである。容堂は遅れて上京したので後藤とも十分な打ち合わせが出来なかった。だから議論を振り出しに戻してしまったのである。これに力を得た春嶽が容堂に同調したので会議が混乱したのであった。 事実、容堂はこの後も、岩倉との議論から一歩も引かず、これに手を焼いた討幕派は休憩を申し出たのであった。
 しかしこの日容堂は休憩後の議事再開で一転して沈黙した。西郷が岩倉に、「短刀一本あれば片づく!」と言い、後藤がこれを容堂に伝えたので、容堂は廉前を血で汚すことを懼り、沈黙したのであった。
 目的のためには天皇の前で大藩の太守を刺し殺すことをも平然と実行しようとする西郷は究極の暴力行動家と言うべきか。
 以上から分かるように、クーデター政権は発足当日からやっと初日を乗り越えただけであり、とても薩摩の思い通りではなかったのである。

三、紛糾する辞官・納地問題とその後の政局
 薩摩・長州・芸州が第二次出兵同盟を結んだ慶応3年10月末段階では当然のことながら納地問題など全く意識されることはなかった。なんとなれば、武装蜂起して上方徳川勢を打ち破り、政権を奪取するという計画においては、納地など必要ない。敵を打ち破り、その領地を奪えば済むことである。戦争をやろうとする者が納地など考えること自体が可笑しい。
 しかし武装蜂起を止め、御所制圧のクーデターのみを行う方針に切り替えていく過程で、彼らは「我々が天皇政権だ!」と声高に叫んだところで物理的かつ経済的な裏付けがなければただの亡命政権に等しい、という現実を突きつけられたのである。クーデター政権は、その権力の裏付けとして徳川の領地を奪わなければ政権の安定など望むべくもない。納地の要求は必然だったのである。これが慶応3年11月25日に薩摩が決定したクーデター計画案であった。
 仮に百歩譲って、家近教授の言うように、「大政奉還によって、慶喜は日本政府を返上したのだから政府の公領は必要なくなった。普通の大名に相応しい土地以外は返上せよ。」という言い分も一分(いちぶ)位はあるだろう。
 しかし大久保等の言い分には無理がある。軍事力を動員しクーデターを敢行して、俺が政府だ!土地を出せ!というのは虫が良いと言うより、非道い論理である。だから慶喜はさすがに即答しなかった。天皇を担いで好き勝手なことをやってしかも土地をよこせとはあまりにも酷いのではないかと腸(はらわた)が煮えくり返る思いであったろう。要するに薩摩の主張は、筋の通らない屁理屈であった。
 果たして、薩摩等は、この要求を貫き通すことは出来なかった。そもそも、藩の存在を前提として納地を行なおうとすれば、徳川のみ領地を返上する理由は皆無だからである。ましてや慶喜の罪状を並べ立て、反省しているのなら土地を返せ、などという主張は公議政体派の到底容認できるものではなかった。
 案の定、容堂・春嶽等の猛烈な抗議で納地問題は骨抜きにされた。薩摩は、三職会議をコントロールすることは武装蜂起より難しい、と危機感を募らせた。納地が認められない限りクーデター政権などじり貧になるしかない、何のために大軍を動員してクーデターをやったのか無意味になるのみか今までの強引なやり方は諸藩の非難を浴び、京都政界で孤立する危険さえ高まりつつあった。
 徳川慶喜はこの状況を待っていたと言える。冒頭の時系列のとおり、12月24日の朝議において決定した沙汰書を受けて、慶喜は請書を提出し、ここに慶喜の議定就任つまり京都政界復帰が確実になったからである。このまま議定に就任して、公議政体派を味方につければ薩摩を政治的に孤立させ、平和裡に日本改革が出来ると踏んだのであろう。慶喜はこの時点で安堵したのではなかろうか。自分がやってきたことは正しかった、戦争を回避できる、という展望をようやく持つことが出来たのではなかろうか。
 しかし、である。歴史にタラはないが、仮に慶喜が京都政界に復権した場合、政治は安定したであろうか。なぜなら、一時は政治的に薩摩を孤立させても、薩摩の強大な軍事力は完全無傷で残っている。更に復権した長州が晴れてクーデター政権に加わり、続々と精兵を入京させれば、公議政体派と討幕派との 軍事バランスは拮抗したものにならざるを得ない。とても政局の安定など望めなかったのではなかろうか?
 何が言いたいか?  要するに、慶喜は、いつかは討幕派と一戦を交えなければ京都の政局は決着しなかったのではなかろうか。その機会は、12月9日のクーデター直後であったかもしれないし、あるいは鳥羽伏見の戦い慶喜が眥(まなじり)を決し、幕府歩兵を陣頭指揮して勝利するべきだったのかもしれない。しかし慶喜はいずれも動かなかったのである。その真意はなかなか計り難い。
 ところで筆者は、仮に慶喜が薩摩と決戦するならその時期は、クーデター直後がベストであったと長年思っていた。その最大の理由は京都市中で争っても朝敵にならないからである。これは鳥羽伏見の戦いで大坂から京都に攻め上り、あえなく敗北したことにより、天皇政権を攻撃しようとした、という思想的敗北を犯したことを考えてのことである。確かに京都を離れたことが戦略的失敗だったと指摘する説もかなりある。筆者も以前はそれに与していた。しかしこれは鳥羽伏見で完敗したという結果が出てしまったからであり、筆者の最も戒める後講釈(あとこうしゃく)そのものではなかろうか。
 クーデター直後の慶応3年12月10日・11日の段階では、市中決戦は避けるべきだと判断するのが妥当だったのかもしれない。確かに榎本武揚が二条城に呼ばれた時、旗本・会津藩兵等は戦意満々であった。しかし彼らは激昂し、興奮し切っており、冷静さを全く欠いていた。戦(いくさ)に勝つ為には、決死かつ冷静な覚悟が必要である。興奮は内なる敵だ。加えて慶喜は薩摩兵児の圧倒的強さを蛤御門の変の時、目の当たりに見ている。このとき会津藩兵は長州に押されて潰走している。一抹の不安が慶喜の脳裡をよぎったのかもしれない。また何よりも京都で戦(いくさ)をしたくなかったのが最大の理由であろうか。 
 こうした状況の中で、大久保を中心とする薩摩藩士は焦燥感を募らせていた。辞官・納地の進展がはかばかしくない中、14日以降の薩摩はむしろ戦闘による決着を望むようになった。しかし、公議政体派が多数を占める朝議の中で戦いのきっかけが掴めず苦悩することとなるのである。また肝心の岩倉も戦闘を望まなかった。彼は慶喜の議定就任を認め、その上洛を拒否しなかった。岩倉の生涯の目標は王政復古である。それが達成した今、薩摩ほど徳川追い落としには熱心でなかったのかもしれない。ただ「討幕の密勅を出した共犯」という弱みもあり、結局岩倉は薩摩と託生するほかなかったのであろう。

四、最後に兵庫開港について簡単に述べておきたい。
 冒頭の時系列にあるように、12月7日、念願の兵庫(実は神戸)開港が旧幕府側の手により堂々と行なわれた。開港に尽力したのは兵庫奉行兼外国奉行柴田剛中であった。彼は渡仏したことがあり、まさに適役であった。式典では永井尚志の祝辞が披露され、神戸沖では集結した軍艦が二十一発の祝砲を放っている
 慶喜は、神戸開港により、貿易が順調に進展することに大きな期待を持っていた筈である。神戸が賑わえば港を管理する旧幕府側の財政は大いに潤い、しかも諸外国の反対で内乱どころではなくなるからである。彼は徳川による政権維持に強い自信と希望を持ったのではないか?クーデター側がその実行の期限を12月7日に切っていたのはまさにこのためであった。
 余談だが、今日の神戸港の発展のきっかけを作ったのは誰あろう徳川慶喜ではあるまいか。遡る慶応3年3月、彼が幕府の命運を掛けて四カ国公使に兵庫開港を宣言し、続く5月、政治生命を賭して朝廷に乗り込み、勅許を取得したことが兵庫開港の始まりだったからである。慶喜は神戸の恩人ともいうべき人である
 しかし神戸港には何ら慶喜の痕跡は見当たらないようだ。それは維新政府が彼を顕彰するのを嫌ったからではなかろうか。一方、我が三浦半島の横須賀港は幕府勘定奉行小栗忠順の業績を顕彰し、ヴェルニーと小栗の像が建っている。住民の誇りそのものである。

 終論 未熟ながら王政復古のクーデターを総括してみたい
 筆者は、このクーデターそのものは12月24日、慶喜の上洛を朝議で認めた段階で失敗であったと考えている。要するに、公議政体派の巻き返しにより薩摩討幕派は戦略上の妥協と後退を余儀なくされたからである。辞官・納地が曖昧になり、しかも慶喜が上洛して議定に就任したら討幕派はお終いである。何の為に大軍を動員して御所を制圧したのか分からなくなるのみか、討幕派は京都政界で孤立し、追い落とされる可能性すら生じてくる。
 その証拠に、大久保は翌慶応4年1月2日、西郷への手紙で「今日に至って戦争に及ばなかったら、皇国の事はこれっきりで水の泡になる」と開戦の決意を促している。
また翌3日には岩倉に、「朝廷は二つの失策を犯した。一つ目は王政復古に際し慶喜の辞官・納地を断行しなかったこと、二つ目は慶喜の下阪を黙認したこと、そして今三つ目の失策を犯そうとしている」、それは慶喜の参朝・議定就任を認めることであるとし、この「三大事」の全てに失敗すれば、「皇国の事凡て瓦解土崩、大変革も尽く水泡・画餅と相成るべきは顕然明著というべし」。今や挽回する道はただ一つ、「勤王無二の藩、決然干戈を期し、戮力合体非常の尽力」の他にはないと即時開戦を訴えている。「勤王無二の藩」、は大久保得意の台詞である。
 このように大久保自身がクーデター決行以降の事態が全く思わぬ方向に進んでしまったことを告白しているのである。要するにクーデターは失敗そのものであった。この状況を一変させたのが鳥羽伏見の一発の銃声であった。
 王政復古のクーデターを明治政府の出生証明として把握する説があるが、筆者は全然賛成できない。 この辺りは次回で述べてみたい。


最後の将軍徳川慶喜の苦悩 15あとがき

執筆後記
 体制が危機に瀕したとき、その責任者はどのように行動したか?歴史に興味のある者なら皆大きな関心を持つ。徳川慶喜は、開府以来ともいうべき幕府の危機を救える能力・見識・実行力を持った唯一の男であった。彼は本来、十四代将軍が相応しかった。もし彼がその時点で将軍になり、関東の政令を一新して行財政改革を行なっていれば、幕府は立ち直っていたかもしれない。しかし当時の幕府の主流は守旧派であった。彼らは無難な家茂を十四代将軍に立て、改革派の弾圧を行ない、改革の芽を摘み取ってしまった。そして桜田門外の変以降自信を失った幕府は何ら定見の無いまま貴重な時間を費やし、藩政改革を行なって実力を蓄えた薩摩・長州を中心とする西国雄藩の雄飛を許してしまった。
 慶応三年、慶喜が将軍になって幕政改革に着手したときは既に幕府は腐りかけており、慶喜をもってしても如何ともし難かった。その意味で慶喜は最後の将軍というより、むしろ遅れてきた将軍というべきであろう。
  翻って考えると、日本の国難は有史以来三回あったと筆者は認識している。初めは大陸に隋・唐大帝国が出現したことによる対応を迫られたことである。このとき日本は大化の改新を断行し、律令国家に脱皮して、その危機を切り抜けた。次がペリーショック以来の欧米帝国主義列強によるアジア進出への対応を迫られたことであり、最後が、言わずと知れた太平洋戦争の敗戦である。 
 この拙書で扱ったのは二番目の国難である。ペリーが来て幕府が自己変革を迫られたとき、幕府は初めて「内なる天皇制」の問題に気づき、その対応を余儀なくされた。従来どおり幕府が天皇を取り込んでいればまだよかった。しかし天皇は幕府から離れ、しかも幕府を相対化する方向にのみ作用した。開府以来、天皇の至高の権威を温存してきた幕府は今度は天皇の権威に拘束されることになったのである。以来政局の中心は江戸を離れ、明治維新まで京都であり続けた。幕府はこの状況を克服・転換することが出来なかった。何よりも慶喜自身が天皇の権威の中に自己の政治的活躍の場を見出していたのである。これは幕府本来の立場からすれば、自己矛盾そのものであり、また彼が望んだものでも無かったろうが、幕府が慶喜の立ち位置を誤ったことが原因であり、慶喜にしてみれば止むを得ざることであった。要するに慶喜本来の活躍の場が与えられていなかったのである。慶喜は京都で将軍に就任し、京都で辞任した。征夷大将軍が既に京都を離れられない状況だったのである。
 大政奉還はある意味でこうした状況から脱却する好機でもあった。天皇の権威から離れ、慶喜が自ら行政府の長として日本国の代表者になる絶好の機会でもあった。しかし、慶喜は幕府部内の守旧派に足を引っ張られ、しかも薩摩の陰謀に対抗することが出来ず、結局敗退した。
最後の将軍にして最初の立憲君主たらんとする慶喜の壮大な野心は実現すること無く終わった。
 近年明治維新が再評価されている。これも何年かに一度のサイクルでやってくることではあるが、最近の評価のポイントは犠牲者が少なかったということである。どの国も近代化のための生みの苦しみを経験する。フランス革命はざっと二百万人死んでいる。これに引き換え明治維新の犠牲者は三万人以下で、近代化を成し遂げた国では極端に少ない。犠牲者の数が少なかったということで評価するなら、徳川慶喜はもっと見直されてもよいのではないか。幕府は日本を近代化するに当たって「内なる天皇制と幕府」という統治の二重構造に気づいた、と先述したが、結局慶喜は幕府の幕を降ろし、天皇にその大権の全てを譲ることによって近代化に貢献したといえよう。筆者はこの意味で慶喜は完璧な敗者と認識している。敗者だから人気は無い。しかし偉大な敗者といえるのではなかろうか。

 
 思えば同時代の清国は欧米列強が進出してきたとき、内なる異民族支配(満州族による漢民族支配)という解決不能の矛盾に直面した。このために中国は長く欧米列強の浸食するところとなったのである。日本は幸いこのような解決不能な国内矛盾は存在しなかった。近代化を巡る薩摩とのヘゲモニー争いで一敗地に塗れた慶喜は潔く天皇大権を認め、一切の軍事的抵抗をすること無く敗北宣言をして謹慎した。維新の犠牲者の数が少なかったのはこのためである。

 自己顕示欲の強い勝は、「江戸城無血開城は自分と西郷の二人でやった」と言いふらしている。他方、慶喜はこの件に関しても生涯沈黙を守り、一言も発していない。筆者は、このような慶喜の生き方について、並の者には到底出来る仕業では無いといつも感心いや感動さえしている。
 筆者が徳川慶喜に関心を持ったのはその長寿の故であった。古今東西を問わず、長期の王朝が滅びるときその最高責任者は必ず死ぬものである。自決か戦死か捕らえられての斬首である。徳川幕府は二百六十七年の長きに亘って日本に君臨した超安定武家政権であり、翻って頼朝から数えれば七百年続いた武家政権の幕を閉じるのである。普通に考えれば無事で済む訳がない。しかし彼は大正二年まで長生きをし、七十七才の天寿を全うしている。筆者は、慶喜が死ななかった、いや死なずに済んだのは二つの理由以外無いと考えた。
一つは人畜無害の凡人で、生かしておいても何ら問題が無い男、二つ目は非常に賢くて、勝者が彼を殺そうとしてもそれが出来なかったから。この二つのいずれかしかないと仮定した。しかし少し調べれば第一の線はすぐ消えてしまう。そこでよほど賢かったであろう慶喜とはどんな人物だったのか?というのが彼への興味のきっかけであった。また筆者は以前から、幕府側からの日本近代化の動き(具体的には小栗らの親仏幕権派の政策)に興味があった。敗者のやったことは不当に扱われることが多いからである。其の意味でも慶喜の動向に興味を持ってはいたのである。やはり想像通りいや想像を絶する賢い人であった。
 以前、歴史家のアンケートで歴史上の人物の誰になりたいか?の投票があり、乾隆帝が首位であった。確かに乾隆帝空前絶後の皇帝だ。十度の征服事業をしたことから自ら十全老人を名乗り、文化人として現在の故宮博物院の原型を作り、六十年間皇帝として君臨し、九十歳まで長生きしている。完璧な生涯かもしれない。しかし筆者はこのような神に近い人は畏れ多くて近づく気にもなれない。誰も乾隆帝の心境など分かるまい。では大ファンの慶喜公はどうか?やはりこんな気苦労も真っ平御免だ。一分でも耐えられない。しかし、慶喜公の不動産登録係にはなってみたい。今の仕事とほぼ同じだし、日々慶喜公に接して彼の奮闘ぶりを間近に拝見出来るからである。
 泉下の慶喜公は、筆者が自分のファンだと偶然にも知ってくれたら、多分こう言うだろう。「わしなどに興味があるとはそなたも変わった男よのう。しかしよく調べたのう。感心しておるよ」と。
筆者は平蜘蛛のようにひれ伏して恐懼感激し、感涙に咽ぶに違いない。
 以上、この拙書は日本近代化のために孤軍奮闘した徳川慶喜公への大いなる尊敬と愛惜の念を込めて執筆したものである。この拙書を読んでくれた人が一人でも多く、ああ慶喜さんは偉大な人だったんだな、と理解していただければこの拙書の意図は成功であり、筆者は望外の幸せである。

最後の将軍徳川慶喜の苦悩 12 大政奉還と前後の政局

初めに
 慶応3年10月14日から翌慶応4年1月3日までのわずか3ヶ月足らずの期間に日本の歴史の帰趨を決定する事件が3回生起している。
 まず大政奉還次いで王政復古のクーデター、最後に鳥羽伏見の戦いである。この三大事件を経て日本は幕藩体制から脱皮し、近代国家として再出発することになったのである。
 この三大事件に対する歴史家の評価は様々である。その原因は、神聖・不可侵で統治権の総攬者として天皇が君臨した明治から昭和の終戦までの日本をどう評価するかによってこの三大事件に対する歴史家の評価もまた異なるからである。
 「明治維新の国際的環境」の著者石井博士は、神権天皇制の日本は、明治以降10年毎に戦争を行ない、膨張政策をとり続けたが、それは太平洋戦争の敗戦によって破綻した、という批判的評価を下している。そして神権天皇制のアンチテーゼとしての日本近代化のモデルとして、大君制による徳川絶対主義を持ち出し、慶喜はこの実現のために行動した、と断じている。この命題に引きずられているのか、博士はこの三大事件全てに関わる慶喜の行動を、彼が大君制を創設しようとして行なったという前提で論じており、かなりの無理を感じざるを得ない。松浦玲氏は、神権天皇制には否定的だが、仮に慶喜の大君制が成立したとしてもそれが明治政府より素晴らしいものになったという保証はないから慶喜に肩を持つ必要は無いとクールに論じてはいるが、神権天皇制にならなかったであろう慶喜政権の方がその一点だけでもマシではなかったか、と残念がっている。松浦氏はこの三大事件について非常に客観的に論じていて大いに参考になる。
 反面、明治維新から始まる日本政府の政策を肯定的に評価する歴史家は、薩長が敢行した王政復古のクーデターについての考察が実に甘い。それはこのクーデター政権(政府と呼べる代物ではない)が後の明治政府の母体であるという前提に立った場合、「クーデター政権を否定すると明治政府の拠って立つ根拠がなくなってしまう、明治政府の正当性を主張するためにはクーデター政権(すなわち王政復古)を否定し難い」と考えるからではなかろうか。 
 筆者は、自己の方程式に歴史の事実を当て嵌める手法や後世の結果から過去の事実を評価する手法はいずれも妥当でないと考える。歴史の偉大な当事者達は将来を見据えつつも、刻一刻と変化する状況の中で自己の進むべき道を決断しているのであり、後世の結果から遡って偉大な先達の行動を批評することは、まさに後講釈(アトコウシャク)との誹りを免れまい。
 最近入手した高橋秀直教授の論文は出色で、今までの幕末維新の著作を時代遅れとする程衝撃的だ。彼は幕末の政治行動の根拠を天皇原理と公議原理に基づくとしている。これは彼がそのような原理主義を振りかざすのではなく、当時の思想がそうだったというのである。なるほど、幕末に上昇した尊皇思想に基づき、日本は天皇中心の国家たるべきだという思想が一方にある。これは具体的な政権構想ではなく、とにかく天皇のもとで政治を行なおうという観念論であった。一方、公議政体論を核とした公議政体原理は、具体的には議政院(分かりやすくいえば国会ともいうべき議会)を中心として政治を行おうというもので、素朴ながら統治機構の構築を論じたものであった。此の二つの思想は矛盾するものではなく、天皇のもと、公議政体論を実行し議政院を設立しようというのが当時の世論であり正論であった。 
 幕末の日本は西欧のような市民階級が育っていた訳ではないので、いわゆる「人民政府」のようなものは構想される筈が無く、公議政体論が唯一の正論であった。故に、高橋教授は当時の政治家の行動の根拠は天皇原理と公義原理であった、と言うのである。まさに正鵠を射た歴史解釈と言い得るのではないか。
 筆者は此の論文には大いに感銘を受け、王政復古に関する長年の疑問が氷解するのを感じた。高橋教授はその後急逝されたようで、誠に惜しい人を亡くしたものだ。ご健在ならば、維新史を塗り替える業績が期待されたであろう。
 いずれにしても、筆者は虚心坦懐にこの三ヶ月間の徳川慶喜の苦悩に満ちた行動を、「慶喜の身の回り掛かり」にでもなったつもりで追いかけてみたい。
一、薩摩討幕派と土佐公議政体派の対抗
 慶応3年5月23日、慶喜による兵庫開港が決まると西郷・大久保らを中心とする在京薩摩藩士は、その翌日から武力討幕の準備に取りかかった。
 西郷ら薩摩藩士は「元祖討幕派」ともいうべき長州との連携を深めつつ、一方では6月22日の時点で早くも土佐の後藤象二郎大政奉還建白を行なうことを目的とする薩土盟約を結んだ。彼らは、慶喜は絶対に大政奉還が出来ない!と踏んでいたので、慶喜がそれを拒否することを口実にして土佐を武力討幕に引き込みたかったのである。
 他方、山内容堂と入れ替わるように6月13日入京した後藤は、薩摩の二条城襲撃説などが飛び交う中、内乱の発生を憂い、公義政体論を引っ提げて薩摩を抱き込み、日本を平和裡に改革しようとしたのである。彼は慶喜大政奉還する可能性に賭けていた。
薩摩にしても、公議政体論以外の政権構想を持っていた訳ではないから、後藤がこの正論を持ち出せば正面から否定することは出来なかったのである。
 こうして後藤の大政奉還建白運動と西郷らの武力討幕運動は並行・対抗して進行することとなるのであった。
6月27日、後藤は芸州の辻将曹と会い、芸藩を薩土盟約に引き入れることに成功した。
7月2日、京の料亭で後藤の送別会が行われ、薩摩からは大久保・小松が出席した。
後藤は「容堂に進言し、藩論を大政奉還論に統一した上、十日ほどしたら二大隊を引き連れ上京する」と約した。
7月3日、後藤、幕府永井尚志に大政奉還を入説。
7月4日、後藤、京を発つ。島津久光伊達宗城は容堂への書簡を託した。
8月14日、大久保、芸州の辻に会い、芸藩の武力討幕への参加を求め、賛同を得る。芸藩も、武力討幕か大政奉還かで揺れ悩んでいたのである。 
9月6日、大久保の藩兵増派要請に応じて薩摩藩兵1000余名が大坂に到着。
9月7日及び9日 予定より大幅に遅れて帰京した後藤は、西郷・大久保らに、大政奉還の建白書を提出するから挙兵を待ってほしいと申し入れ、拒否される。
 後藤はイカルス号事件に忙殺され、またあくまで公義政体論を議論で主張すべきだと言う容堂の出兵拒否によって藩兵を引き連れて来ることが出来なかった。この間、春嶽・宗城・久光が京を去ったこともあり、大政奉還運動の先行きの不安材料となった。
 西郷は、兵を連れてこなかった後藤に対し、土佐との盟約は返上すると怒ったものの土佐を完全に敵に回す覚悟は無かった。そこで「土佐が大政奉還の建白をすると幕府が討幕派の武装蜂起を警戒するので、蜂起の前日に建白するように!」などと後藤に釘を刺すほどであった。
9月16日、大久保は長州に赴き、山口にて木戸・広沢らと出兵盟約を結ぶ。
9月20日、長州・芸州間でも出兵の盟約が出来、薩・長・芸三藩の挙兵討幕が実行に移される段階になった(第一次三藩出兵計画)。
 この計画では9月末までに軍艦で大坂湾に集結し、京都でクーデターを行ない、会津藩邸を急襲し、堀川の幕府屯所を焼き討ちし、大坂城を攻撃、更に大坂湾の幕府軍艦を破砕し、奪玉するという内容であった。動員する兵力は、在京薩摩藩兵及び鹿児島から動員される薩摩藩兵が三田尻に寄って長州藩兵を乗せ、海路一気に大坂に上陸するという案である。 決行の時期を9月末としたのは後藤の大政奉還建白によって、薩摩の藩論が討幕反対に傾くのを恐れたからである。この計画は実行寸前まで行ったのであるが、後藤の猛烈な巻き返し(後藤は9月27日、一番弱い芸州を説得して一旦は武装蜂起から引き離した)に加え、薩摩本国でも自重論が根強く、長州の突き上げがあったものの徒(いたずら)に時を重ね、幕府が警戒し始めて、奇襲の時期を失してしまったのである。
 この計画では天皇を芸州に奪う予定であった(長州のいう「奪玉」)ので、もし実行されれば内乱に発展する危険が十分あった。西郷らは内乱の危険を冒してまで討幕したかったのであろうか。しかもクーデター後の政権構想など全くなかったので無責任と言われても仕方が無いのではなかろうか。 
 ちなみに長州の木戸は9月初旬、芝居・狂言・舞台などと盛んに比喩し、「我が方が玉を抱え奉る」と奪玉の重要性を訴えているが、そこには日頃彼らが高唱する尊皇の心情などは微塵も見えてこない。
 9月28日(10月2日)、小松帯刀が後藤に、「土佐の建白に反対せず」、と通告。
 第一次出兵計画では9月末または10月初めに兵船が大坂に到着する見込みとなったので、もはや建白は挙兵の邪魔にならないと判断したのであろうか?
10月6日、ようやく三田尻に薩摩の軍艦が到着、しかも、10月9日、薩摩・長州の国元が上方への派兵を中止したとの情報が在京薩摩藩士らに入る。
 これらの番狂わせにより、挙兵の時期(奇襲・奪玉)を失してしまい、第一次三藩出兵計画は変更を迫られることとなった(長州の言ういわゆる「失機改図」)。
 西郷・大久保らは戦略の練り直しを迫られ、藩論統一の要として薩摩藩島津忠義の率兵上洛を求める方向に転換した。その切り札として浮上したのが次項で述べるいわゆる討幕の密勅であった。
二、大政奉還に対する薩摩の対応と討幕の密勅
 10月14日、慶喜は運命の大政奉還に踏み切った。しかしこのとき薩摩は怯まなかった。それは10月6日、大久保が岩倉具視と初めて会う機会を持ったからである。ここで岩倉は王政復古後の仮政府の構想を打ち明け、更に討幕の密勅を薩摩及び長州に手交することを決めたのである。それまで公家の討幕派は正親町三条実愛中山忠能・中御門経之であった。薩摩は彼らと連絡を取り合ってはいたが、クーデター後の明快な仮政府構想を持たない、いわば無責任計画であった。しかしここに岩倉が登場し、大久保と手を結ぶに及び、より具体的なクーデター計画を練り上げることとなったのである。尚、武装蜂起計画の内容はほとんど第一次と同じである。しかし決定的な違いは大政奉還を横目に見て、彼らは討幕の密勅という天皇の偽命令を用いることによって、薩摩本国の藩論を討幕一本にまとめる方針に転換したのである。長州は元々討幕一本槍だから、薩摩と手を組むことは容易かった。要するに、この密勅は薩摩の藩論を討幕で統一するについて極めて大きな役割を果たしたといえるのである。
 今その偽勅全文を掲載してみよう。
  詔す。源慶喜、累世の威を藉り、閤族の強を恃み、みだりに忠良を賊害し、しばしば王命を棄絶し、ついに先帝の詔を矯めて懼れず、万民を溝壑に陥れて顧みず、罪悪の至る所、神州まさに傾覆すべからん。朕、今、民の父母なり。この賊にして討たずんば、何を以ってか、上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讎に報いんや。これ、朕の憂憤の在る所、諒闇にして顧みざるは、万やむをえざる也。汝、よろしく朕の心を体し、賊臣慶喜を殄戮し、以って速やかに回天の偉勲を奏し、しこうして生霊を山嶽の安きに措くべし。此れ朕の願、敢えてあるいは懈ることなかれ。
 ここには読む者を納得させる討幕の具体的理由や合理的根拠が全くない。それどころか天皇の命令で徳川慶喜を殺せ!と命じているのである。恐れ入ると言うほかは無い。
 しかし、天皇の命令であってもそれは万民を納得させるものでなければならない筈であろう。この密勅を何度読んでも、慶喜を討たねばならない大義名分は見いだせないどころかエゲツなさばかりが目立つ。
 以前、大久保は第二次長州征伐に反対し、合理性の無い勅許は勅許にあらず、従う必要なし!と公言し、朝廷これ限り!と言い放っている。その同じ大久保が今度は全く合理性のない偽勅を岩倉と共謀して出させている。まことに不可解な男と言うほかない。
 更に言えば、幕府に多少の失政があったとしても、フランス革命のようにアンシャンレジームに国民が悩まされていた訳でも、国民が餓死していた訳でもなくまた、慶喜が罪無き人民を大弾圧していた訳でも無い。
 要するに、幕府派と薩摩派は日本近代化のヘゲモニーを争っていただけなのである。内乱の危険を冒し、しかも偽勅を作ってまでも武装蜂起しなければならない大義があったとは言い難いのではなかろうか。
 しかし 、五、で述べるように薩摩は結局天皇の権威を利用する道を選んだのである。
 つまり、高橋教授のいう、幕末日本の政治原理は公義政体原理と天皇原理の二本だったのであるが、薩摩が無理を重ねて天皇原理を選択したことによって、後藤の公義原理は一歩後退せざるを得なくなった。
 しかし公議原理はこのまま消えてしまったのでは無い。大政奉還後のクーデター計画の変更を薩摩は迫られ、御所を占拠することは実行したが、その他の計画は一旦止めざるを得なくなったからである。後藤らの公義政体論者はこの理論を拠り所にクーデター政権に加わることになるのは後述する。
 
三、慶応3年10月14日、徳川慶喜大政奉還の上表を朝廷に提出す
1、 こうした状況の中、慶喜は決然と大政奉還を決行するのであるが、そこに至る過程を少し整理してみたい。
9月20日、永井から後藤に、建白書を提出するように催促がなされた。
10月3日、土佐藩側から、大政奉還を求める建白書が幕府に提出された。
10月11日、大政奉還の上表完成。
10月12日、上表文を諮問案の形にして二条城にて幕府諸有司に回覧し、慶喜自ら 説明し、意見を求めた。
 10月13日、在京40藩の重臣を二条城に集め、前日と同じ説明をした。
 尚、後藤、小松ら六名は別室に呼ばれ、それぞれ意見を求められた。本来彼らは陪臣であり、将軍への拝謁権がない。しかし慶喜は特別これを許可し、大政奉還の実を上げようとしたのであろう。このときの後藤のおびただしい汗はその後の語り草になった。慶喜の圧倒的な存在感に参ったのではなかろうか。
10月14日、慶喜、朝廷に大政奉還の上表を提出。
以上が大まかな日程であった。    
2、しかし、この大政奉還については諸説があり、松浦玲氏も、(その真意を推測するのが)なかなか難しい、と述べている。家近教授は、慶喜がその政権を全面的に朝廷に返還するつもりであったなどと現実離れした議論を展開し、筆者は白けるばかりである。反面石井博士はこの段階において早くも慶喜が大君制を創設し、その権力を強化するために大政奉還を行なったと断じている。 あれこれ言うよりもここに大政奉還の上表全文を掲載してみたい。読みやすいように訓読にした。
  十月十四日徳川慶喜奏聞 
 臣慶喜、謹んで皇国時運の沿革を考へ候に、昔、王綱紐を解き、相家権を執り、保平の乱、政権武門に移りてより、祖宗に至り、更に寵卷を蒙り、弐百余年子孫相承、臣其の職を奉ずと雖も、政刑當を失ふこと少なからず、今日の形勢に至り候も、畢竟、薄徳の致す所、慚懼に堪へず候。況んや當今、外国の交際日に盛んになるにより、愈々朝権一途に出で申さず候ひては、綱紀立ち難く候間、従来の舊習を改め、政権を朝廷に返し奉り、廣く天下の公議を盡し、聖断を仰ぎ、同心協力、共に皇国を保護仕り候得ば、必ず海外萬國と並び立つ可く候。臣慶喜、国家に盡くす所、是に過ぎずと存じ奉り候。去り乍ら、猶見込みの儀も之れ有り候得ば、申し聞く可き旨、諸侯へ相達し置き候。之に依りて此の段、謹んで奏聞仕り候。以上
 改めて読み直してまず感ずることはこの上表の格調の高さだ。10月11日永井が起草して慶喜が直接手を加えたというが、歴史に残る名文であり、何度読んでも感動すら覚えてしまう。
曰く
 日本の政治が天皇から藤原氏に移り、更に保元・平治の乱を経て武門に移り久しい。中でも徳川氏は250年の長きに亘って天皇の信頼を得て政権を保持してきたが、自身の失政も少なからずあり今日の形勢に至ったのはその薄徳からである。
 国際環境が変化し、政令二途から出るのは好ましくない。よって自分が政権を返上し、日本は天皇の元、挙国一致団結して政治を行なえば再び繁栄して世界に互していくことが出来る。自分はそのために貢献できるなら幸いこれに優ることはない。
 以上がその要旨である。ぜひ先に掲載した討幕の密勅と比較してもらいたい。やはり幕末の徳川幕府の官僚の教養は尋常でなかったのである。
3、この上表からはっきり分かることは「政権を返上する」と述べているだけでそれ以外は何も言っていない。
 慶喜は一体何をしようとしていたのであろうか?答えは明白である。 
 まず世論の喚起である。「返す」ということによって彼への評価は高まるであろう。討幕の名分も無くなってしまう。これが大きな狙いであったことは間違いない。つまり差し迫った内乱の回避だ。慶喜は7月25日大坂で、「干戈を動かさず国内の難局を突破し得るの自信あり」とロッシュに述べている。
 更に慶喜は6月以降の京都の不穏な情勢、具体的には水戸浪士の決起の噂などを憂い、騒擾行為の生起を心配していた。これは閣老板倉と所司代松平定敬が連名で江戸の老中に宛てた書簡で「上様は日々夜々御苦慮あらせらる」、「国家の危乱、眼前さし起こり候も計り難く」と心配し、慶喜が打開策を熟考しているとの内容の書簡であった。慶喜は何よりも大政奉還によって世の静謐化を狙っていたのではなかろうか。
 次は、というより本来の目的は公義政体論者への妥協である。要するに慶喜は土佐の建白書を受けて大政奉還したのである。土佐に迫られてよんどころなくやったのではないが、土佐の建白を受けてやったことも事実である。
 事実、永井は10月12日、後藤に土佐の建白を採用する旨通知している。だから土佐の建白書を見れば慶喜の意図が分かるのである。一言で言えば、議政院政治への移行を認めたのである。土佐のいう議政院とは要するに、天皇のもと、上下二院の議会を設け、諸事ここで重要事項を決定する、ということであり、当時の我が国の世論である公義政体論を具現化したものといえる。公議政体派の中心は松平春嶽山内容堂伊達宗城など有力大名で、更に島津久光も元来は公議政体論者であった。慶喜はこの公議政体論者に妥協することによって平和裡に日本の緩やかな改革を目指したのではなかろうか。
 何よりも慶喜自身、往事を語る昔夢会筆記で「容堂の建白出ずるに及び、そのうちに上院・下院の制を設くべしとあるを見てこれはいかにも良き考えなり、上院に公卿・諸大名、下院に諸藩士を選補して、公論によりて事を行わば・・・」と振り返っている。
 石井博士は大政奉還の直前、慶喜西周を召し、英国の制度を諮問していたことを根拠に、慶喜が大君制を目指していたことを強調している。確かに慶喜はその後開かれるであろう議政院において重要なポストを取得し、その後の政局を牽引していくことを意識していたであろう。しかし、公議政体論者に妥協して大政奉還に打って出たのである。従来の幕府より更に権限が強化された大君制が速やかに成立するとは思っていなかったのではあるまいか。慶喜は以前から自分に好意を寄せている有力大名で影響力の強い松平春嶽山内容堂らの路線に乗ってみたのである。久光の協力もひょっとしたら得られるのでは?と踏んだかもしれない。
4,ここで西周の具体案(憲法案)を載せてみよう。
 11月下旬、西は、慶喜側近の平山敬忠にこの憲法案を、「議題草案(制度腹稿)」として提出している。 その要旨は以下のとおりである。
まず、国政を政府の権・大名の権・朝廷の権の三つに分ける。
(イ)政府の権は、すなわち行政権であり、徳川家の当主が「大君」と称され、行政権の元首として、政府を大阪に設け、政府の官僚を置いて全国の政治を行う。官僚のうち「宰相」だけは「議政院」の選挙した三人のうちから大君が一人を任命し、他の官僚は大君が自由に任免できる。各藩領内の政治は、議政院で議決する法律に抵触しない範囲で各藩主に任せる。
(ロ)次に大名の権であるが、これは立法権である。上院は、1万石以上の大名で構成され、下院は各藩一人の藩士を選任する。議政院の権限は、法律及び予算の制定、外交・和戦など重要事項の協議である。
 ただ徳川氏は、その最大領地の所有並びに親藩譜代大名の支持を得て、比例代表のように上院議長に選出され、かつ下院の解散権を持つ。
(ハ)朝廷の権は、元号制定、叙爵権などほぼ儀礼的権威に限定されている。
 以上から分かるように、なるほど大君の権限が突出して強大だ。ここでは天皇は具体的権限がなく、むしろ現代の象徴天皇制に極めて近い。石井博士は神権天皇制への批判と反省からであろうか、この大君制の構想が実現していたら!との思いが人一倍強いのではなかろうか。
 事実、石井博士の説には一理も二理もある。なぜなら、公議政体論には行政権の観点が全く欠落している。これは当然と言えば当然のことで、彼らはそもそも「藩」の存在を前提とし、ともかく議政院を設置しようというだけのことなのである。だから行政権の行方について論じることはそもそも藩に対する越権行為かつ内政干渉となる。公議政体論が急速に支持されたのは、藩に対する干渉がなくしかも藩が政治参加できるという藩の側から見れば良いことずくめであったからであろう。慶喜は自己がそもそも最大藩主であり、しかも慶喜支持勢力が多いことを考え、公議政体論には全く欠けている行政権の構築について一歩進んだ憲法案の提示を来たるべき議政院にて行ない、一気に政治の安定化を図ろうとしたと推測することも出来なくはない。
 筆者は、慶喜がこの大君制の実現にどれほどの意欲と自信を持っていたのかは分からない。しかし11月27日、永井は、春嶽の近臣中根雪江に「日本はしまいには郡県制度になるとの意向を上様は持っておられる」と語っている。西は三月から慶喜奥右筆に就任しており、怜悧な慶喜は既にこの段階で大君制の構想を温めていたのかもしれない。 すると、慶喜はやはり大君制を目指すことによって、「最後の将軍にして最初の立憲開明君主たらん」としたのであろうか?
 余談だが、慶喜はこの頃から西にフランス語を習い始めた。これは洋書を読みたいという慶喜自らの希望によるもので、公務極めて多忙な中で、彼の知識欲が極めて旺盛なことを示すものである。森鴎外(西の甥)がその「西周伝」で当時の様子を簡潔に伝えている。曰く
 「径に仏蘭西の二十六文字及び其の発声法を録してこれを上る。此より日ごとに出でて教ふ。未牌より申牌に至る。慶喜、記性人に過ぐ。数日にして能く読み、能く書し、文字より単語に及び、単語よりして連語に及ぶ」
しかし、七月下旬になると、「当時慶喜の朝観、暮におよびて退出するを常とす。一日参内夜を徹す。暁に退き、周を召して仏蘭西語を講ぜしむ。忽ち歎じて曰く、学と政とは竟に兼ね行うべからざるか。弧、今朝一句を誦ぜず、と。遂に仏蘭西語を廃す」
仮に彼は外交官になっても超一級であった推測される。やはり、慶喜という人は司馬遼太郎の言葉を借りれば、百才を持って生まれた男なのかもしれない。
5,話を戻そう。慶喜はすぐ政権を返上するなどとは微塵も考えていなかった。そもそもそんなことが出来るわけが無い。幕藩体制という限られた中であっても幕府は紛れもなく統治権の主体であった。それは幕領での治安維持、徴税、訴訟取扱、インフラの維持、若干の福祉、衰えたとはいえ諸藩への命令権、そして何よりも外交権の把握であった。
 これらの権限は「返す!」と言って済む問題ではない。借金の返済とは訳が違うのだ。朝廷には行政権を行使する組織が無い。慶喜はそんなことは百も承知で、これを投げ出したら無責任そのものではないか。だから慶喜は、大政奉還の上表では朝廷が日本の統治の主体だ、と言ったまでである。その証拠に征夷大将軍の辞表を提出したのは少し後である。この官職は当時の公式的な日本政府たる根拠であったから、政府を投げ出すとは言っていないのである。慶喜大政奉還のすぐ後、内政について数箇条を列挙し、議政院が開設されるまではこれまで通りでよいか念押ししている。 朝廷は10月26日、「外交・内政共に、平常の業務はこれまで通り」という内容の返事をすると同時に、将軍職の辞表を却下している。結局、慶喜は議政院が開設されるまで実質的な日本政府代表であり続けることになったのである。
 こうして大政奉還は大きな波紋を呼び、彼の名声は一気に高まったのである。
 パークスはこれを冷静に評価し、自己の権力を犠牲にして日本を平和に導く行為であると絶賛している。そして他の有力大名にも慶喜に習うべきだと述べている。
 パークスは、慶喜がその権力を犠牲にしてまで内乱を防止し、公議政体論者に妥協して日本を近代化に導こうとしている姿勢に深く感銘したのである。パークスが日本の内乱を望まなかったのは明らかだ。
6、しかしこの決断には、守旧派が猛烈に反対してきた。 まず江戸の幕閣である。
 10月17日に江戸城で大評定があり、出た結論は、大政奉還反対論であった。京都と江戸で離れていることもあり、慶喜は幕閣に根回しをしていなかった。何よりも守旧派は元々慶喜嫌いが多い。 革新官僚の小栗はその日記に「去ル十三日世界形勢を御洞察候処、政令一途に不出候ハバ、万国之御交際ニモ拘リ候に付、政権を御所へ御帰被候旨被仰上候処・・・」と事務的だが、極めて的確に記している。
 11月11日、老中格(陸軍総裁)松平乗謨・同稲葉正巳(海軍総裁)が大政奉還の真意を糺すため上京してきたが、慶喜の説得に納得したのか、その親諭書を携えて江戸に戻った。しかし幕府は、陸軍奉行石川総管が歩・騎・砲兵三兵を引率して軍艦富士山丸で上京してきた。
 更に何よりも、慶喜の両翼たるべき会津藩桑名藩の反発は凄まじく、大政奉還はことごとく薩摩の陰謀と断じ、薩摩藩邸攻撃も辞さぬ勢いを示していた。また親藩譜代大名に限らず外様大名の間でも大政奉還に対する反発が大きかった。 慶喜はこれらに対し、一々説得し、自分の行動が正しかったことを縷々述べて微動だにしなかった。
 しかし、慶喜の真意を理解するものは極端に少数で、側近の永井他数名という状況であった。閣老の板倉も古い幕府に未練があり、謀臣の梅沢孫太郎すらも慶喜の真意を理解できなかった。皮肉なことだが、敵方討幕派の方が、慶喜の真意を理解していたのではなかろうか。
 四、大政奉還後の公議政体派の活動とその挫折
 慶喜大政奉還により、史上初の議政院の開設が日程に上った。しかし参集を命じられた大名達は思うように集まらなかった。朝廷が大名に上京を命じたのは10月21日であったが、出足が思わしくなく再度10月25日に上京を命じた。その期限は11月25日であった。しかし上京してきた諸侯は16藩のみで、会議開催の見込みが立たなかった。大多数の諸侯は、政争に巻き込まれたくなかったのであろう。いずれも日和見を決め込み、上京を渋った 。
 公議政体論は確かに当時の正論そのものであった。しかし正論だけでは政治は動かないのも現実であった。又、帰藩した薩摩の小松が京に戻らなかったことも後藤の焦りを深めた。小松は武力討幕派と一線を画し、半ば公議政体派であった。しかし薩摩の国元で討幕一色になったとき彼は居場所がなくなったのであろう。足の痛みを理由に帰京してこなかったのである。後藤はここに至り、在京の諸藩主だけでも議政院を開設した方が良いと考え、行動を開始した。しかし彼は有力公家への工作に手抜かりがあった。朝廷の下、議政院を開くのだから、公家側の同調者が是非必要であったが、彼はそこには大きなパイプが無かった。これは大久保・岩倉のコンビに比べて大きなハンデとなった。徒に時を移すうちに西郷らのクーデター側が主導権を握ることになるのである。
五、西郷らの第二次クーデター計画の推移とその変更   
 ここに討幕派のクーデターに至るまでの行動を少し追ってみたい。
慶応3年
10月6日 岩倉と大久保初めて会談。王政復古を画策。太政官職制案を協議。
10月17日 薩摩小松・大久保・西郷、長州広沢・福田・品川それぞれ討幕の密勅を携えて帰藩。
10月27日、長州藩主毛利定広と安芸藩主浅野長勲が新湊で会見。安芸藩、出兵に同意。
11月13日、島津忠義、軍艦にて鹿児島を出発。藩兵3000名を満載。
11月16日、帰京した大久保は早速岩倉と会談。
11月18日、島津忠義と毛利定広の両藩主が三田尻で第二次出兵同盟を結び、芸州がこれに加わる。
11月25日、長州1200名出発。
11月23日、島津忠義兵3000名を率いて上京。
11月28日、芸州藩主浅野長勲藩兵300名を引き連れて入京。
11月29日、長州藩兵800名が西宮に布陣。
12月1日、西郷・大久保、岩倉らがクーデター計画を決定。
12月2日、西郷・大久保より後藤にクーデターの計画が伝えられる。決行の日を12月8日にしたいと告げた。
 以上、西郷・大久保らは伝家の宝刀、討幕の密勅を携えて帰藩し、精力的に久光らを説得し、薩摩藩を完全に討幕一色に統一することに成功した。
 彼らは当初、京を制圧し、幕兵、会津藩兵らの屯所を襲撃し、大坂城を焼き討ちする計画であった。しかし、京に進出すると、大政奉還を挙行した慶喜の名声が一気に上がり、又、土佐、越前、伊予を中心とする公議政体派の有力大名も議政院政治の開設に向かって運動していた。ここで薩摩はクーデター計画をそのまま実行することは、有力大名の支持を出られないと判断し、クーデター計画の変更を迫られることとなったのである。すなわち、幕府側への襲撃を断念し、御所制圧のみを実行することになったのである。
 しかし、この時期の慶喜の行動には分からないことが多い。なぜなら、大政奉還後の 議政院の開設に何ら積極的な手を打っていないからである。慶喜が積極的に議政院開設に根回しをしていたら状況はもっと違った展開になったと考える。何故それをしなかったのか。大政奉還に反対する幕臣達の説得に追われていたからか、あるいは将軍就任の際、周旋運動をやり、これが不評であったので下手に動いてあらぬ疑いを掛けられるより何もしない方が得策と考えたのか、あるいは既に原市之進この世に無く、彼の手足となって働くものがいなかったのか、そのあたりは筆者には分からない。
 尚、クーデターのタイムリミットは12月7日前後であった。これはまさに兵庫開港の期日である。欧米列強は兵庫開港による貿易開始で賑わう京阪地方が内乱になることには絶対反対であった。この意味で日本国内の政局そのものが欧米列強の思惑と政策に大きく影響されていたのである。
 
六、小括として大政奉還の歴史的意味
 では慶喜大政奉還はその後の歴史にいかなる影響を与えたのであろうか?
まず大政奉還によって、日本初の議政院の開設がいよいよ日程に上った。
これは画期的なことであった。日本人が平和裡に自発的に統治方法を変更する初めての試みであった。この時点で公議政体派の政治的立場が強化された。公論に基づくものだからこれには表だって文句を言うことは誰も不可能なのだ。
 また大政奉還によって自己の権力を犠牲にしてまで日本を平和裡に近代化しようとした徳川慶喜の名声も一気に高まったのである。
 しかし政治とは儘ならぬもので、結局、議政院は開設されないまま、薩摩が王政復古のクーデターを敢行してしまったことは何度も述べた。しかし薩摩も正論を展開する公議政体派の勢力を無視することも敵に回すこともさすがに出来なかった、というより、それが出来る状況ではなかったのである。
 先述したとおり、薩摩のクーデター計画は大幅な変更を余儀なくされ、当初の御所制圧、幕府主要機関への襲撃というスケジュールの内、前者のみを実行することになったのである。
 筆者は何故公議政体派の土佐、越前、尾張がクーデター政権に参加したのか長年分からないままであった。あまたの歴史書の解説を読んでも全然納得できなかった。しかし本号で紹介した高橋教授の論文でその疑問が氷解した。要するに公議政体派の勢力を無視できなかったクーデター政権に参加することによって、自らの政治的主張を貫くと共に、併せて徳川方との妥協を求めようとしたのであろう。
 またこれも当然の疑問だが、筆者は春嶽からクーデター計画を数日前に知らされていた慶喜が何故これを阻止しなかったのか全く理解できなかった。慶喜がこのときから既に機能不全に陥っていたなどと論ずる無責任な書物も散見する。仮に薩摩が当初のクーデター計画をそのまま実行しようとするなら、慶喜も決然と鎮圧に向かった筈である。しかし襲撃計画を止め、御所制圧だけを薩摩が決行することを知ったとき、慶喜は武力鎮圧を控え、とりあえず土佐・越前・尾張などの公議政体派の巻き返しを期待したものと推測する。それによって無用な武力衝突を回避できる、逆にクーデターをやった薩摩は政治的に孤立する、と踏んだのではなかろうか。 
 事実この後の政局は公議政体派が圧倒的に有利になり、クーデター政権を樹立した薩摩は逆に政権内部で孤立すらし始めたのである。この勢力関係が崩れ去ったのは鳥羽伏見の一発の銃声からであった。このあたりは次号以降で述べるとする。
 以上まとめると、薩摩クーデター計画の変更修正及びクーデター政権内での公議政体派の勢力回復拡大、この二つが慶喜大政奉還のその後の政局への影響であったと考える。
 

最後の将軍徳川慶喜の苦悩11高まる討幕運動と謀臣原市之進の死

始めに
読み易くするために今回は西暦対照表を付してみたい
元治元年 1864年
慶応元年 1865年
慶応2年  1866年
慶応3年  1867年
一、討幕運動の高まり
1、薩摩藩を中心とした討幕派の動向
 徳川慶喜による兵庫開港の宣言を契機として討幕運動が急速に高まっていった。四藩会議の分断は薩摩側の完敗であったが、西郷らはこの敗北により思わぬ収穫を手にすることになった。それは島津久光が幕府への反感を深めたことであった。保守的な久光は従来から公議政体論者であり、必ずしも倒幕に肯定的ではなかった。しかし、兵庫開港による貿易の利益を幕府に独占されることへの危機感、そして何よりも度重なる慶喜への政治的敗北が彼の反幕感情を強めたのであった。これによって西郷らは、日本最強の薩摩兵児を以前にも増してその傘下に組み込むことが可能となったのである。 
 慶応3年6月16日、久光は、長州の山県有朋と品川弥次郎を引見し、続く7月、村田新八を山口に派遣し、これからは長州藩と協力してやっていきたいとの考えを伝えた。これを受けて長州藩主の毛利敬親は、品川らを上洛させて薩摩側の真意を探らせることになったのである。そして8月14日には有名な西郷の挙兵計画が長州側に告げられた。
 同年8月19日、大久保一蔵は山口で長州候父子に会い、薩長二藩出兵協定を結んでいる。しかし、薩摩藩の国元では自重論も根強く、必ずしも藩論が「討幕」で統一している訳ではなかった。これは長州にしても同様で、禁門の変の苦い経験から藩内拠守の自重論も根強かった。
2、長州藩の軍事力培養
 長州が密貿易を通じて近代兵器を大量に購入し、その軍事力をひたすら培養してきたことは以前述べた。この近代兵器を売りつけたのはスコットランド出身の英国商人トーマス・グラバーであった。しかし長州は朝敵となっていて表舞台に立つことが出来ない。そこで長州は自藩の船舶を薩摩船籍とし、薩摩がグラバーから武器を買い付けこれを下関に運搬し長州が代金を支払うという方法をとったのである。この運搬を生業とした男こそ誰あろう坂本龍馬その人であった。グラバーは死の商人だから、龍馬はさしずめ死の商人の手先といってよいのではないか。日本中が彼をもてはやす昨今、龍馬を批判するのはやや気が引けるが、事実は動かし難い。また、例の「船中八策」を彼の独創的発想として世間は持てはやしているが、当時の知識人なら皆イギリスの議会制度や内閣制度を知っていたのであり、彼一人がこれを編み出した訳でも何でもない。
 グラバーについて言えば、節操などまるでない金のためなら何でもする恐るべき商人であった。彼は長州に100万ドル位ならいつでも用立てすると豪語している。しかし当時のグラバー商会は赤字であり、そんな金を用立てることが出来るとは考えにくい。時あたかも馬関攘夷戦争の巨額の賠償金を幕府が支払わされ、財政難にあえぐ幕府は後述する慶応元年9月の四国連合艦隊大阪湾侵入事件がきっかけで、翌慶応2年5月の江戸協約において関税自主権を放棄し、一律5パーセントの関税率を呑まざるを得なくなったのであった。大英帝国がこの多額の賠償金を取得した時期と英国商人のグラバーが100万ドルを融資すると持ちかけた時期が全く同じなのも偶然の悪戯であろうか。
 筆者は以前、関税自主権を放棄した幕府の外交は全く自主性のない無策そのものであったと漠然と認識していたし、あまたの歴史書もそのように記述している。しかし真相は、無責任な攘夷戦争をやった長州の後始末をさせられた幕府がその代償として関税自主権を失ったというのが実態である。一体長州は幕府を困らせることにおいては天才的であった。この指導者が誰あろう高杉晋作である。その手始めが、品川に新築したばかりの英国公使館焼き討ち事件であった。無邪気な若者の攘夷運動と言えばそれまでだが、その後、孝明天皇の石清水社行幸を強行し、次いで大和行幸尊攘派の公家と画策し、これが文久3年8月18日の政変で否定されるや、蛤御門の変を引き起こし、更にその極めつきが馬関攘夷戦争そしてそれに続く第1次及び第2次の長州戦争であった。幕府は最後まで長州に翻弄され続けたのである。
  しかし長州は、先述したように薩摩と行動を起こすことには抵抗感があった。それは蛤御門の変で敵対したことで、対薩摩不信感が長州ではなかなか拭えなかったからである。
3、土佐藩の動向
 こうした倒幕派の動きに危機感を持った土佐の後藤象二郎は、従来からの公議政体論(雄藩連合)をさらに一歩進め、大政奉還によって幕府に譲歩を引き出し、内乱を防止すべく積極的に周旋を開始したのであった。つまり彼は西郷に働きかけ、慶応3年6月22日、薩土盟約を締結させる一方、土佐藩主の山内容堂を説得して、将軍に大政奉還を具申するよう働きかけたのであった。
 西郷がなぜ長州と土佐の二股を掛けたのか?答は明らかである。彼の頭には「討幕」の一字しかない。土佐と同盟したのは、幕府に大政奉還など出来る訳がなく、ならば討幕だ!といういわば討幕の名目を土佐から取り付ける意図があったからではなかろうか。 ところが、である。後述するように慶喜は意表を突いて大政奉還に打って出て、西郷らを慌てさせたのは衆知の事実であるが、これは後述する。
 危機回避に奔走した後藤は、10月3日、老中板倉に容堂の建白書を手渡し、更には10日永井に容堂献策の実行を勧めている。この土佐藩の建白書の提出には慶喜も一枚かんでいたとみるべきである。なぜなら、9月20日および10月2日の二回に亘り、永井から後藤に対し、建白書を提出するよう催促がなされていることが分かっているからである。こんな大事なことを永井一人で出来る訳がなく、その奥には慶喜の意向があったと見るべきである。
 
4、パークス、サトウらの動向
 慶応3年4月、まさに慶喜が四国公使に兵庫開港を宣言した直後、サトウは大坂で西郷と面談し、「兵庫が開港されれば革命の機会は永久に失われてしまう」と述べている。 同年7月、再び大坂でサトウと接触した西郷は、幕府による兵庫開港を非難し、貿易の利益が幕府とフランスに独占される恐れがあると盛んに入説している。さらに西郷は「全国民の議会」を開くべきだ、などと述べている。 
 同年8月6日、パークスは土佐に入り、後藤と面会している。この時、パークスは大政奉還への土佐藩の考えなどを聴取していたのかもしれない。 
 さらに同年8月17日、サトウは長州へ赴き、木戸に、「志があるのに起たないのは、『ばあさんの理屈』といって西洋では嫌われる!」と述べ、暗に木戸らの決起を慫慂している。
 以上見ただけでも、英国がいかに薩長に肩入れしていたかが歴然とするのではなかろうか。これらの行動は内政干渉に等しいものであり、「従来言われてきたほど英国は薩長寄りではなかった」などと論ずる者の顔を筆者は是非見てみたい。しかも、パークスやサトウは彼らの独断ではなく、ほぼ本国の政策を踏襲していたのであった。明治維新の際、英国が他国よりも遙かに素早い対応をしたのもこの当時から抜け目なく情報収集していた成果であった。これに反し、ロッシュはほぼ幕府支持一点張りであり、しかもフランス本国では対日政策が転換され、彼が根無し草的存在になってしまったことはすでに述べた。
5、公家社会の動向
 (1)慶応2年8月26日、将軍不在のいわば権力の空白期間を利用して、大原重徳、中御門経之ら反幕派の公家22人は、列参を行った。
 この列参とは分かり易く言えば公家達の団体交渉のようなもので、大挙して参内し、孝明天皇に中川宮の退陣、朝政の刷新などを要求したのであった。徹底した佐幕派孝明天皇は激しく怒ってこれを退けたが、自前の権力を持たない天皇はどうすることも出来なかった。しかし慶喜が徳川家を相続することが決まり、同年10月16日、所司代守護職・老中を始め幕兵数百名を引き連れ、(洋装にて)堂々と参内するに及び、慶喜勢力が朝廷を掌握することとなり、列参に関係した公家達は同月27日処分謹慎となった。この列参を陰で操った人物こそ稀代の陰謀家岩倉具視その人であった。
 このように公家社会は佐幕派倒幕派に分かれていたが、やはり幕府の兵庫開港宣言を境として倒幕派の勢いが盛んになっていった。侍従鷲尾隆衆などは慶喜が参内したら刺し殺すなどと公言するようになり、かつてないほどの緊迫感が京都の空気を覆う中、同年9月21日、それまで気儘に若狭藩屋敷で生活していた慶喜は用心のため二条城に入城することになった。10月になると(後述するが)討幕派の公家は薩摩と結託して討幕の密勅を偽造し、これを薩摩・長州藩主に送る、という非常手段まで弄する事態になった。この討幕勢力の伸張はやはり後ろ盾の薩摩の力が朝廷に及んできたことを意味するのである。朝廷側の窓口は言わずと知れた岩倉具視である。彼の禁足が外れたのもまさに慶応3年9月であった。この岩倉と頻繁に協力して宮廷工作を行った薩摩側の代表者が大久保一蔵その人であった。王政復古を生涯の目標とした岩倉と討幕が至上命題の大久保はここに目標が一致したのである。
 (2)ここで孝明天皇について少し述べてみよう。    
幕末の政局が混迷した大きな原因は、孝明天皇安政条約の勅許を拒否したことによるものである。この条約は水戸斉昭すら調印止むなしと認めていたものであり、幕府は勅許取得によって国論を統一しようとしたのである。鎖国を断行した幕府は開国もその独断で行うのが論理的な筋道というべきであろうが、そもそも幕藩体制そのものが構造上対外的な挙国一致の体制ではなく、外国に団結して対抗するためにはやはり勅許が必要だったのかもしれない。まして権力が衰えた幕府においては尚更であった。しかし孝明天皇は、一度も異人に蹂躙されていない皇国日本が他国に屈服することは皇祖皇宗に対して申し訳がないという一途な思いを貫き、神威により外患を吹き払うことを伊勢神宮に祈願している。古代以来の農耕国家の伝統ある祭主としての本来の姿だ、といえばそれまでだが、この孝明天皇の勅許拒否が幕末政局の混迷の第一歩となった。
 すなわち、諸藩が幕政につけ込む隙を与え、かつ尊皇攘夷運動が激化するきっかけとなったのである。そして、幕末政局の中心は永久に江戸から離れ、維新による決着まで京都がその中心となった。佐幕派の筆頭の孝明天皇にとって幕府権力が衰えることは全く不本意で皮肉な成り行きと言うほかはない。孝明天皇の二大信念は攘夷(鎖国復帰)と政治の幕府委任(佐幕)だったからである。
 しかし遡ること慶応元年9月16日、パークスほか四国代表が座乗する九隻の英仏米蘭の四国連合艦隊(内訳は英4隻・仏3隻・蘭1隻・米国は偶々日本に軍艦を逗錨していなかったため英国から1隻借用して自国の軍艦とした)が、安政条約勅許・輸入税率軽減等を要求して大挙して大坂湾に侵入するという大事件が起きた(これを名付けて、「四国連合艦隊大坂湾侵入事件」)。そもそも文官である外交官達が軍艦に乗って現れること自体が尋常ではなく、これはまさしく恫喝外交そのものだったといえまいか。
 彼らが大坂湾に侵入したのは、第二次長州征伐のため将軍家茂が大坂城まで出陣しており、彼の幕閣もそれに従い大坂に来ていたからである。パークスらは、この際外交上の諸懸案を幕閣に突きつけ、それらを一気に解決する意気込みであった。又、仮に交渉が不調に終われば、「朝廷と直談判をする」という伝家の宝刀を幕府に突きつけ、その泣き所を攻めるつもりであった。大久保一蔵らを中心とする薩摩藩士は条約勅許を阻止すべく反幕派の公家達に盛んに入説していた。大久保らはあわよくばここで幕府の外交権を奪う魂胆であった。
 しかしこの時の慶喜の行動は目を見張るものがあった。危機迫るとみた慶喜は10月4日、決死の覚悟で天皇に条約勅許を迫り、同月5日、天皇は苦渋の決断で条約を勅許し、危機は一旦去ったのである。まさに慶喜の一昼夜に亘る奮闘の結果であった。
 この条約勅許によって、天皇の「攘夷」の信念は変更せざるを得なかったが、天皇の佐幕すなわち幕府支持は一貫していた。天皇徳川慶喜に全幅の信頼を置き、権謀術数が得意の慶喜天皇に対しては、(この条約勅許事件や長州征伐取り止め事件などで何度か天皇の怒りを被ることはあっても)その赤心を貫いていた。そして「幕府がいかに衰えようとこの帝がおわす限り討幕などあり得ない!」というのが佐幕派の強みであった。しかし慶喜が将軍に就任してわずか20日後の慶応3年12月25日、孝明天皇が急逝された。まことに言い難いことだが当時から毒殺説が囁やかれていた。天然痘に罹った天皇は回復も順調で、27日には全快祝いをする予定であった。この不自然な急死が当時から暗殺説の原因となったのである。筆者があれこれ推測するのは当然差し控えたいが、一つだけ言えることは、孝明天皇が健在である限り、討幕の偽勅を出したり、王政復古のクーデターを挙行するなどあり得ない話である。ましてや鳥羽伏見の戦いで錦旗を出して、慶喜を賊軍にしてしまうなど夢のまた夢であろう。
 こうしてみると討幕派にとって孝明天皇がいかに大きな障壁であったかが一目瞭然である。一番疑われているのが誰あろう岩倉である。石井博士はこの岩倉主犯説を主張している。又、反幕派の正親町三条実愛はその日記に「中外遺恨」と記している。これは列参の処分に対する遺恨の意味であろうか?
 しかしいくら論じても分からないものはわからない。石井博士の言を借りれば、孝明天皇は反維新に殉じたのかもしれない。
二、原市之進の死
 こうした状況の中で、慶喜の側近ナンバーワンの謀臣原市之進が慶応3年8月14日暗殺された。この日の朝、髪を結わせていた彼は、二名の来客が面会したいということで、隣室に通すと、その刺客二名はいきなり襖を踏み破って切りつけ、原の首級を上げたのである。自首した下手人は鈴木豊次郎と依田雄太郎、なんと江戸から来た旗本であった。暗殺の理由は、「慶喜に取り憑いた狐が兵庫開港をそそのかした」というもので、慶喜の政策を全く解さない守旧派の旗本であった。以前にも述べたが、江戸の旗本は危機意識が希薄で、守旧派が多い。元治元年6月に暗殺された前任の平岡円四郎も江戸から来た旗本の手にかかったのである。この事件の首謀者は山岡鉄太郎、松岡万、関口隆吉であり、いずれも有力な旗本達であった。山岡らは原暗殺の後、「そんなに立派な男だったとは知らなかった」と反省しているが、もう死んだ者は生き返らない。この軽々しい反省自体が腹立たしいことだ。後に山岡は成長し、西郷・勝の会談の地ならしに単身駿府に乗り込んで江戸無血開城に一役買っている。その後は、明治天皇の侍従になり、天皇に信頼されることしきりであった。臨終に際しては座禅を組んで逍遙として死に就いたといわれ、彼の人格を讃える声を多く聞く。しかし、である。筆者は彼が後年どんなに人格者になろうと、いかに立派な人だろうとそんなことはどうでもよい。到底、原暗殺の負の遺産を償い切れるものではないからである。
 原が暗殺された時の慶喜の落胆は尋常ではなかった。常に理知的で、感情を表に出さない慶喜が人前も憚らず泣いた。それほど痛手だったのである。
 薩摩藩への慶喜側の窓口は唯一この原であった。つまり対薩摩交渉は原が一手に引き受けていたのである。その際の薩摩側の窓口は家老小松帯刀であった。また、宮廷工作も彼の仕事であった。この際の薩摩側のライバルはまさに大久保一蔵であった。さらに、対仏600万ドルの借款も小栗ではなく原の発案だという説(神長倉真民氏)もあるほど、優秀かつ行動的な男で、まさに慶喜の手足そのものであった。慶喜大政奉還に踏み切ったのは原を亡くして先行きの行動に不安を感じたからだという説すらある。
 ところで、謀臣とは私設秘書のような者で、元来家来が少ない慶喜にとって原は最も頼りになる存在であった。松平春嶽などは慶喜に同情し、「お気の毒だ」と述べている。この原は水戸出身で手のつけられない攘夷論者であったが、慶喜に仕えるに及び、忽ち慶喜に心酔し、彼の手足となって獅子奮迅の活躍をし、「栄進日に三遷す」と言われるほど慶喜の元でその能力を振るったのであった。これが凡暗の守旧派に恨まれ、しかも理解されないまま暗殺されたといえる。
 守旧派は本来的に慶喜のやっていることを最後まで理解出来ずにいた。江戸と京都で離れていることもあり、そもそも守旧派慶喜嫌いが多い。江戸の旗本達は慶喜を「二心殿」とか「豚一殿」などと呼んで、憎悪の対象とした。前者は二心ある殿、後者は豚肉好きの慶喜を皮肉ったものである。更には地べたに「一橋」と書いて、放尿する者もいたようだ。
 そもそも論だが、この「謀臣」は慶喜には絶対必要な存在であった。なぜなら、小栗忠順はきわめて優秀だが、彼は勘定奉行という歴とした幕府の官僚である。永井尚志にしても同じことで、表役人の彼らは水面下の工作など出来ないし又そんなことをする気もない。これらの行動を一手に引き受けていたのが原であった。慶喜にはもう一人梅沢孫太郎という謀臣がいたが、彼はどちらかというと平和的な仕事を引き受けていたようである。そのためか無事に明治まで生き延び、何ら語らず死んでいる。見事な生涯と言えよう。
 いずれにしても慶喜とって原の死はその行動力をきわめて削がれることとなり、これから討幕派と乾坤一擲の大勝負をしようというまさにその時、原の死は大きな痛手となったのである。
 話がやや逸れるが、慶喜を批判する者がよく「慶喜は冷たいので、彼を慕う者がいない」とか、「彼の手足になって粉骨砕身する者がいない」などと言う。これは彼の政治家としてのキャリアの経緯を無視した軽薄な説と言わざるを得ない。
 そもそも慶喜外様大名に後押しされて朝廷の意向で将軍後見人として政治出発している。勅命を奉じた大納言大原重徳が、島津久光率いる屈強な薩摩藩兵700名に守られて江戸に押しかけ、慶喜将軍後見職就任を迫ったのである。幕府はこの圧力に屈して止むなく慶喜将軍後見職に就任させた。面白くない幕府は、「叡慮により」と但し書きをした上で慶喜将軍後見職就任を認めたのである。一橋家は江戸城中に住み、徳川家の家族である。この当主の慶喜が外様藩の圧力で後見職に就任させられたのであるから、慶喜は幕府部内で居心地の良い訳がない。しかも久光は帰藩の途中、横浜で有名な生麦事件を起こしている。幕府にとってはまさに泣きっ面に蜂であった。この政治デビューからして彼は不幸な出発をしたのである。それも慶喜の意思とは全く関係ないところで進展したのであるから気の毒と言うほかはない。つまるところ彼は、その政治出発からして幕府の連中からは疎まれる存在であったのである。
 その後上京した慶喜は、京都で政治家として活躍を始めるのであるが、そもそも彼は将軍の家族に過ぎないから自前の組織を持っていない。これは同時代の島津久光松平春嶽山内容堂らに比べて大きなハンデとなったのである。この状況は元治元年3月、禁裏守衛総督となってからも変わることはなく、何をするにも結局、彼は組織としての会津・桑名の藩兵を頼るほかなかったのである。そして(嘗て家茂と14代将軍の座を争った)将軍より優秀な将軍の家族として、江戸の守旧派に憎まれ続けた。慶喜会津・桑名は「一会桑」と呼ばれ、京都で一大勢力をなし、江戸幕府から半ば独立したような観を江戸の守旧派に与えた。これは決して慶喜の望んだことではなかったが止むを得ないことであった。
 このようなキャリアの中で、謀臣は数少ない慶喜の側近であった。彼らは皆慶喜の手足となって働き、頑張ったのである。
 古い話だが、筆者が若い頃、綱淵謙錠という作家がいた。彼は慶喜に恨みでもあるかのように慶喜批判をした。そして慶喜の評伝や座談会の席で、「神祖家康が『君臣水魚の交わり』という逸話がこれでもか!と言うほどあるのに、慶喜にはその手の話が全くない。要するに慶喜は冷たくかつ人間的に魅力のない人だ!」と断じている。綱淵氏は果たして慶喜の政治家として置かれた条件を承知の上で自説を述べていたのであろうか?
 更に脱線するが、筆者は最近、歴史小説とは何か?と大いなる疑問を持つようになった。例えば、筆者は司馬遼太郎が嫌いではない。特に「燃えよ剣」は大好きで、台詞も暗記したほどである。これを26回シリーズでドラマ化した同名のテレビ時代劇も傑作であった。この中で箱館政府陸軍奉行の大鳥圭介が出てくる。彼は幕府陸軍のエリートではあるが、司馬氏の小説では、実戦経験がなく臆病で小心な男として扱い、無敵のヒーロー土方歳三の引き立て役に終始している。その極め付きは、大鳥が苦し紛れに箱館町民から税を取り立てようとして、土方が「止めとけ、悪名を残すだけだ」と言って、徴税を止めさせるくだりである。しかし、史実は逆で、真相は土方が徴税しようとしたのを大鳥が止めたようである。小説だ!といえばそれまでである。しかし、小説とはいえここまで事実をねじ曲げて良いのか?しかも司馬氏のように国民的人気作家が、という疑問を禁じ得ない。大鳥圭介の子孫の人達はこの小説を読んでどう思うか?決して愉快ではなかろう。 
 歴史小説を書いて印税を受け取りそれを生業とする者は歴史に対して謙虚であるべきではなかろうか。す既に亡くなり、何ら反論できない偉大な先達を自分の書き物の材料にする小説家はせめて死者に敬意を払うべきであろう。<況んや評伝においてをや!>である。
 ちなみに大鳥圭介はのち罪を許され、清国全権公使さらに学習院長を務め、天寿を全うしている。実に立派な生涯であった。
 筆者は最近「徳川昭武幕末滞欧日記」という第一次資料を入手した。慶喜の弟徳川昭武がパリ万博に将軍名代としてフランスに渡った時の日記である。慶喜はフランスで昭武に欧州の最新知識を学ばせ、後の日本近代化の人材として役立てようとしたのであろうか。この日記では慶喜の昭武に宛てた書簡が二通披露されている。そこには異国にいる弟を思い遣る兄の暖かい心情が簡潔で格調高い文体から滲み出ていて、筆者は思わず嬉しくなった。又、晩年の慶喜の写真が多く載っている「微笑む慶喜」という最近出版された書物では、やや寂しげだが、大勢の家族・一族に囲まれて、安堵の表情をした慶喜を見ることが出来る。第1次資料確認の重要性を認識することしきりである。 
 
 三、討幕運動が急速に激化した理由
 しかし、何故このような短期間に急速に討幕運動が盛んになったのであろうか?やはり、以前にも述べたように、慶喜が慶応3年5月23日に兵庫開港の勅許を取得し、同年6月7日、「慶応3年12月7日兵庫開港・大阪開市を行う」と国内に布告した時がターニングポイントではなかったか。
 つまり、一旦兵庫開港がなされ、貿易が順調に始まってしまえば、諸外国は英国も含めて日本の内乱を絶対に望まない。貿易の邪魔になるからである。しかも、姑息な密貿易なども影を潜め、その必要もなくなる。幕府は大いに潤い、反面、西国諸藩は、(幕府が糾合した鴻池らの大阪商人に多額の借金があるから)全く頭が上がらなくなる。サトウが言うように、革命の機会は永久に去るのである。要するに財政面で体勢を立て直した幕府は、幕藩体制を廃止して郡県制を敷き、徳川の手による全国統一に乗り出すであろうことが目に見えてくる。
 以前にも述べたが、3年もすれば兵庫開港による幕府の関税収入は軽く100万両を超えることになる。当時世界最高水準の開陽丸の建造費用は約50万ドルであり、為替レートで換算すると375000両となる。極端な話、幕府は、十分な武器弾薬を満載した開陽丸級の戦艦を毎年2隻づつ就役させることが可能となる。これでは幕府と反幕勢力の軍事的優劣は勝負にならなくなる。こうした結論は長年幕府と敵対関係にあった長州には我慢が出来ないことであり、討幕が至上命題の西郷らにも到底容認することが出来なかったのである。要するに慶応3年6月7日の段階に至り、日本近代化のヘゲモニー争いがいよいよ軍事衝突の危機に至る状況まで高まったのであった。
 しかし何故薩摩・長州はこれほどまでに討幕に拘わったのであろうか?彼らが近代を目指し、徳川側が因循姑息であったなどというのは後世の虚構に過ぎないことは明らかである。そもそも薩摩・長州の手による近代化が優れ、徳川に手による近代化が劣っているなどとは当時の識者も全然考えていなかったはずだ。では彼らが武力を使って血を流してまでも討幕に固執したのは何故であろうか?先述したように、このままではじり貧となることが明らかなので打って出た、と言えばそれまでだが、やはり彼らの討幕心情の根底には関ヶ原以来の恨みがその底流にあったのではなかろうか?
 長州藩における正月の儀式は、家老が「殿、徳川討伐の準備が出来ておりまする」と言上し、毛利公が「まだその時期でない」と述べることから始まったという。つまり関ヶ原の恨みが250年続いていたのである。中国地方150万石の所領を誇った長州藩関ヶ原の敗戦で防長37万石に封じられたのであるからその不満は尋常でなかったのかもしれない。名門薩摩藩にしても、その心情は同様で、「徳川何するものぞ!」の気概に溢れていたのではないか。江戸時代の幕藩体制は基本的に1615年武家諸法度が制定された段階で確定・固定し、そのまま幕末へ続くから、藩士の心情もその時点で固定され幕末までそのまま引き継がれていても可笑しくはない。
 しかし、だからといって「流血の討幕に大義名分があるのか?」と正面から問われれば、筆者はその妥当な回答を見出しにくい。
四、討幕運動の本格化
 慶応3年9月に入ると芸州(広島浅野氏)も討幕派に加わり、20日には薩摩・長州・芸州の三藩は出兵の盟約を交わし、いよいよ挙兵討幕が実行に移される段階にまでなっていた。しかしその後、三藩とも複雑な藩内の事情もあって実行は延期されていた。
 あまり目立たない存在だがここで芸州について一言。
第二次長州征伐の際、幕府代表の小笠原長行は幕府との仲介役であった芸州(広島藩)のメンツを丸潰しにするなど数々の失態を犯した。この時の幕府に対する芸州の不信感は相当なものがあった。又、地政学的に長州の隣藩である芸州は長州に同情的であったし、何よりも長州と事を構えたくなかったのではあるまいか。これらが芸州をして討幕派に参加した理由ではあるまいか。
 ついでながら、小笠原という人は、外交にはかなりの業績を上げ、対外交渉に関する慶喜の信任も厚かったが、長州征伐では手酷い失策をしてしまったのである。
 話を元に戻そう。こうした膠着状況を打破したのがいわゆる討幕の密勅である。10月に入り、薩摩大久保一蔵、長州品川弥二郎及び岩倉具視は討幕・王政復古を目指し諸藩を糾合するため、討幕派の公家中山忠能、中御門経之、正親町三条実愛の協力を得て、岩倉の腹心で国学者の玉松操にいわゆる討幕の密勅を作成させたのであった。この文書は、上記三人の署名しかなく、天皇の裁可もなければ摂政の承認もない偽勅そのものであったが、これが10月13日薩摩・同14日長州に交付されるに及び、薩摩と長州の出兵は半ば正当化されることになり、ここに討幕派は勇躍軍事行動を開始することになったのである。ただこの密勅が薩摩・長州に手渡されたまさに10月14日、慶喜大政奉還の上表書を朝廷に提出したので、討幕派は軍事力行使を見合わさざるを得なくなり、討幕計画の練り直しをせざるを得なくなったのであった。
 それにしても、政権転覆(討幕)という目的のために、天皇詔書を偽造するというのだから前代未聞、日本史上空前の文書偽造事件と言わざるを得ない。今日世上を騒がせている某省庁の文書改ざん問題などはこの偽勅と比べたら屁のようなものである。大久保らは王政復古を標傍し、事あるごとに自らを勤皇無二の雄藩などと表現しているが、果たして彼らに真の天皇への尊敬の念があったのであろうか?しかもこの偽書は激烈というかエゲツない。「詔す」から始まり、「賊臣慶喜を殄戮せよ!」と書いてある。いくら何でも「賊臣」はあり得ない。まして「殄戮」とはひどい表現だ。浅学の筆者には聞いたこともない古語だが、広辞苑によれば「殺し尽くせ!」ということだ。孝明天皇が聞いたら失神する程驚いたのではないか?討幕派の陰険かつ無法な討幕感情の露出そのもののようである。
 一国の体制が変わるとき巨大なエネルギー(およびそれに付随した陰謀)が働くのは古今東西変わらぬ現象だが、このような稀代の偽書を生み出すのは世界史上希ではなかろうか。 目的のためには手段を選ばない人には敵わないというべきか。
 
五、将軍慶喜の対応
 このような急速な討幕勢力の結集は慶喜にとって想定外であったと推測される。この時期幕府は優れた諜報網を保持していて反幕勢力の動向を逐一把握していた。そうすると慶喜は何よりも土佐の動向が気になった。なぜなら、仮に土佐が討幕に動けば、行き掛かり上、越前も討幕に傾き、尾張・肥後も危ない。こんなに多数の藩が討幕側に回れば、仮に軍事衝突となって幕府が勝利したとしても、現政権側の幕府の痛手は大きく、その政策を完遂することが困難になることは明白である。何よりも、下手をすると内戦になりかねない。当時、欧州列強がその帝国主義の触手をアジア全域に伸ばしている状況において、慶喜は内乱だけは何としても回避したかったのではなかろうか?
 慶応2年12月9日の将軍就任以来、慶喜は一貫して従来の親仏幕権派の路線を踏襲拡大し、徳川絶対主義の路線をひた走ってきた。それは具体的には、内閣六局制の導入、陸軍の充実(具体的には、幕府歩兵の整備)、兵庫開港宣言、更に対仏600万ドルの借款等であった。 しかし、これらの政策の成果が出る前に討幕勢力の結集が進みそうな状況になってきたのである。また、対仏600万ドルの借款が不調に終わったことも慶喜にとっては大きな誤算かつ痛手であった。
 こうした状況の中で、慶喜は内乱防止のために大きな判断を迫られる状況に直面したのである。具体的には先述した土佐藩の動向である。当時の土佐藩は藩論が未だ定まらず、右派、左派、中間派に分かれていた。藩主山内容堂慶喜に同情的で公議政体論者であったが、左派は坂本龍馬等と志を同じくして討幕派であった。中間派で一代のオポチュニス後藤象二郎は、内乱勃発を憂い、容堂に働きかけて慶喜大政奉還の上申書を提出するよう説得した。先述したように、薩摩が政局を牛耳ることを快しとしない山内容堂慶喜大政奉還を具申し、薩摩の討幕の大義を摘み取るべく周旋に動いた。
 慶喜はこの容堂の具申を絶好の好機と捉え、まさに幕府の命運を掛けて大政奉還に踏み切ったのであった。 慶喜大政奉還の挙行によって、幕末政局は一気に流動化し、日本近代化のヘゲモニー争いは、新たな局面を迎えるに至ったのであった。
 執筆後記: 
 一昨年8月に10号を執筆してから随分間隔が空いた。大政奉還直前の幕府と薩摩との緊迫した鍔競り合いはなかなか記述しづらいものがある。資料の確認も難渋な作業だ。この間、私的事情もあって着手が遅れてしまった。出版社に原稿提出の期限を迫られる作家等はかなり辛い職業であるとつくづく思う。
 この企画は大政奉還から始まったので、二年掛けてやっと大政奉還に戻ってきたわけである。この後の予定だが、大政奉還およびその後の政局、王政復古のクーデター、そして鳥羽伏見の敗戦と慶喜の没落を取り上げて一応終わる。慶喜の余生についても少しだけ触れてみたい。 

ルンバ王ザビア・クガートが紡ぐ名曲ビギン・ザ・ビギン

もし仮に絶海の孤島で生活することを余儀無くされ、2作品だけ歌舞音曲を持っていくことが許されるとしたら、私は迷うことなくザビア・クガートが演奏するビギン・ザ・ビギンを選ぶ。それも1954年に吹き込んだアルバム「CUGAT`S FAVORITE RUMBAS」に収録された演奏に限る。
 もう1作は、これも迷うことなくベートーベンのスプリングソナタだ。それもクライスラーの演奏に限る。ニーナ・アナニアシヴィリの白鳥姫も良いのだが、如何せんニーナ様の美脚を絶海の孤島で拝むのはやや辛かろう。 他には11代目市川団十郎の名舞台、助六由縁江戸櫻も捨て難いが、まあこれは自宅で一杯飲みながら観劇したい。
 私がザビア・クガートのビギン・ザ・ビギンを知ったのは高校生の時であった。音楽好きな兄がこのアルバムを買ってきてよく聴いていた。私は耳にした瞬間からこの曲・この演奏に魅せられた。何しろルンバのリズムに乗った心地よいメロディとシンプルでありながら多彩な演奏が美しく、しかもエキゾチック。あらゆる想像力をかき立ててしまう。何度聴いても飽きない。当時、兄にせがんで、何度もこの曲をプレーヤーに掛けてもらった。 
 話は飛ぶが、「泥棒成金」というヒチコックの洒落た映画がある。舞台はニースだったか、花火のシーンがあり、そこでグレース・ケリーケーリー・グラントの素敵なラブシーンがある。何しろ美男美女だからたまらない。このバックに流れる音楽もとても効果的だったが、仮にビギン・ザ・ビギンを流してもしっくりしそうな気がする。この演奏、ジャンルを超えて素晴らしいのだ。当時無知な私はこの曲、ザビア・クガートのオリジナルと思っていた。というより、そもそもそんな詮索はしなかった。かなり後年になって、コール・ポーターの作品と知った。
 脱線するが、私が中学に入る頃からベンチャーズが大人気になっていた。実は私もベンチャーズのファンだ。1965年に来日したときはテレビにかじりついて見ていた。ベンチャーズは、ライブの最後に必ずアンコール曲として「キャラバン」を演奏して会場を盛り上げる。この曲、スタジオ録音盤も出色で、リードギターのノーキ・エドワーズの超絶技巧が冴えわたるのである。ギターを演奏しない者も,当時のファンは皆、口で「テケテケ」と真似たものだ。このキャラバンの編曲が実に素晴らしいので、当時のファンは皆ベンチャーズのオリジナルと思っていた。デューク・エリントンの名曲だなんて知っている人は少数だったのではなかろうか?
 話を戻したい。このビギン・ザ・ビギンはその誕生からして名曲たる下地が整っていたというべきではあるまいか?大作曲家のコール・ポーターが1935年にパリで作曲し、同年のミュージカル「ジュピリー」で初めて唄われた。しかし当時はさして評判とはならず、その後、クラリネットの名手、アーティ・ショウがビッグバンドで演奏し、記録的ヒットとなって有名になった。以来、多くのアーティストが唄いあるいは演奏している。
 コール・ポーターは、カリブ海に浮かぶマルティーニ島の「ビギン」のリズムにヒントを得てこの曲を作ったという。「ビギンを始めよう!」という洒落た曲名を付けたのだ。要するにアメリカ人がラテン風の曲を作ったのだから曲の成り立ちからしてエキゾチックでしかもグローバルな要素を包んでいるのである。この曲を演奏し、あるいは唄うとき、ラテン系のものとジャズあるいはポップス系のものに分かれるのも当然なのかもしれない。
 ジャズ・ポップス系の唄は有名アーティストが並ぶ。ビング・クロスビーフランク・シナトラ、ペリー・コモ、ジョ-・スタッフォード等々まるでアメリカの軽音楽史そのものだ。それだけこの曲は多くのアーティストにとって魅力があるのだろうか?
 ラテン風の唄い方では、我々にはあまり知られていない歌手が多い。最近知ったのだが、Mario Lanzaという歌手なんか素晴らしい。演奏だけなら、ポップス系でやると、ほぼムード音楽そのものとなる。ジャズならアーティ・ショウに代表されるようにほぼビッグバンドのスウィングだ。
 また話が飛ぶが、コール・ポーターの伝記映画が1946年に作られ、このラストシーンで白い服を着てソンブレロをかぶったメキシコ系の歌手がこの曲を唄っている。この歌手の唄も素晴らしいのだが、残念ながら名前が分からない。
 このラストシーンは愉快だ。何しろラテン系の衣装を身にまとった青い目の白人の俳優達が大挙してカリブの現地人に扮して出てくるのである。これは東宝の特撮映画「モスラ」で、南方の島の現地人がモスラの卵をあがめるシーンがあり、それが全員日本人で、当時これを見た私は、子供ながら可笑しく感じた記憶があるが、似たようなものだ。
 この曲、歌手にとってはかなりの難物ではないか?メロディが意外と単調でしかも起伏が緩い。なのに歌詞が長い。なかなかドラマチックに歌い上げることが出来にくい。この曲が何度聞いても飽きないのは、この単調で緩い起伏のためかも知れない。しかしそれはそのまま唄いにくい理由でもあるのではないか?
 ジャズ・ポップス系、ラテン系の何人もの名歌手の歌を聴いたが、ドンピシャの感動が湧いてこない。意外なのがエラ・フィッツジェラルドだ。彼女のことだから原曲が分からなくなるくらい崩して唄うのでは?と思ったら何と端正で声量豊か!ただその分、面白みがない。大御所エラをもってしても崩して唄うことが出来ないのだろうか?ちなみにフリオ・イグレシアスというスペインの歌手がこの歌をリバイバルさせたのは、1980年頃であったろうか?リバイバルさせた功績は称えたいが、まあ私は一度聴けば十分だ。
 結論を言うと、誰の唄を聴いても大きな感動がない。結局ザビア・クガートの名演に尽きるのである。これは奇妙な現象だ。元々歌詞無しの曲なら分かる。たとえば誰でも知っているビクター・ヤング楽団の名演奏「エデンの東」や「ムーランルージュ」に歌詞を付けても、取って付けたようで、決して「演奏だけ」には及ばないだろう。これは歌曲にも言えることだ。別コーナーで紹介した「君は我が全て」や「エンブレイサブルユー」は唄無しでは全然面白くない。しかし、である。「ビギン・ザ・ビギン」は初めから唄有りの曲なのだ。なのに心に滲みる名唱がない。ザビア・クガートの演奏が素晴らし過ぎるからなのか、それとも先に述べた理由で、どんな歌手の表現力を持ってしても唄いこなせないのか?私には分からない。一つだけ言えるのは、それほどザビア・クガートの演奏は素晴らしいということだ。
 この歌日本人には絶対歌えないと思っていた。しかし最近Unosukeという人が唄っていて、外国人に遜色がない。グローバル化は難攻不落のこの歌にまで来たのだろうか。
 話が再び逸れるが、こういう話はあまりしたくないが、コール・ポーターは女性に興味が無い人であったらしい。彼の妻も結婚する時それを知っていたが、彼の才能に惚れ込んでそれを承知で結婚したらしい。私は見ていないが、最近(といってももう10年くらい前)上映された「五線譜のラブレター」という映画でもその件りが紹介されているようだ。ただ私が言いたいのはそんな事ではない。この曲の詞は正に男女の心の機微を唄ったものだ。女性に興味が無い者がこういう詞を書けるのか?私には全くの謎である。
 又、コール・ポーターは勿論大作曲家であるが、フツーの日本人にはやや取っつき難い曲が多い。「夜の静けさに」や「夜も昼も」はメロディが親しみやすいが、彼の代表作「帰ってくれたら嬉しいわ」「私の心はパパのもの」「あなたはしっかり私のもの」「ジャスト・ワン・オブ・ゾーズ・シングス」等々、皆軽妙でお洒落だがメロディラインがやや分かり辛い。やはり日本人には旋律がはっきりした曲の方が受けるようだ。
  ところで私は、この「CUGAT`S FAVORITE RUMBAS」のCD盤を入手するにはかなりの労力を要した。家を出て独立するとき兄がザビア・クガートのLPレコードの演奏を集めてミュージックテープテープに編集してくれたので、それを時々聴いていた。しかしやがて自分のCDを備えたくなり、レコード屋でザビア・クガートのCDアルバムを何枚か買った。ところがこれらは皆、他の曲を含めて、耳を疑いたくなるような演奏ばかりであった。ザビア・クガートのことはいずれ別コーナーで掲載するつもりだが、彼のキャリアは1933年から1972年位までだが、その全盛期は1960年初めまでだ。日本に出回っているCDは彼のキャリアの最後半のものばかりで、全盛期の演奏には全くほど遠い。私は切歯扼腕した。こんな録音ばかり残したのでは彼のキャリアを汚すのではないか?と。やはり彼の演奏の全盛期は管楽器だけでなく弦楽器も豊富に入っている。この録音でないと私は満足できない。
 ビギン・ザ・ビギンに限って言えば、私の知っている限りでは5回録音している。そのうち名演は2回だけだ。
 一つは1935年の録音でこれはかなり出回っている。この演奏、やや荒削りだが悪くはない。驚くべきは「1935年」というこ
とだ。つまり、コール・ポーターが発表して直ぐこの名曲に注目したのである。凄い慧眼だ。 
 もう一つが、冒頭からずっと拘っている1954年の演奏だ。私はこれを凌ぐ演奏はもう出ないと確信している。                                           
 話を戻そう。この録音を探していた私は、いつの間にか、インターネットで3ヶ月置き位に「ザビア・クガート」をチェックする習慣が出来てしまった。その執念が通じたのか、忘れもしないが、もう13年ほど前の7月のことである。例によって、インターネットでダメ元で探していると、突然BARNES& NOBLEという会社のCDが画面に飛び込んできた。しかも何と試聴できるではないか! 私が随喜の涙を流したのは言うまでも無い。更に調べると、彼の全盛期の録音を満載したCDを沢山販売している。ネットが苦手な私は娘に頼んでこれを注文しまくり、14枚ほど買い込んだ。そしてやっと念願の1954年の録音盤を入手したのであった。 この年私は暮れの12月まで、毎日夜になるとザビア・クガートの演奏をほろ酔い加減で聴き続けた。手持ちぶさたなのでマラカスを買い、これを振りながら聴くことが多かった。
 この演奏が何故そんなに素晴らしいのか?これは聴いてもらうしかないのだが、ちょっとコメントしたい。
 フルートの独奏から始まり、男達のワンコーラスが実にエキゾチックで効果的だ。やがて弦楽器の演奏が始まり、トランペットの独奏に繋ぐ。後半は、洒落たピアノ独奏、そしてヴァイブも加わって、フルバンドで実に豊かに終章へ向かい、最後はフルート独奏で終わる。そして演奏の全編に亘りマラカスとボンゴがリズムを刻み、ベースがズンズン腹に響く。つまり単調で緩い変化のメロディを様々な楽器で演奏し、耳に心地良く伝わるようにしているのであろうか。何度聴いても飽きないのはこのためだ。
 ところで一時、ザビア・クガートの演奏をこの曲も含めて聴かない時期が数年ほど私にもあった。個人的な事情もあり、あまりにも脳天気な演奏を聴く気になれなかったのだ。しかし最近再び聴き始めた。やはり良いものは良いのだ。多分これからも(生きている間はずっと)聴き続けるのではないか?こんな名演奏に巡り会ったのは僥倖というべきだし。